第10話

 どれほど、今が続いて欲しいと思ったところで時間は過ぎていく。どれほど、傷心を抱えたところで、日常は地続きに繋がっていく。

 古宮さんに追い返された翌日には、私に対する奇異の目は増していた。いつも通りに振る舞っていても、周りがいつも通りに見てくれるとは限らない。昨日の古宮さんとのやり取りが何だったのか。当然聞かれたから、所々、ぼかして話す。

 気が合うと思って、遊びに行ったけれど、あまり上手くいかなくて、仲良くなれなかった、と。核心には触れず、でも、事実だけは押さえて。誰にでも理解しやすいように、形を整えて話す。


「海月がダメだったんなら、もう、この学校の誰でもダメじゃん」


 けれど、整えた形は粘土のようにこねくり回されて、形を歪めていく。昨日のことは何もなかったかのように、するり、と元の場所へと収まっていた。ほんの少し、古宮さんの評判と引き換えに。やっぱり空気が読めない、だとか。自己中、だとか。乾いた嘲笑とともに。

 視線が知らず、引き寄せられる。黒絹糸が流れている。どんなに一人でも、どれだけ孤立していても。美人に視線が向いてしまうのは、どうしようもない本能みたいなモノで。古宮澄という人物が教室に入ってくると、瞬き一つ分以下の刹那、水面の波紋が消える。


「おっ、ご本人様登場じゃん」


 人の不幸、私の失敗は、話の種に丁度良かった。学校に慣れて新しいクラスに慣れ始めた、退屈を埋められるから。

 向けられる視線には一瞥すらしない。仲を深めるどころか、距離を取り、線を引く古宮さんは、小集団を築く習性のある高校生、引いては人間社会においては異物。

 私も例に漏れず、人との関係の中に身体を置いている。一年の時に、小春と一葉と仲良くなって、グループ、のようなものが出来上がっていた。古宮さんは、視線という蜘蛛の巣を、躊躇うことなく突っ切って、自席に腰を下ろす。大抵の生徒はすぐに思考を元の位置に戻していたのに、私の意識の中央には今も彼女が居座っている。

 それでも、今、この場においては、クヨクヨと古宮さんの事を引きずっている瀬戸海月は求められていない。笑顔は、どんな状況でも、浮かんでくれる。

 誰にだって好かれようと振る舞う。嫌われるのは痛いから。

 胸に刺さった棘には、返しがついていて。すぐには抜けてくれそうになかった。


 ◇◆◇◆◇


 時間には、関所も無ければ、番人もいない。誰もとどめることなく、過ぎ去っていく。

 ついこの間まで、目の薬のようにめいっぱいの青葉を枝葉に付け揺れていた木々。アスファルトをフライパンのように熱する程の太陽に何ヶ月も焼かれた所為か、涼しさを迎える頃には青葉は赤く焦げていた。

 前期を終え、一年の中、一月以上の休みを越えても居場所は変わらない。今もまだ、棘は刺さっているけれど、もう、慣れてしまった。

 あれほど遠くに感じていた修学旅行が、すぐ、目の前にまで迫ってきていた。

 学校帰り、喧噪の中、隣を歩くのは変わらない二人。

 柔らかなサイドテールが弾み、深緑の細筒を咥えながら、眉間に皺を寄せる。浮かぶ神妙そうな表情は、彼女、小春にとってのルーチンワークであるカフェの新作、プチ品証が繰り広げられている証左。


「今回の新作、イマイチって感じ。コーヒー感が強すぎて、こう、期間限定っていう有り難みが薄いかな。普通のラテとそこまで変わらないから、特別感が減っているのは減点。甘み無しって感じ、一葉とか、好きじゃないでしょ」

「まぁね。ここには、スイーツ感を求めてるわけよ。期間限定メニューには、もう、とりあえず生クリームと、それっぽいソースかなんかをかければいいのよ。それだけで、九割の女は釣れるんだから」


 一葉のあんまりな物言いに、思わず、噴き出す。


「いや、流石にそれは言い過ぎじゃない? 私は結構好きなんだけどな」


 車輪がレールを叩きつける音が、遠くから聞こえてくる。合わせて、鼓膜から入ってきた機械的アナウンスは、意識という土俵にも乗らずに垂れ流されていく。

 乗る人、降りる人。行く人、帰る人。地方都市、中でも都市部分を担うのがこの駅。最近、改装されて、小綺麗に、小洒落た雰囲気を纏った。とはいえ、態々、全国展開しているカフェが店舗の中に入ったことを、自慢げに語っているあたり、立派になったのは見た目だけ。中身は変わらず、半端な地方者。

 カップ一杯にワンコイン以上を払って、矢継ぎ早に手を替え品を替え、繰り出される期間限定メニューを、とりあえず頼んだりしてみる。

 ビターだとかを謳い文句にしている、期間限定メニューは、甘過ぎるのが好きではない私には丁度良かった。女子というモノは甘い物で出来ている……なんて、メルヘンチックにも程がある、キャッチフレーズか何かが頭に浮かんでくる。なら、甘い物が苦手な私は珈琲豆ででも出来ているのだろうか。


「あっ」


 カップ一杯に、女子高生の数十分の対価を浪費するのは勿体ない、と、一番小さなサイズにしたのが仇となった。レギュラーメニュー入りして欲しいと思ってしまう、ベストマッチな苦みと香りの在庫がカップの中から失われてしまった。

 少し物足りない。けれど、その少しのために、もう一杯買うか、と言われればそこまでではなくって。

 期間限定メニューという言葉は好きじゃない。一時を逃したら、もう、記憶の中にしか存在しなくなってしまうから。忘れられてしまったら、誰も存在したことを証明できないから。

 つまらない、と言われるだろうけれど、必ずあるレギュラーメニューの方が、安心をくれる。毎回違うモノが売り出されているはずなのに、定期的に入れ替わる変わるラインナップに、目が回る。期間限定メニューがあったことは憶えているのに、それが何だったかは思い出せない。忘れられるだけのメニューには、かなり同情。そうはなりたくない。

 顔も動かさず、目だけで駅構内を見渡す。毎日、毎月、毎年、大きく変わらない景色。スーツが革靴の踵を磨り減らし、晩ご飯となる買い物袋がそれぞれの家へと連れ去られている。けれど、それらは期間限定メニューと同じように、分からないだけで目まぐるしく変わっている。社会人も、主婦も、一年前とは別人かもしれない。私達、制服姿だって三年もすれば、その中身は総入れ替え。

 変わらないものなんてない。私だって、求められる瀬戸海月が変わっていけば否応なく変化していく。たった一日の私の暴走はもう、誰の記憶にも残っていない。何でもない日常が、私の形を元に戻していた。

 微かな残り香のみとなったカップを片手に、何をするでもなく、右へ左へ、歩き回る。空から見下ろす神様からすれば、私なんて、溢れかえった、有象無象の一つ。時折、思い出す痛みも、忘れてしまえば存在しないのと変わらない。

 ふと、向かってきた同じ制服姿に、それぞれ反応。近づいてきたのは三人。同じ性別、同じ制服、同じ学年、そして同じクラス。間違い探しをするとしたら、スカートの長さくらい。


「おっ、海月ーズ、今、帰り?」

「絶賛、寄り道中かなー。三人ともバイトも部活もなかったし」


 教室の中では、一つとなって渦の中心に居座っている。学校の外でも必ずしも同じというワケではなくて。それぞれ、遊ぶことはある。ただ、どうしても、一年の時の積み重ねが、石灰で引かれた白線のような薄らとした線引きを生む。遊ぶこともあるし、仲だって良い方だと思う。少しの短所はあるけれど、きっと、彼女達からみた私にも同じように、好かれていない部分もあるはず。

 偶然、顔を合わせた女子高生が挨拶だけして、さようなら……と、解散するわけが無く。合流した私達は、少し大きな紺のひとかたまりになって、ころころ、雑貨屋にアパレルをローラーしていく。特に目的もなく、時折、財布を取り出して、頭を悩ませたりしながら。


「着替えとか、皆、何に入れていくの?」

「あー、キャリーにするか悩むよねー」

「お土産とか入れるから、おっきい方がいいんじゃない?」


 今の時期、私達二年生が口を開けば出てくるのは修学旅行の話ばかり。特に大きくもなく、目立った特徴もない、つまらない高校で、行き先も古都巡り、という捻りの無さ。それでも、学年単位で何処かへ旅行するという特別感は、やっぱり存在しているもので。

 百円均一の全国チェーンの雑貨屋で、シャンプーなんかを小分けにするプチボトルを物色。宿に、備え付けのモノがあるだろうけれど……素直に使う女子高生はそう居ない。


「ってか、私達のとこに古宮が居るの、マジで貧乏くじ引いたよね?」

「『どこでもいいです』って、どこでもいいなら、一人で寝ればいいじゃんね」

「ほんとそれ。海月がなんでも引き受けちゃうから」

「あはは……」


 古宮さんと、あれきり、きちんと話せていない。話す内容も思い浮かばない。

 今となっては、あの二日間の出来事は、初めからなかったみたいで。変わったことがあるとすれば、古宮澄は瀬戸海月にすら、見限られた……なんて、風評が、少し立ったくらい。出火元は、スカートの短い三人。私が突き放されたのだとは、言えなかった。

 それでも、プリントを届けた一回が効いたのか、担任に古宮さんを同じ部屋割り、と押し切られてしまった。旅館の部屋割りは大部屋になっていて、小春と一葉は勿論、この三人も同じ部屋。そこに古宮さんが加わったという形。小春は兎も角、一葉には嫌な顔をされたけれど、断る理由はなかった。同じように、自由行動をする班分けにも、古宮さんが組み込まれていて。


「ま、あんなに一人が好きなら、自由行動は好きなだけ一人で回って貰ったらいいじゃん」


 液晶画面に視線を落としたままのショートカット。一葉の言葉は、ごつごつ、としていて固い。辛辣、そのもの。

 それなりに広い店内でも、女子高生が六人も集まっていれば、そこは行き止まりになってしまう。一人のスーツ姿が私達に阻まれ目を細めて、苛立ちと共に踵を返す。それを誰かが鼻で笑い、肩を竦める。女子高生集団を突っ切るなんて、面倒ごとを避ける大人な対応。いや、若干の苛立ちを隠せていないから、大人というのは過大評価かもしれない。


「確かに。自由行動だし、何も言われないでしょ」


 部屋割りだとか、班決めだとか。修学旅行は学年単位の大所帯。全員が好き勝手に行動するとなると、如何にいつもより気合いを入れた先生達であっても制御出来ない。班行動と、スケジュール厳守という制限を生徒達に課すことで、最低限度のコントロールを行うという、妥協。


「何しに来るんだよって、感じだよねぇ」


 イヤなら来なければいいのに、と。誰かが溢す。

 古宮さんの事情を知ってしまった私だけは、その言葉に頷くのは、ダメなのに。嘘でしかないのに。同意が、零れた。


「そうだよねぇ。お金も返ってくるし、無理しない方がいいと思う」


 私は、私をやめられない。朱に交われば赤くなる。朱に交わる前の色は、知らない。

 知らないはずなのに、いつもみたいに朱くなれない。見たことの無い色が、朱のインクを弾く。


「ま、お金には困ってないんじゃない? なんか、噂だと中学の時にはもう家に男連れ込んでたらしいし」


 プラスチックのカゴの中で、幾つか選別した小物が擦れ合う。


「あー、知ってる知ってる。なんか、取っ替え引っ替えやってるってやつね」

「彼氏かどうかはわかんないけど、まぁ、社会人だからお金は持ってるでしょ」

「てか、中学生に手を出す大人、実在するんだ、こっわ」

「いやいや、探せば幾らでもいるって。ピュアだねー。適当に募集したら、あんたでも、すぐにモテモテよ」

「ハァ? それ、あたしがモテてるっていうより、JKだったらなんでもいいオッサンってだけでしょ」


 立ち止まる。沸いてきたのは、何を知っているんだろう、の一小節。会話もロクにしない、修学旅行に向けた準備の授業も、私が旗を振るって無難に決めるだけで、目すら合わせようとしないのに。

 ずぷ、と、冷えた泥の中に、足を踏み込んだような、気持ち悪さ。呼吸を一つ。周りの色に染まればいい。彼女達だって、本気で言っているわけではない。ゴシップが好きな一面を持っていて、対象が近くに居て都合が良いだけ。貶める気も、ましてやいじめる気なんて欠片もなく、噂話でお手玉して遊んでいるだけなのだから。ワイドショーを好んでみる層と、一緒。


「ウリしてようが、大人引っ掛けてても、いいんだけどね。てか、お金いっぱい持ってるんだったらさ、仲良くしたらお土産代とか出してくれたりして」

「えー、流石にそれはないでしょ。持ってても、全拒否してくるって」


 彼女達の色に染まればいい。噂話が好きな、女子高生に。時々、程ほどに嗜めて、行きすぎないようにしてあげる。言い過ぎないようにブレーキをかけられるから、バランスが取れていて、クラスの中心で居座れる。少し羽目を外した時に、止めてあげるのが優等生の役割。それに、誰かに対する失礼な物言いだって、私に一定の信頼をしているから溢してくれているものだと思えば、悪い気はしない。しない、はずなのに。

 苦笑いをしながら『本人が居ないからって言い過ぎだよ。一応、同じ班なんだから、聞かれたりしたら気まずいんだから』と、肩を竦めてから、買う物が決まったか、と話題をすり替えてあげれば良い。

 彼女達が求める良い子ちゃんの瀬戸海月は、いつだって、分かりやすくて。


「古宮さんのこと、何にも知らないクセに、いい加減なこと言わないで」


 冷たい声。内側から、聞こえてきた。

 思わず、顔を上げた。誰が言ったのだろう、と。まさか、本人に聞かれていたのか。それとも、ズバズバと鋭い一葉が、釘を刺したのか。

 買ったばかりのクレープかを地面に落としたような、間の悪い、居心地の悪い、沈黙。何故か、全員が私を見ていた。どうしたのだろう、首を傾げる。


「……そんなにガチになんなくてもいいじゃん。別に、ウチらだって本気で言ってるわけじゃないんだし」

「ま、まぁまぁ。海月は優しいから、ね」


 咄嗟に、小春が間を割るように入ってきて、遅れて気付く。この視線は、私から溢れ出したものに向けられたものなんだと。私の喉が、舌が、さっきの言葉を編んだのだと。


「元はと言えば、海月が古宮を入れたからでしょ。折角の修学旅行なのに、あんな空気読めないヤツと一緒って、冷めるって、分からない?」


 古宮澄。少し変わった、生き難い性格をしたクラスメイト。古宮さんは、いつも一人だけれど、望んでいるわけじゃない。嘘や上辺で塗り固められ過ぎた人付き合いをするのが嫌だから、結果的に一人で居るだけ。それなのに、イメージや噂で勝手な決めつける。孤高だとか、売春だとか。プラスにも、マイナスにも。

 いつも通り朱に交わろうとすればするほど、朱のインクをはじく見えない色。色の正体は、古宮澄が望む、瀬戸海月。

 最後にまともに話した日から、数ヶ月は経つのに。どうしてか、この場に居ないはずの古宮さんが望む瀬戸海月を纏っていて。

 剥き出しの私。それから、友達の私。二つの私が混ざり合わず、相反しながら、一つしかない椅子を奪い合う。


「こんな所で、ずっと立ち話しても迷惑でしょ。ほら、海月もとっとと買って来なよ」


 反発も、同意も。どちらに身を振ることが出来ず、中途半端なボーダーラインで立ち尽くす。一時停止ボタンを押されたように固まるのを見かねて、液晶画面から、視線を起こした一葉が、呆れ半分で助け船を流してくれた。


「あ、そうだよね」


 咄嗟に飛び乗り、そのまま、レジ前の列に並びながら、息を吐く。カゴの中に落ち、編み目を通り抜けて、固い床の上に落ちる。吐いた溜め息を踏まないように、レジにカゴを置いて、支払いを済ませる。数個の雑貨を買って、数百円。丁度、消費税も込みでピッタリ支払い、返ってきたのは、レシート一枚。気怠げな、ありがとうございました。くしゃりとレシートを握りつぶしてゴミ箱に放り込んで、買った物はバッグの中に無造作に詰め込む。一呼吸で終わった荷詰め。皆の所に戻らないといけないのに、気が重い。

 一言、『ちょっと真面目になり過ぎちゃった』と戯けてみせれば、すぐにでも、元通りの形に戻れる。きっと。


「多分、そうはならないんだろうなぁ」


 古宮さんに与えられた形が、折り目となって残っている。何故。どうして。答えは知らない。誰に聞いても、きっと、答案は出てこない。

 鉛でも流し込んだかのように重たくなった鞄を肩に掛け直すして、店を出た。


「お待たせー」

「今日の目的はこれで達成?」


 小さく、頷く。変わらず振る舞ってくれる小春の気遣いが、ありがたい。私の役割を押し付けてしまっているのに、申し訳なさ。未だに残る、朱をはじく見えない色。

 恐る恐る、気付かれないように視線を滑らせる。焦点を結ぶ。あったのは、不機嫌四割、気まずさ六割。

 再び、敵意みたいなモノを向けられてしまったら、また、剥き出しの私が前に出てくるかもしれない。恐れは杞憂で済みそうだった。怒り一辺倒、売り言葉に買い言葉、じゃなければ、私はいつも通りでいられるはずだから。

 先に謝ってしまって、後腐れを残さない。些事がどれだけ積もろうと、明日は来て、学校は続く。棘や蟠りは、残せば残すほど苦しくなると、私は知っている。早めに、抜ける内に抜いておいたほうが、後を引かない。放っておくと固まって、どうにもならなくなって。


「えっと、さっきは……」


 謝罪の言葉が、途中で止まった。視線が吸い込まれる。紺色の向こう側に引っ張られる。

 ただの一背景でしかなかった、レディーススーツに意識の全てが向く。喋ろうとしたことすら、頭の中から消え去っていって。


「海月? どしたの?」


 この場、最後のバランス調整役になってくれている小春の疑問符。受け止めることも、受け流すことも出来ず、視線は変わらず、雑踏の渦に。女性の会社員の知り合いなんていない。居ないのに、まるで、あの女性が世界の中心のように、見える。

 焦点の中心は、もう一つの見慣れない影と重なった。一拍、置いてから、その重なった相手が、もう一対、デザインの違うスーツだと認識して……男性だと理解。ゼロになった二つの距離。古宮さんに似た綺麗な人。


「あっ」


 他人のそら似、偶然なんかではない。古宮さんに顔立ちがよく似た人を知っている。解が導き出されると同時、人波に飲まれて見えなくなって。


「ちょっ、海月!?」


 身体は、勝手に動き出した。


「さっきは、ごめんっ。柄にもなくアツくなっちゃってっ。急ぎの用事思い出したから、先に帰るね!!」


 一瞬だけ、皆に視線を向けてから、すぐ、向き直る。見失わないように。

 後ろから聞こえた声は、ブレーキにはならなかった。

 人の間を抜けていく。するり、するり。時折、ばしり、と鞄の端をぶつけて謝りながら。二つある駅の出口、その片方から飛び出すと、夕焼けが目に染みる。駅前はちょっとした商店街、ドラッグストア、カラオケ、居酒屋。全国チェーンの展覧会といった顔触れ。

 右へ、左へ。首を振れど、見当たらない。とはいえ、男女一組のスーツ姿。消えていった方向が分かるのだから、きっと、すぐに見つかる。

 駅から吐き出された人々の隙間を縫って、薄汚れたアスファルトを、ローファーで叩く。私の読みはすぐに的中。ド真ん中。ストライク。


「居た」


 道路を一本挟んだ向かい側。小洒落た洋食屋のディスプレイ前で、腕を組んで雑談しているのを捉えた。古宮さんの、母親。一緒に居る男性は夫なのだろうか。或いは、もっと、別の人なのか。今は、答えを持ち合わせていない。

 目的地を捕捉した私の脚が、軌道修正。踏み出そうとした。


「あれ……?」


 けれど、動けない。靴裏が溶けてアスファルトに溶けて引っ付いてしまったかのように。早く追いかけないと、また見失う。追いかけて、追いついて……。


「どう、するの……?」

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