第9話

「あ、危ない所だった」


 誰も見ていないのをいいことに、越えてはいけないラインを軽々と越え、開いてはいけない扉に手を掛けるところだった、少しだけ冷静に持ち直す。都合良く書き換えられた記憶に、赤ペンで修正を入れておく。好きにしていいと言ったのは調味料だけ、と。


「もう、バイト終わった、のかな」


 カラーボックスの上に置かれた目覚まし時計に視線を向ける。時刻は、それなりの夜。郵便はこの時間には来ないだろう。聞いていた予定よりは早いから、早上がりでもしたのかもしれない。 開きかけた背徳の箱に鍵を掛けて立ち上がる。部屋の鍵を開けに行くために。

 すぐに辿り着いた玄関は、まだ、温かな熱をぼんやり宿したハヤシライスの香りが漂っていた。香りのさざ波をかき分ける。鍵に伸ばそうとした手を、留める。

 ここは、私の家じゃない。家族住まいが並ぶ住宅街ではなくて、人目にはつきにくい立地。古宮さんではなかったとしたら、無視した方がいいだろうか。宅配便かもしれないけれど……美人の一人暮らし。警戒しすぎるに越したことはない。

 ゆっくり、扉へと、そろりそろりと忍び足……台所から漏れ出る部屋の灯りで、家の中に居るのはバレているだろう。

 玄関の鉄扉、取り付けられた簡易な覗き窓。片目を閉じて、目を凝らす。


「……誰?」


 立っていたのは、女性。ブラウス姿に、タイトスカート。覗き窓もどこかくすんでいるから、顔立ちの細かい所までハッキリは見えなくとも、第一印象では怪しくは見えない。なんとなく見たことがあるような違和感。とは言え、一目見ただけ。他人のそら似かも知れない。


「いるんでしょう」


 聞こえてくる声にビクリ、肩が跳ねる。扉は鉄製でも薄い窓が声を易々と通す。居留守を使った方が良いのか、悩ましいところ。再び、呼び鈴が鳴り響く。

 出るべきか、悩んだ末、鍵に添えていた手を放す。居留守を使うのに、申し訳なさが浮かぶけれど、勝手に上がっている身分。更なる勝手を働くのは、よろしくない。この女性には申し訳ないけれど、お引き取り願う。

 心の中、ごめんなさい、と唱えて、背中を向ける。うっかり出てしまわないように、部屋の中へと戻ってしまおう。出てこない、と伝われば諦めもするだろう。


「澄、話があるの」


 戻りかけた矢先、踏み出そうとした足が縫い止められる。頭の片隅で、引っかかっていたものの正体が紐解けていく。


「あの、時の」


 初めて、この家を訪れた金曜日。その帰り道、古宮さんを見つけるや否や、名前を呼んだ女性。見たことがあるような気がするのは、古宮さんと似ているから。

 第一候補は、古宮さんが嫌っているという母親。次点で、姉。もしも母親だったとしたら、私がここで無視をするのは正解、なのだと思う。無視すると心に決めても、良心はスイッチのように切り替わってくれない。


「……私は古宮さんの、クラスメイトの、瀬戸海月です」


 用件を聞く。話をする。それくらいならば、ドア越しにだって出来る。ドアにぶつかって跳ね返ってきた私の声は、どこか頼りない。


「そうなのね……私は澄の母親なのだけど」


 一拍の沈黙。玄関先に、扉に向かったまま直立。


「澄、居るかしら?」

「今は居ません」

「そう。バイトに行っているのね」

「……はい」


 嫌っている。それだけしか知らない。どうして、嫌っているのか、何があったのか。踏み込めるほど、近くない。


「澄に用があるから、入れてくれないかしら?」

「えっと……」


 言葉に詰まる。どうするべきか考えている頭の中は、散らかっていた。


「……ほ、本当に古宮さんのお母さんですか?」


 辛うじて出てきたのが、苦し紛れの時間稼ぎ。偶然、古宮さんに少し似ている女性が、態々、こんな所にまで来て、嘘を吐くワケがないのに。


「……免許証でも見せればいいのかしら」


 時間稼ぎのバリケードは、大した障害物にもならず突破。仕方ない、と、頭を振るって、腹を括る。理由は分からずとも、古宮さんが苦手としている母親。


「ごめんなさい。誰も、家に上げないように言われてるんです」


 そんな言い付けは受けていない。それでも、引き返して貰うには、他に思いつかなかった。


「私、澄の母親なのよ?」

「それでも、約束は約束、ですから」


 冷たい沈黙。扉を抜けて、外にまで届く。変わらず、空腹感を刺激する晩ご飯の匂い。炊飯器が加熱されて、シュウシュウ、と蒸気で部屋の湿度を上げている。


「先生から電話があって、澄と話をしないといけないの。澄には私から説明するわ」

「そう、ですけど」

「それに、娘の顔だって見たいんですもの。一人暮らし、上手くいってるのか、不安だわ。だって、まだ、高校生なのよ?」


 聞こえてくる声は、子供を心配する母親そのもの。もっと、粗暴であったり、嫌味であったのなら、よかったのに。古宮さんが母親を嫌っている理由の欠片でも見えたら、ハッキリと拒否できたのに。


「修学旅行、行かないって言い張ってるの。瀬戸さんは澄から何か聞いてる?」


 盗み聞きした内容が、蘇ってくる。鉄扉の向こうからの声が、鼓膜に張り付いた。聞いているわけがない。


「ほんの、少しだけ」


 聞いていないに等しい、その通りに答えてしまうと本当に部外者であることを自覚してしまうから。


「友達の瀬戸さんには悪いけれど、家族で話し合わないと解決しない問題なの。わかってほしいの」


 なら、直接、古宮さんに連絡を取ればいい。そんな言葉が組みあがるけれど、『家族の問題』という明確な線引きで、石になった私の唇。たった一言で、入る余地がなくなって、言い返す術も見当たらなくって。


 拒絶するように見えた鉄扉、内側からだと、吹けば飛ぶように頼りない。


「ほんの少し話をするだけだから」

 頑なに、開こうとしない私に対して、苛立つことなく、諭すように。話せば話すほど、関係のない子供だと突きつけられていく。


「もし、私がいなかったらどうするつもりだったんですか?」

「帰ってくるまで、待ってるつもりだったわ。そしたら、電気がついていたから、家に居ると思ったんだけどねぇ」


 たとえ、家の中に入れなかったとしても、予定通りにすればいいだけ。結局の所、私が勝手に疑って、時間をかけたこの押し問答は、暖簾に腕押し、骨折り損。家に入れなくたって、この人は古宮さんを待ち続ける。堂々と玄関前で。

 どちらにしたって、待っているのなら家の中に入れたって同じ。むしろ、先に古宮さんの母親がどういう人間か知る事ができるだけ、まだ賢い。理性の算盤が答えを弾き出して、吐いた息が土間へと落ちて転がる。ドアの鍵に指を添える。金属特有のひんやりとした冷たさが、毛細血管の中を流れる熱を少しだけ、奪っていく。


「ごめんなさい。私、古宮さんを裏切りたくないんです」


 良い子の瀬戸海月が、くすんだ。


「……そう。なら、ここで待つわ」


 触れた鉄鍵よりもよっぽど、冷たい声。この人の中で、私という人間が好ましいという箱に収まらなかったことは、はっきり分かった。


「だから、一緒に待ちます」


 人差し指と親指で掴んだ鍵を、半回転。鉄扉の中から、がちゃり、音が鳴る。そのままの勢い、靴に足を通して、扉を開ける。家の中、詰め込まれた良い匂いが、風船が萎むように抜けていく。なんだか、もったいない。

 日中はまだ、太陽が威光を掲げて空気を暖めてくれているからよかったけれど、沈んだ今は、肌寒い。そして、目が合った。長い睫毛の奥に存在する瞳には、困惑。漂ってくる、香水の匂い。大人の匂い。ハヤシライスに慣れた鼻を、上書きしていく。


「あっ」


 表情に驚きというエッセンスが数滴、加えられた。


「……先週、澄と一緒に居た子だったのね」

「は、はじめまして」

「免許証、見る?」


 くすり、笑った姿は、間違いなく親子で。鞄に手を伸ばそうとしたから、頭を左右に振るう。古宮さんの母親であると、嘘だと思えない。思ったところで、意味がない。


「古宮さん……澄さんが、あなたのことを良く思っていないって知っています。でも、無視してくつろぐなんて、出来ない、ですから」


 古宮さんと、良心。その両方に伸ばした手。一石二鳥に転ぶのか、二兎追うものは一兎をも得ずになってしまうのかは分からない。優柔不断な私は、割り切らないまま、寒空の下に躍り出た。


「家の中に上げてくれればいいだけなのよ」

「それは、できません」

「瀬戸さんの言う、裏切りって何? よく分からないわ。だって、親が娘に会いに来ただけなのよ」

「私だってわかんないです」


 自分の部屋という最後の場所。一人暮らしをする理由である人を勝手に入れるなんて、古宮さんの気持ちを考えたら出来るわけがない。

 程ほどに長い私のクセ毛が、夜風に弄ばれて揺れる。身体の熱が奪われていく。家から歩ける距離だったから薄着で、防御力は低く、肌寒い。


「……あなたが、外で待つのはもっとわからないわ」

「ですよね」


 なんて、苦笑い。分からないことばかりの中、空回りしていることだけは、自覚。


「話し相手くらいにはなれますから」


 浮かんでいる困惑の表情。私より二回りは年上だろうアパートでは、通路での話し声なんて、他の住民に丸聞こえ。話が弾むワケない。

 それでも、この人はどんな人なのだろうか、どういう話が好きなのだろうか。私の回路は動き続けている。手探り、喉元で形作られていく言葉は出荷される前に止まる。代わりに、人並みの鼓膜が拾った足音。

 プリーツスカートが、視線の先、翻った。


「来ないでって言ったはずよ」

「古宮さん……」


 この場に居る、古宮姓は二人でも、私にとっての『古宮さん』は一人だけ。よく似た、切れ長の目が、向かい合って、重なり合っている。意思が、感情が、瞳に灯る。


「澄、会いたかったわ」


 よく似た目元だからこそ、灯った色が異なりによく気付く。


「少し話をしたいから、家、入れて? 彼女、約束したからって入れてくれなくて、困ってたの」


 眉間に寄せられた皺はそのままに、視線が私へと向く。苛烈さを携えた視線は、まるで鋭利な刃物。矢じりに射貫かれて、背筋が石に。ほんの少しだけ含まれていた、不快とも、怒りとも異なる色合い。


「約束……?」


 浮かんでいたのは、おみくじを引いたら聞いたこともないような役を引いたような困惑。無いと判断されたのか、矢は私から抜かれ、再び母親へと放たれる。私の中、少しの矢傷が残る。


「話なら、ここで勝手にすればいいでしょ」


 伝わったのか、伝わらなかったのか白黒つかない。少なくとも私の吐いた嘘とは矛盾しない言葉に、安堵。

 矢に貫かれたはずの古宮さんのお母さんは、傷を負うどころか、同じように眉間に皺を寄せ、臨戦態勢。


「担任の先生から電話があって来たのに、その態度は何?」


 どちらかの舌打ちが、スーパーボールのようにコンクリートを跳ねた。


「あなたが一人暮らししているのも、高校に通えているのも、私が許してあげているからなの、分かってるの」

「なら、辞めさせたらいいでしょ」

「そうやって開き直ればいいと思ってるの? いい加減にしなさい。あなたは、まだ、子供で、私は大人なの」


「高校を辞めさせられたって、私は一人で暮らすから」


 親という立場から振り下ろされるハンマーを受けても、古宮さんは小揺るぎもしない。

「そういうことを言ってるんじゃない。澄の事を思って言ってるのに、どうして分かってくれないの」

「いっつも、それね」


「それって何?」


 わざとらしいほどに、大きい、大きすぎる古宮さんの溜め息が会話を堰き止めた。


「分かったわよ、私が悪かった、ごめんなさい。それで? 話は何?」


 全く中身の伴っていない、がらんどうの謝罪が会話の流れを断ち切った。


「ふざけないでっ!!」


 火に油。甲高い声は、耳に痛くて。近所迷惑だから辞めましょうとか、仲裁に入る理由は幾らでもあったのに、部外者の足は動いてくれない。目尻を吊り上げる母親に対して、どうでもいいように視線を落とす古宮さん。まるで、電車で騒ぐ人を見かけた時のような、全く知らない生徒が言い争いをしているのを遠巻きから眺めているような、他人という線引き。家族に向けている視線には、見えなかった。


「どうせ、修学旅行の話でしょ? 私、行かないから、サインと判子を押して欲しいだけ。私は行かなくて済むし、お母さんにもお金が返ってくるでしょ?」

「お金とかそういうことじゃないわよっ」


 強火で熱した鉄板のような母親とは対照的に、言葉を重ねれば重ねるほどに氷水のように冷たくなっていく古宮さんの言葉。どうしてだろう。淡々とメリットを並べて拒否しようとするのが、子供みたいだった。

 古宮さんのお母さんは、此処が部屋の中でもなんでもない外であるということくらいでは、少しも勢いを落としはしなかった。


「一生に一回、高校生活の大事な修学旅行に行かせるのは親の義務なの」


 親、義務。どちらも、聞くだけで、頭にビニール袋を被せられたみたいに息苦しくなる呪いの言葉。


「澄。私も同じだったからよ。帰ってくる頃には、なんだかんだ行ってよかったって、思うようになっているものよ」


 ほんの二言、三言前まではヒステリックに声を荒らげていたのに、諭すように古宮さんへと語りかけているのが、別人のよう。怒ったかと思えば、急に静かになったり。こういう同級生が、それなりに居るのが、既視感となって、背中を走った。


「ねぇ、瀬戸さんも、澄と一緒に修学旅行に行きたいでしょ?」

「えっ?」


 突然、笑顔が私に向く。部外者だと追い出されたと思ったら、突然、リングの上、引っ張り出される。グローブも何も付けていない、私服のまま。


「それとも、澄とは修学旅行に行きたくない?」


 並べられた選択肢は二択。どちらの選択肢を選んでも、違う種類の毒林檎。古宮さんが、私の手を引こうとして、遮られた。


「今、あなたに聞いてないの」

「瀬戸さんは関係ないでしょ」


 ジッと、古宮さんのお母さんに見つめられる。答えなくて良いと、視線で訴えてくる古宮さん。

 話して二日なのに、私は彼女の沢山の表情を知った。古宮さんが持っている色は、綺麗な原色で、何も重ねられていない。

 古宮さんの母親は抗議には聞く耳持たず、私が答えるのを待ち続ける。事情を考えれば、嘘でも何でも、行きたくないとか、古宮さんの気持ちを尊重する、とか答えた方が、いいのは理解している。 


「……行きたいです」


 けれど、私の頭は、古宮さんの前だと、どうするべきか、では動かない。色を混ぜて誤魔化したりしない、したくない。

 再び、矢じりが心臓に突き刺さった。深く、深くまで。


「ほら? 友達も行きたいって言ってるでしょう? あなたは、それを裏切ることになるのよ?」

「裏切りとか、そういうんじゃ」

「いいえ。澄がしているのは、そういうことなの。瀬戸さんは、澄のことを裏切りたくないって言ってくれてたのに」


 私の言った、裏切り、という三文字が流用される。違う、そうじゃない。否定しようとしても、被せられる言葉。欲しい言葉だけを得たから、ポイと捨てられたようで。


「だから、何? そもそも、瀬戸さんは友達でもなんでもないし、私は別に行きたいと思わない」


 母親の言葉に力を持たせてしまったことが、冷たさを加速させてしまったみたいで。


「いい加減にしてっ。ワガママばっかり、友達にも酷いことを言って。もう高校生なのよ!! 少しは大人になりなさい」

「くだらない」

「くだらないって……!!」

「もういい。じゃあ、行くわよ。それでいいでしょ? 瀬戸さんも、それで満足?」


 制止を振り切った古宮さんが、力強く、鉄扉の口を強引に開く。私にも、何にも、構うことなく、部屋の中に身体を放り投げて、全てを塗り潰すように強く、閉じた。拒絶、拒否、もう、近づくなと、殻の中に閉じこもる。


「古宮さんっ」


 待って。言葉よりも早く、動き出した一歩が、殻の内側へと踏み出す。最後の殻が埋まって、外側から開くことが出来なくなってしまう前に、手を伸ばした。閉じたばかりの反響音も収まらぬ間に、こじ開けられた入り口、力いっぱい、飛び込む。鍵の建て付けが悪いことに、初めて、感謝した。


「っ!?」


 土間にいた古宮さんを巻き添えにして、強かに、身体を床に打ち付けた。板張りが軋んで、家中に跳ね返る。悶えるよりも先に、上半身を起こして、手を伸ばす。無理矢理開いた殻を埋めるのは、私の仕事。隙間の向こうに見える表情は、驚きと、後はお願い、と押し付けるような笑顔。

 鉄扉に、最後の拒絶をお願い。がちゃり。

 これ以上、あの人と古宮さんを向き合わせたらダメ。この家の中に、鼻につく香水を入れたくない。

 鍵を掛けた鉄扉から、振り返る。押し倒された、古宮さんの黒髪が、放射線状、フローリングへと広がり。その中心、対のガラス玉が私を見上げる。


「あの人の中に、私の事情なんてないのよ。親の義務だとか、自分が楽しかったから、自分がそうだったから……それだけでしか判断できないの。主観しかないのよ」


 ぽつり、小さな声。私にだけ辛うじて届くような、か細く、弱い、さざ波。古宮さんが、頭を起こすと、広がっていた黒の絹糸達が一つに纏まる。何事もなかったかのように、身体を起こして靴を脱ぐ。部屋の中へと消えていく。


「瀬戸さん、あの人と正反対で、同じね」


 無理に踏み入った土間、唯一の土足が許される場所。言葉の意味を咀嚼するのに、精一杯の私の元に、すぐに、古宮さんは戻ってきた。

 その手に、私の荷物を持って。


「帰って」


 無理に踏み入った。心の殻に籠もられたら私には手を出せない。打ち付けた身体から鳴る鈍痛のサインが今更、産声を上げた。


「これなら足りるわよね」


 三枚の紙幣が、私の荷物の上に重ねられる。何のためのお金なのか、理解できない。


「古宮さん、どういうこと……?」

「足りてるのよね? だったら、帰って」


 材料費、手間賃。残りは、会話をする気がないという拒否賃。


「私が古宮さんと行きたいって思ったのは本当だけど、でも、それは私が勝手に思ってるだけだから、その」


 ありのままの、私の思ったことを伝えようとした。ただ、そうするべきだと思ったから、荷物は受け取れない。受け取りたくない。


「瀬戸さん、気持ち悪いの」


 ただ一言、ありのままの私は、息絶えた。


「どうして、瀬戸さんは私に、向き合おうとするの? どうして、そんなに無防備の胸の内を晒すことが出来るの? 会ったばかりの私に、知りもしない私に」

「えっ」

「あんなやり取りを見せられても、私を追いかけてくれるのかが、理解できない」


 ただ数日。差し出されたポシェットの上に積み重ねられたものはなにひとつない。あるのは熱のない三千円。


「気が合う、から」


 どうして気が合うのか。ありのままの、誰かには見せない私を見せられるから。一生忘れられないような出会い方をして、取り繕わず素の私で話せるから。

 私の胸に押し付けられたポシェット。押す力が増して、後ろへとたたらを踏んで、背中に扉の冷たさ。咄嗟に、押し当てられた鞄を掴んでしまう。


「誰にだって、好かれている八方美人で人気者の瀬戸さんが、どうして私にだけなんでも話してしまうの? 踏み込んでくるの?」


 無理に返されたポシェットから、落ちる紙幣。一人で暮らす古宮さんと、実家で暮らす私。


「なんとなく、わかってきたわ」


 三千円の重みは違うはずなのに、ひらひらと、落ちる速度は、一緒だった。


「私が、望んだから。嘘で塗り固めたり、空気を読んだり……そういうのが嫌いな私が、真っ直ぐで、飾らなくて済む友達を望んだから」

「それ、は」


 背中に触れる鉄扉は、冷たい。


「気が合う? 違うでしょ? あなたが私に合わせているのよ。私が普通の友達を、そういう瀬戸さんがいいって言ったから、あなたは変わらずに振る舞っているだけ。誰にだっていい顔する相手に私が増えただけ」


 古宮さんが特別。間違っていないけれど、当たっても居ない。そんな境目。


「私の前じゃ素でいられるって近づいて、独りで寂しがっている私に手を伸ばして満足?」


 否定すればいい。そんなことはない、私がしたいようにしているだけなんだ、と。素でいられるのは古宮さんの前だけだよ、と。


「ちが……くない。多分、言うとおり。今、思ってる事を全部話してるのも、古宮さんの前だから」


 どう否定すれば拒絶されないかを分かっているのに、できない。古宮さんが、飾らない瀬戸海月を望んでいるから。


「自分の形を変えられないクセに一人が嫌だって駄々を捏ねてる私と真逆。そっちの方が、よっぽど私なんかより凄い能力だわ。話してる今でさえ、あなたを嫌いになれないんだもの」


 きっかけは、不意のトラブルかも知れない。秘密を共有して、普段見せない顔を見せた。学校とは違うありのまま、優等生でもクラスの人気者でもない素の瀬戸海月。変わらずに、晒し続けている。


 どうして?


 答えはシンプル。古宮さんに、好かれようとしているだけ。

 取り繕わない方が、古宮さんに好かれるから。他の人の前と同じ、その人が望む瀬戸海月として振る舞っているだけ。


「そうまでして、誰にでもいい顔をしようとするの、凄いと思うわ。でもね、今日の学校みたいに、誰に好かれる形になればいいのか悩むような空っぽの友達なんていらない」


一息で言い切って、一呼吸。水の中でだって呼吸が出来る古宮さんが、喋る時には、息継ぎがいる。それが、なんだか、不思議

 このまま帰って欲しい。伝えるように一歩、距離が離れる。家の中と、玄関の土間。同じ屋根の下なのに、明確に違っている。

 こんなに拒絶されたのは初めて。どうしてか、他人事みたい。


「哀れんで、同情して。なついてきた私を傍に侍らせたら、さぞ、気持ちいいでしょうね」


 私を形作っている、優等生、世話焼き、少しのドジ、賢い、お洒落、女の子らしい……数え切れないほどの部品。一つ一つ、バラバラにして、取り除いていったら残るのはたった一つだけ。

 誰かに好かれたい。誰にでも好かれたい。記憶に残りたい。

 そんな、紛い物の承認欲求だけ。


「古宮さんに好かれたいって思うの、ダメなの?」

「思うだけにして……私にだって、プライドはあるの」


 興味がない、どうでもいい、面倒くさい。そんな倦怠感が僅かに滲む声色は……ついさっき、聞いたばかり。母親に向けていたものと同じ。


「……ごめんなさい」


 これ以上、言っても、聞く耳なんて持ってくれない。古宮さんにとって、私の押し付け、母親との口論も等しい場所に分類されてしまっていて。


「お邪魔、しました……」


 受け取ったポシェットを肩から掛ける。これ以上、居座ったら嫌われてしまう。何を言っても聞いてくれないのがやりきれない。向けられた冷めたい拒絶はホームルーム、私を含めた全員を軽蔑していた、あの視線。自分の中にある鼠色の感情を隠すこともなく、取り繕うこともない。ありのまま、原色のまま。

 古宮さんが今、望んでいるのは、一秒でも早く、一人になること。私が傍に、居ない事。私が、私である限り、古宮さんは受け入れてくれない。

 きっかけがあったから、無理に古宮さんの中に入り込んでみた。割り込むことができたけれど、私はもう、古宮さんにとって、追い出すべき異物でしかなくて。

 そんなことを言われたって、どうしようもない。今更、直せるようなモノなんかじゃない。


「お金は」

「いらない」


 閉めたばかりの鍵を開け、ノブを捻る。

 好かれるように振る舞う限り、好かれることはない。ほんの少しの仕返し、と、お金は受け取らず、そのまま、外へと飛び出した。

 冷たい風が、身体を抜ける。そこには、もう、誰も居なかった。

 ファミレスでも寄って帰ろう。

「晩ご飯、食べ損ねちゃったな」

 ずっと匂いを嗅いでいたから、お腹はもう、受け入れる準備を済ませていた。頼むのは、決まっている。食べ損ねた、二人のご飯。一人の夕食。

「あっ、プリンも、か」

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