第8話

特別価格、と銘打たれた国産牛バラ肉は、学生の財布には優しくなかった。


「むぅ、高い」


 これ一つで、カフェでスイーツの一つが頼めてしまう。


「こっちにしとこ」


 お高い牛肉は諦めて、横のコーナーから一回り安い牛肉のパック詰めを手に取って、買い物カゴに放り込む。とげとげした吹き出しシールの真ん中には『特売!!』と更にビックリマークで強調されている。

 どうして、主婦みたいな真似をしているの? と、冷静な部分が疑問を上げる。ただ、その疑問よりも帰りを待ちながら晩御飯を作る……という、シチュエーションに酔っている自分の方が、勢力図的には大勢を制していた。


「タマネギ、牛肉、マッシュルーム。お米と炊飯器はあるって言ってたから、十分、か」


 駅前にある大きなスーパー……から、少し歩いた、地域密着型のローカルスーパー。所狭しと詰め込むだけ詰め込まれている商品。お陰で店内は狭く、棚と棚の間は、カートが一車線ずつ通るのが精一杯。段ボールをそのまま開き、ガムテープで手書きの値札が貼られている、大味な陳列。

 少し立地は悪いけれど、駅前の大型店よりも安く、昔からあったのでこの辺りで暮らしている主婦御用達。小さい時から、お母さんに付き添って何度も訪れたことがある。但し、小洒落たモノは置いていないから、中学高校と年を重ねるにつれ足が遠のいていた。細かい配置なんて憶えていないけれど、それでも、記憶とは殆ど変わっていない。

 肝心要、一番買い忘れてはいけないモノを買おうと陳列棚の間に入ろうとして。


「あ、ごめんなさい」


 カゴが、すれ違うカートにぶつかった。咄嗟に出た謝罪も、ぶつかられた側に自覚がなければ行き場はなく、迷子。気付きすらしない主婦の背中には、歴戦、の二文字。

 気を取り直して、物色。と、言っても、食べ比べなんてしたことがないから、無難に選んで、カゴの中へ。


「使い切ったら、十皿分……流石に、そんなに食べないよね」


 一日、二日くらいなら日持ちするとは言え、女子高生二人。大量に作ったところで余るのが目に見えていた。もしも余ったなら冷凍すればいい。


「いやいやいや、ほんと、どこ目指してるの、私」


 首を振るって、あれこれ止まらない妄想を追い出す。話してたった数日の相手に、入れ込んでいるという自覚はしている。理由だって、分かりはじめていた。

 必要なものはカゴに入れたので、レジへと向かう足を、途中で反転。牛乳やヨーグルトが置いてあるコーナーへとコース変更。


「二つでも二百円……問題なし」


 晩御飯だけでは味気ない、と二つ、安い焼きプリンをカゴの中へ。こういう時、普段、あまりお金を使わない自分を褒めてあげたくなる。服はそれなりに着られる分があれば、よっぽどではない限り、新しいのを我慢できる。化粧品もプチプラで、同じモノを買うだけ。小物は時々買うけれど、決められた範囲から足が出ないように。

 あれも欲しい、これも欲しい。お小遣いが少ないと文句を言いながら、お金は少しずつ貯まる一方。そうやって貯めているのは本当に欲しいものが出来た時に、手に入らなかったら、イヤだから。お年玉だって未だに手をつけること無く、口座に全額放り込んでいる。

 この分だと、お小遣いを増やして貰ったところで、使う金額は変わらないと思う。


「七百八十二円になります。ポイントカードはお持ちですか?」

「持ってないです」


 小さな時から、何度も通っているのに、カードを持っていないのが、なんだか不思議。いつも出しているのはお母さんだったから。


「無料でお作りできますが」


 客足が疎らだったこともあって、余裕のある店員が、一枚、カードを差し出してくる。大丈夫です、と、喉元まで出掛かった答えを舌の上で作り変える。


「お願いします」


 もしかしたら、通うことになるかもしれない。ポイントカードは、百円で一ポイント。作るともれなく百ポイントが着いてくるらしい。古宮さんの家に着いたら、油性ペンを借りて、名前を書いておこう。

 千円と八十二円を、トレーに置く。機械に通されると、痩せ細った三百円になって帰ってきた。レシートはカゴの中、小銭は財布に放り込む。軽いカゴをサッカー台の上に載せて、鞄の中からマチ付きマイバッグ。お菓子や飲み物以外を入れられたのは初めてで、少し驚いているだろうか。

 役目を果たしてスッカラカンになったカゴを置き場に重ねて、自動ドアをくぐる。片手で伸びをして、赤く染まり始めた空を見上げる。

 空が焼ける、と最初に表現した人は、きっと、誰よりも心が澄んでいる。

 歩き慣れないアスファルトの上で、ふと、目が留まった。小綺麗で小さな店の前に、地方都市の片田舎では珍しく、人が並んでいた。香ばしい小麦の膨らむ匂いが記憶を検索。一見のヒット。都会で流行っているパン屋が新しくできた、と誰かが言っていた記憶が、端っこで小さく主張。


「また、今度かな」


 興味はあったけれど、並ぶほどではない。歩き出したのと同時、店から出てきた女子生徒二人。目が合った。見慣れた色、見慣れた制服……見慣れた顔立ち。

 思わず、固まってしまう。向こうも気付いて、驚いたように目を開く。二人、ここからでは聞き取れない何かを話してから、向かってきた。気付かなかったフリをして歩き出そうか、と浮かんだ選択肢を選ぶには遅かった。


「海月、さっきぶり」

「う、うん」


 悪いことをしているワケじゃない。喧嘩をしたワケでもない。なのに、私の中、言の葉器官は不調の声を上げている。


「その、パン、美味しい?」


 自分でも分かるくらいに不自然だった。


「まぁまぁ、かな」

「そっか」

「うん」


 どこか白けた気まずい沈黙が漂う。だからと行って、それじゃあ、と切り出して歩き出すこともできない。


「海月は?」


 問いながらも、視線は、手に持たれた買い物袋に注がれていて……買ったばかりのタマネギが顔を覗かせている。


「ちょっと、買い物」

「そっ、か」


 唇の中程までをファスナーで閉じられているのか、上手く開かない。私と小春を見かねてか……割って入ってきたのは、わざとらしいほど、大きな溜め息。


「それ持って、古宮んとこ行くんでしょ?」


 ぶっきらぼうな、気を遣う様子なんて欠片もない声。ぬるり、音もなく、胸の内に入り込む。ただの事実確認が、重たく、心の沼、奥深くにゆっくり、どぷり、と。

 切れ長の目、短い髪から細い首。それから、少し尖った唇。


「一葉っ」

「気になるじゃん。友達なのに気を遣う方が変でしょ。小春は気になんないの?」

「それは、気になるけど」

「ほら」


 話の中心に添えられながら、置いてけぼり。歩道の真ん中、後ろから鳴らされた自転車のベル。三人、端っこに寄ると、サドルをいからせながら走り去っていく。


「で、古宮の家に行くんでしょ?」

「うん」

「海月、古宮と仲良くなかったよね。なんかあったの?」


 言外に含まれているものが、伝わってくる。古宮さんは、私に限らず、誰とも交わらず、一人、水の中に浮いた油のような存在。


「話してみたら、結構、気が合った、っていうか」

「ふぅん」


 興味があるのか、ないのか。曖昧な返事。


「ま、好きにすればいいと思うけど」


 どうでもいいような、突き放されるような物言い。かすかな苛立ちのような者が、お腹の底で蠢いた。せり上がってくる前に、消化。一葉には悪気は無いのだから。


「えっと、古宮さんと仲良くするのってよくないの?」


 声のトーンを意識して、棘のないように。


「悪いとか良いとか、誰かと仲良くするのに一々、許可貰うのって面倒じゃない?」


 だというのに、一葉から向けられる言葉はどれもがカミソリのように鋭い。柔らかく触れているつもりなのに、切り傷がついて、パックリ、薄皮が開く。


「ま、まぁまぁ、二人とも落ち着いて」


 小春が、宥めるように入ってきてくれる。別に喧嘩をしているわけでもないから、消化行為は実を結ばない。一葉が、これ以上喋るのが面倒そうに溜め息を吐いて、歩き出した。


「じゃ、バイバイ。ほら、小春、行くよ」

「あ、うん。またね、海月」


 返事をするよりも早く、歩いて行く。何が、二人との間に溝を作ったのか。そんなの、改めて考えなくたってわかる。


「古宮さん、かぁ」


 手に持つ買い物袋が、ほんの少し重たくなった。鞄の中からキーケースを取り出して、ジャラリ、逆さ吊り。家の鍵、学校のロッカーの鍵。それから、古宮さんの家の鍵。

 頭を振るって、胸に浅く刺さったとげとげを、振り払う。刺さった部分に、赤みは出ていたとしても、すぐに、元通りになる。それくらいの浅い傷。


「早く帰ろ……っていうのも、違うのか。私の家じゃないし」


 空が焼けている。靄も、傷跡も、息苦しさも、全部全部焼いてくれればいい。ささくれだっている私。何を見ても、引っかかって、少し、痛い。アスファルトで、ほんの少しずつ磨り減っていくローファー。その度、ガサゴソ、小気味よい音。重たくないのに、何度も、持つ手を、右に左に、持ち帰る。

 物覚えの悪くない頭は、地元、ということも相まって、地図アプリに頼ることなく、古宮さんの家にまで案内してくれた。金曜日と変わらず、静かで寂れてうだつの上がらない賃貸住宅が売れ残りのように並んでいた。

 辿り着いた、ボロさでは一等賞のアパート。古宮さんの部屋のある二階へと上がるコンクリート階段の端っこでは、力尽きた蛾が転がっている。その羽を捥いだ蟻が、どこかへと消えていく。探せば幾らでも見つかる蜘蛛の巣には、出来るだけ引っかからないように階段を上がる。ロクに管理されていない事だけは間違いない。ただでさえ、安そうなぼろアパートを、更に割り引いているから、高校生のバイト代でも、何と暮らせている、ということだろうか。少なくとも、大きめの地震が来た日には、ぺしゃんこに崩れ去っていそう。

 鉄扉の前に立つ。ピタ、と閉口したドアポストは、相も変わらず無愛想。キーケースを取り出して、古宮さんから預かった鍵を、ドアノブに差し込む。そのまま、回そうとしたが上手くいかない。


「ふぬっ」


 中々上手くいかないから、半ばヤケクソ気味に力を込めて捻ると、ようやく、ガチャコン、と扉の中から音がした。


「ふぅ……防犯性はバッチリ、と」


 フォローを入れてみた。小馬鹿にした皮肉が伝わったのか、扉はムスッとしたまま。ギィ、と金属が軋む。鍵一つ、扉一つ、動かす度に悲鳴を上げる家だけれど、中は外の見た目よりかは綺麗。どうしても、くすんだアルミで出来た流し台や、給湯器の一つもない蛇口だとか、古さは隠しきれないけれど。

 扉を閉めて、それから、内側から鍵を閉める。

 深呼吸一つ。玄関に並んだスニーカーと、サンダル。残り一つ、ローファーは出勤中。シンクの中に置かれたプラスチックのコップ。部屋干しによる柔軟剤の匂いが、一番の割合を占めている。色々な匂いがした。それら全部が古宮澄という人間の生活の営みから生じたモノだから……きっと、これが古宮さんの匂い。 もう一度大きく吸って、吐き出す。


「……変態か、私は」


 その問いに対する答えは、間違いなく、イエス。ただし、首を縦に振って、認めはしない。何かを失う気がしたから。

 足早に靴を脱いで玄関先に上がる。小さくても、一応、台所の体を為している。まだ時間は余っているから奥の部屋で一休みしようか、なんて怠惰な誘惑。が、今この時間も、古宮さんはバイトに勤しんでいるのだ、と勝手な対抗意識で自分を奮い立たせた。

 カチ、カチ。玄関付近にある幾つかのスイッチを試しに入れてみると玄関兼台所に吊り下げられた白熱球に熱が灯り、白い光が落ちてくる。


「先に、ご飯炊いとこう」


 明るくなっても変わらず狭い台所。特段迷うことなく、炊飯器を発見。ただし、中身は空っぽ。そのすぐ横、袋のままの米を計量カップで二杯、炊飯釜に放り込む。そのまま、流し台に持って行き蛇口を捻って、米を研いでいく。満足したら、水を少なめにしてセット。炊飯ボタンを人差し指で突くと、安っぽい電子音が鳴り響く。聞いたことのあるフレーズ。間違いなく童謡。

 なんだろう、と手を止めて首を捻る。食道の半分くらいまで出掛かる答え。今し方、耳を通り抜けていったフレーズを、鼻唄で、繰り返してみると、簡単に答えは出た。


「きらきら星」


 スッキリ。炊飯器では紡がれなかった、フルコーラスをふんふんと鼻で鳴らす。炊飯器が、空気の抜けるような音を、共鳴するかのように、鳴らし始めた。


「あっ」


 チェックリストに一つだけレ点が入っていない脳内メモ帳。買い損ねたのは、バター。メインの材料ではない上、サラダ油でも十分。あってもなくてもいいからと、完全に頭から抜け落ちていた。物覚えが良い……と、いう自己評価を見直す必要アリ、と赤ペンを走らせる。

 冷蔵庫の前で、少し、躊躇う。食材や調味料は、好きにしても良い……家主からの許可は得ている。けれど、食事という生に直結しているものの象徴である、冷蔵庫を覗くのは、凄くプライベートに踏み込んでいる気がして、腰が引ける。

 何を今更、と頭の中の古宮さんが呆れたように笑った。そりゃそうだ、と肩の力を落とし、扉に手を掛けた。


「……まぁ、普通だよね」


 ここで、誰かの手だとか、心臓だとか、が隠されている。そんな、サスペンスが始まるわけもなかった。古宮さんは変な特技があるけれど、それ以上に不可思議な事情があるわけでも無い。

 牛乳に卵。あとは、封の開いた調味料や、四パック入りのヨーグルトだとか。


「ちょっとだけ使わせて貰おっと」


 バターはなかったけれど、代用品になるマーガリンを手に取る。それから、存在を忘れていたプリンを冷蔵庫に突っ込んでおく。


「さっさと作ろっと」


 流し台近くにまで戻って来て、窓に設置された換気扇から垂れる紐を引っ張ると、近くにある空気を手当たり次第外へと放り出し始めた。買ってきた食材を並べ、厚手の片手鍋を引っ張り出す。牛肉とタマネギとマッシュルーム。あとは、市販のルゥを放り込むだけで出来上がる簡単且つ失敗する余地無しのお手軽ハヤシライス。まとまった量を作れるから、物足りないとなることもなく、好きなタイミングで温め直すだけで食べられる。どうしても余ってしまうんだったら、冷凍保存も可能。私なりに、一人暮らしを配慮した精一杯のチョイス。普段、あまり料理をしない私にでも出来るのが、何よりもの理由。

 炒めて、沸騰させて、煮詰めていく。

 料理と言っても、食材を切って、ガスコンロで炒めて煮詰めるだけ。すぐにやることはなくなる。ルゥを溶かしていると、部屋の中、良い匂いが充満する。きっと、換気扇に吸い込まれて、外、通路にも垂れ流されているだろう。通りがかった人はもれなく空腹に襲われること間違いなし。誰も通らないけれど。お玉でくるくる、かき混ぜながら、伸びを一つ。

 一通りの工程をさっくり、終わらせて、ぐつぐつ、弱火で煮込むだけ。時折、お玉で混ぜながら焦げ付かないように。

 ぐるぐる、ぐつぐつ。それから、ぐぅ、とお腹が鳴る。


「……まだ、結構あるなぁ」


 煮詰めると言っても、精々が数十分。ゆっくり煮詰めても、尚、時間は余る。それも片手間で、観察するだけで問題ないというお手軽さ。先に食べてしまうおうか、食い意地が顔を出すけれど、すぐにぺしゃんこに潰す。古宮さんと一緒にご飯を食べる気満々で、晩ご飯をいらないと家を出てきたのだから。

 弱火でじっくりコトコト、とろみが出るまで煮詰めてから、カチリ、ガスコンロの火を止める。ほんの少しだけ味見をして、問題なく、出来上がったことに一安心。

 流し台に橋のようにかけられた水切りザル。そこに引っ掛けられているゴム手袋を手にはめて、スポンジを手に。食器用洗剤を少し垂らしてから、クシュクシュと、握る。泡ともに、嘘くさい柑橘系の匂いが膨らむ。調理に使った菜箸や、包丁をその泡で包む。一通り、洗い物まで終わると、今度こそ、時間を持て余してしまった。

 短い廊下をペタペタと歩いた先。唯一の部屋。小さな卓座が一つ。あとは、カーテンレールにハンガーがぶら下がっていたり、タオルが干されていたり。金曜日に見た制服は、まだ外出中。

 グッと伸びをして、適当に腰を下ろす。携帯端末を取り出して、適当にネットサーフィンやSNSで時間を潰していく。

 粗方、更新された内容を見尽くした頃には、カーテンの隙間からは何の光も差さなくなっていた。こんなことなら、勉強道具の一つや二つでも持ってこれば良かったと思っても、後の祭り。


「もうそろそろ、かな」


 暗くなった液晶から目を離し、卓座の上に置いてから、ごろりと、寝転がる。ふと、畳まれて部屋の端っこへと追いやられている敷き布団が目に留まった。ごくり、生唾を飲む。ぽこっ、とデフォルメされた古宮さんが記憶の中から出てきて、耳元で囁く。

 好きに使っていいから。

 自制心の箍が緩む。

 いいんだよね、古宮さん。

 沸いて出た興味、欲求。古宮さんが普段眠っている布団がどんな匂いがするのか。古宮さんに不利益が被るワケでもないのだから、確かめてみたっていいのでは、好きに使っていいって言っていたし……と、抗いがたい誘惑。古宮さんは、香水だとか、制汗剤の作り物の匂いがしない。なのに、つい鼻を鳴らしてしまうような、匂いがする。人工的な匂いが好きじゃない私には、それがとても好ましい。目の前には私にとっての『好ましい』を世界一ふんだんに吸い込んでいるであろう布の固まり。


「へ、減るものじゃないし……」


 誰に言い訳するでもなく、にじり寄る。言い分が完全にセクハラオヤジと同じ……ということを自覚する間もなく、指先が布団に触れそうになった、その時。


「なゃっ……!?」


 監視カメラで、見張っていたかのようなタイミングで、呼び鈴が鳴った。バクバクと、背徳の鼓動は、焦燥の早鐘に変わる。

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