第7話

「よかった……」


 先を行く背中を見ながら、小さく、呟く。

 危うく、古宮さんが居るから十分、なんて、付き合いたてのカップルでも言わないような小恥ずかしい台詞が、喉元の待機所で列を為していた。

 制御の利かない自分のエンジンとアクセル。それからハンドル。何も制御できない中、一つだけ気付く。

 古宮さんの傍は、心地良い。

 何でもないような一日の終わりに、心地よさが待っている。それだけで、廊下を叩く上靴の音が半音高くなる。濾過せず滴り落ちた言葉に足を滑らせないようにしながら、後ろを歩く。

 教室に戻り、私を一瞥することもなく席についた古宮さん。私も、ただいま、なんて言いながら、自分の席に座ると……程なくして、教師が教室内にエントリー。眠くなると評判の一限目。

 私の目はハッキリと冴えていたけれど、どこか夢心地だった。

 時間が進む速度が、遅く感じながら授業を受ける。気付けば午前の授業も終わっていて、昼休憩。いつも通り、お弁当組のクラスメイト同士で集まる。


「あっ」


 先週までは、気付いてすらいなかったのに。今は、ビニール袋を手に、教室を出て行く古宮さんを、髪の一本が見えなくなるまで、追いかけていた。


「海月?」


 声をかけられて、ぼぅ、としていたことに気付き、取り直す。


「お腹減って、頭が回らない……今すぐに栄養補給しないと」


 取り繕うように呟く。何を繕ったのかは知らない。

 弁当袋から、お昼ご飯を取り出して、パカリ、ご開帳。お母さんが朝から作ってくれた、おかずにおにぎりがバランスよく並んでいる。ピンク色の箱の中は、なんだか、いつもよりもずっと、鮮やかに見えた。こうやって、誰かにお弁当を作って貰っているのが、贅沢な気がして、いつぶりだろう、習慣や惰性からじゃない『いただきます』を言えた。

 昼食をとって、他愛のない雑談に華を咲かせていると、休憩時間が過ぎていく。予鈴が鳴り、そろそろ話を切り上げよう、とそれぞれが弁当袋に手を添える。

 視界の端の黒が、濡れ羽色の黒が、教室内に戻ってきたのを、捉えていた。


「重傷かも」


 机の上に置いたままにしていた弁当袋を鞄の中に戻し、午後一発目の授業の準備。もう、一日の半分以上が過ぎて、疲れてきた。けれど、今日はご褒美があるのだから頑張ろう、と……と自分自身に喝を入れて、気付く。私の中で古宮さんの家に行くことへの期待が、空気を送られ続ける風船のように膨らみ続けていることに。

 疲れ、食後、温かい教室、低くお経のような声、それから座学。睡魔誘発ビンゴが一列揃って、瞼が重たくなる。なんとか対抗しようと、思い切りよく瞼を開いてみる。長続きすることなく、再び、頭とともに、下へ下へと、引っ張られる。姿勢を正すことで意識を取り戻そうとする。そんないたちごっこ。教室の中、それなりの人数がダウン。教師もそれを見て見ぬフリ。いっそ、注意してくれる方が、ありがたいのに。とは、言わない。あまり、同意して貰えないから。


「じゃあ、古宮」


 背筋が、ピン、と伸びた。瞼から重たさは抜けて、殆ど機能していなかった鼓膜が、教室の一音一音を丁寧に拾い始める。椅子が引かれ、床を引っ掛ける音。それから、聞こえてくる、アルトの声。淀みもなく、詰まることなく、淡々と読み上げられていく声が、しんとした教室に染みこんでいく。時折、教科書を捲る音が、私に息継ぎのタイミングを教えてくれる。誰も、気に留めることない。ありがたかった。声が大きくて、元気な生徒であればあるほど、居眠りをしてくれているから、不純物が入り込むことは無い。聞いているのは、私だけ。だったらいいのに。

 一度ハッキリと目が覚めてしまえば、何とかなるもので、そこからは、睡魔の波も収まり、気が付けば放課後。教科書を鞄の中に放り込み、ふと、気付く。古宮さんの連絡先、知らない。

 これでは、家を訪ねるにしても、いつ行けばいいのかも分からない。聞きに行きたいのに、足が動いてくれない。クラスの中には私と古宮さん以外にも、多くの生徒がいるから。頭に過る噂話、陰口。

 子供っぽくてくだらない。嫉妬しているだけ。理性ではきちんと分別して捨てているはずなのに、噂を前に尻込みして躊躇っている自分。噂を否定して嫌われないようにと笑っている私。クラスの中心、瀬戸海月が揺らがないように。

 どっちつかずの宙ぶらりん。どうしようか。答えを出すのを引き延ばしながらペンケースを鞄の中に放り込み、ふと、誰も話し掛けてこないな、と顔を上げる。

 目が合った。いい匂いがした。


「ふ、古宮、さん」


 すぐ傍で立って、私を見ていた。周りの生徒の一部は、何事か、と面白半分、遠巻きから観察。


「バイト、いつ終わるか分からないから……悪用しないって誓うなら、渡しておくわ」


 差し出された。小指サイズの鉄の小物。数秒間の沈黙。今の状況を理解している人間はこの教室の中、きっと、誰一人いない。

 古宮さんの柔らかそうな手の平の上には、一つ、鍵が乗っていた。


「あ、え、っと」


 目の前に古宮さんが居ること。周りにクラスメイトが居ること。そして、差し出されているのが古宮さんの家の鍵だということ。同時に頭の中に洪水のように流れ込んできた情報。脳の処理施設がフル稼働しても、処理が追いつかない。


「来るんでしょ? うち」


 舌が上手く、動かない。誰かが、私達のことを、何か言っている。耳に届く頃には、言葉としての形を失っているけれど、何かを話している、ということだけは、分かる。

 クラスの中心、人気者の瀬戸海月。それから、名前の分からない自分勝手な瀬戸海月。二つの私が正面からぶつかり合って、動けない。

 喉が、『何を言っているの、古宮さん』と、取り繕おうとした。出てこないように、押し込めて、黙り込む。たったの、十秒足らず。

 ほんの少し下がった、まなじり。態度だけでも、私の押し込めた言葉を理解するのには、十分だったみたいで。


「……そう」


 自然体、取り繕っていなかった表情が陰り、顔から感情の色が一気に薄くなる。手の平がぎゅっと、握られて、鈍色が連れ去られる。


「それじゃ」


 踵を返し、教室の外へと向かっていく。何だったんだろうと首を傾げる生徒や、単純に馬鹿にしたように鼻で笑う者も居た。大半は興味がないはずなのに、一部の視線がどうしようもなく気になってしまう。

 どうしよう。どうしたらよかったんだろう。未だ、ぐるぐる、思考を巡らせている頭の中。

 このままやり過ごして、クラスメイトには『なにあれ?』と返して、知らないフリ。

 古宮さんには、後から『クラスメイトに変に噂される内容が増えると、面倒でしょ?』と気を遣ったのだ、と説明を重ねる。私の中、全てが丸く収まるアウトラインが引かれていく。


「……は?」


 声が零れた。バカか私は。誰からも好かれようとしすぎて、出来上がった私。瀬戸海月は、好かれる努力をする。大事なのは、自分を嫌いにならないこと。

 誰かから好かれるために、自分自身の醜さを直視し続けることになったら、おしまい。好意というものが理解できなくなって、いつか破綻する。

 現状維持をするか、否か。ヘタレで、意気地無しの私は、一先ず現状維持を、と椅子に座ったまま。動けない。はずだったのに。

 教室の扉から足を一歩踏み出そうとした古宮さん。視界から消えてしまう。


「ま、待ってっ!!」


 ガタり。椅子から跳ね上がって、駆ける。机と机の間をすり抜ける、途中、腰に、机の角がぶつかって、声にならない声。でも、止まらない。私を見る目が、背肌がぴり、と痒くする。数メートルの短い距離。なのに、何度も転びそうになる。教室は、障害物が多すぎて、走るのに向いていない。

 手を、伸ばす。前を行く彼女の、腕を掴んで、思いっきり引っ張った。


「なにっ……!?」


 初めて聴いた、高い声。大きくはなくとも、しっかり、聞こえた。

 乱れる吐息。早鐘を打つ心臓。ぎゅるぎゅる、と血液が煮える。内側が爆発しそうになっているのは、突然走ったからだけではなくて。立派でも、カッコよくても、大人でも。私の手に握られた古宮さんの手首は、細かった。

 引っ張られて、廊下と教室の境目に立つ古宮さん。間に合った。身体が、動いてくれた。


「はぁぁ……ふぅぅ……」


 古宮さんの目をジッと見て、深呼吸を一つ。少しだけ、今までの私を捨てる。根っこは変えられなくたって、枝葉くらいなら、今この瞬間にだって帰られる。

 左手で、掴んだ彼女の右手首。先ほどと変わらず握られたまま。自分勝手に、強引に。もう片方の右手で、握り拳を割り開く。

 変わらず、そこにあった。鈍色の輝きを、奪い取る。冷たい色をしているクセに、しっとり、湿っていて、生ぬるい人肌の熱を孕んでいた。


「台所、借りるから」


 ようやく出た、第一声。辛うじて裏返っていないだけの声。内容は、滅茶苦茶で意味不明。自分でも、何を口走っているのかと、内心でつっこむ。言われた側にしてみれば、けし粒一つ分だって理解できない筈なのに。目の前の彼女は、肩を竦めて、苦笑い。

 嬉しくなる。彼女から、どんなものであっても、表に、感情が、こぼれた。宝石のように綺麗な感情を掬い取って、私の中に沈める。


「どこ、目指してるのよ」


 ふわり。柔らかい。お日様を浴びた毛布みたい。包まれていたい。咄嗟に動いたのは、感情と言うよりも、衝動。嫌な顔をしないで受け止めてくれるのが、分かっていたから。甘えて、踏み出していた。


「置いてある調味料は、好きに使っていいから」

「う、うんっ」


 頷いて、沈黙。会話が途切れ、同時、一切聞こえなかった周りの音が、雪崩れ込んでくる。遠くから、安全圏から、窺うように小石を投げられるみたいな、声。でも、今の私は焼け石。小石程度に、気を遣う余裕なんて、ない。


「ちょっとだけ、待っててっ」


 古宮さんの手をブンブン、と二回、大きく振って、言い聞かせる。慌ただしく反転して、自分の席へと小走り。机の上に置かれた、スクールバックを引っ掴む。ちゃんと、持って帰るモノは全部入れただろうか、逡巡。けれど、少しくらい忘れたって、どうだっていい。今の私が適当に囁いて、背中を力強く押した。

 席に戻ると、目が合う。クラスメイトと、友達と。浮かんでいるのは、混乱、疑問、それから興味本位。曖昧で、灰色。私の一挙手一投足が、皆の興味をあおり立てる。


「また、明日っ」


 今日の放課後を過ぎれば、明日の一限目。困惑が消化されて、吸収されるには十分な時間。学校、教室という狭い箱の中はたった少しのことで様変わりする。これまでと同じかも知れないし、そうじゃないかもしれない。


「あ、うん」


 ほんの少しの不安は、バックを肩に掛けた頃には、消えていた。扉の横では、私のお願い通りに待っていてくれている一人のセーラー。


「一緒に帰るから」

「バイトって言ったでしょ」

「それでも、帰るから」


 子供のように、駄々を捏ねる。ずっとずっと、宝箱の向こう側。何重にも鍵を掛けて、詰め込まれて眠っているもの。その鍵を、古宮さんは開いてくれる。

 一回、家に帰って、準備をしよう。着替えて、お風呂に入って、それから、それから……

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