第6話

「で、どうだった」

「どうだったって、何?」

「先週、プリント届けに行ったんでしょ。あの、ヤバイって噂の子の家に」


 喉元にまで出掛かった溜め息を飲み込む。後は、胃液が溶かしてくるのを待つだけ。


「別に、普通だったけどなぁ」


 嘘も嘘。古宮さんは謎の力を持っていたし、家にも独りで住んでいるように見えた。女子高生が一人で、住むような場所には見えない閑散とした地域で。何にも知らなかったのに比べ、中途半端に知ったことによって、分からないことが細分化されて、増えてしまった。

サイドテールが跳ねて、傍に。足音もどこか、跳ねているみたい。


「ほんと? やっぱり、噂が一人歩きしてる感じ?」


 小春の、面白おかしく誰かの事を話したりしない、温和さが、いつもよりもありがたい。サイドに縛られた髪がやわらかに揺れ、声もふわふわ、柔らかい。


「多分ね」

「いやでもさ。なんか、スーツの男と歩いてたらしいよ」


 話していると自然、人が集まってくる。すぐに大所帯にまで膨れ上がる。


「ま、古宮ならどこで何しててもおかしくないけど」


 液晶画面に視線を落としたまま、呟くショートカット。サイドの髪を綺麗な形の耳かけている一葉。話を聞いていないようで、聞いている。下を向く視線、切れ長の目端が、前髪の隙間から見えた。


「一葉もそう思う? 実際、一年の時に、三年の先輩の彼氏、奪って、すぐにフッたってヤバくない? 怖い物知らずじゃね?」


 私が知った古宮さんの印象なんか、すぐに押し流されて、何人もの手垢がついたクタクタの話で盛り上がる。薄味の真実は、味の濃い不確かで上書きされてしまう。

 先週までだったら、知らぬ存ぜぬ、笑いながら誤魔化していれば、どうにかなった。すんなりと愛想笑いが出来てしまって、胸の中、何かがぷちりと押し潰される音が気持ち悪かった。

 人間関係は、数を増やすほどに濁っていく。小学生の頃、図画工作の時間、パレットに出した絵の具。自分だけの綺麗な色を作ってみましょう、そう、先生に言われて好きな色を掛け合わせた。二つの色を重ねて、全く違う色が生まれて楽しかった。けれど、生まれた色はどうにも好みではなかったから、好きな色が生まれるように、更に混ぜていく。一つ足して、二つ混ぜて、三つ重ねる。でも、色を合わせれば合わせるほど、くすんで、淀んで、濁っていく。最後には、黒でもない、泥とも苔ともつかない、汚い色になってしまって。


「っていうか、あんなんでもモテるから、美人ってズルくない?」

「わかるー。でもさ、寄ってきてる男、大体、外れじゃん」

「中身知ってたら、大抵のヤツは手、出さないでしょ。あーあ、私があの顔に生まれてたら、もっと上手くやるのに」

「大丈夫だって。そのままでも、カワイイって」


 彼女達に、悪気はない。事の真偽なんてどうでもよくて、そこに刺激があるか、話の種になるか、だけ。罪悪感があったとしても、トイレットペーパーを使い切ったのに、替え忘れた程度。だって、誰もが、噂をしているから、自分たちだけでは無いから。

 古宮さん自身が気にも留めていないように澄ましているのが、拍車を掛ける。誰かの陰口を良しと思わない小春がやんわり、取りなそうとしてもその口振りが減ることはない。

 彼女らと一緒になって笑おうとすると、金曜日の私が、冷たい目で、今日の私を見下してくる。相槌を打つことも出来ず、ただ、黙りこくって話を聞き流す。早く、終わってくれないかな、なんて考えながら。

 間違えたな、って思った。二年に上がった時、一年の頃、仲が良かった二人と変わらず同じクラス。私たちは運が良かっただけで、誰もが、都合よく友達と一緒のままって訳にもいかない。グループと離れたクラスメイトが、一人、二人、話している内に輪が大きくなった。まるで、ここが世界の中心だとアピールするように。


「……?」


 突然の沈黙。話が途中でぶちり、千切れた。途中から会話に追いつけていなかったから、慌てて、視線を巡らせると、すぐに、会話が途切れた理由が居た。私と同じ制服を着て、漆より艶めく黒髪。切れの良い目尻、宝石のような瞳。

 噂の中心、古宮澄が、私の傍に立っていて。

 古宮さんが居る。その事実に、心が、くすんだ。

 見ないで欲しい。違うから、と。そんな、言い訳を並べている私。クラスメイトの輪の中、曇り眼鏡をかけている私。二つが反発し合って、前にも後ろにも動けない。

 一瞬、細められた目。ほんの少し、灯っていた何かが、フッと、消えた。蝋燭に灯った火を一息で吹き消したかのように。


「おはよう。金曜日は助かったわ」


 凜としたアルトボイスが、私に向けられた声だと理解できたのは、彼女が長髪を翻し、自分の席へと向かうのを見送ってから。親しみと、失望。その二つが中途半端にかき混ぜられたカーキ色。背中に向かって、声をかけることができなかった。挨拶の一言も、返すことが叶わずに。

 私は、きちんと、古宮さんの事を理解している。勝手な自惚れが、瞬き一つしない間に、消えていく。古宮さんの印象が、直接話したことも無いような人間の噂で汚れていく。違うと分かっているのに、どうしても顔を見ると、噂が尻尾を出して邪魔をしてくる。信じていない、関係ない、頭では理解しているのに、奥底の部分でハッキリと切り分けられない、出来損ないの思考回路。

 私に向けられた、金曜日の綺麗な瞳は、瞬くと消えてしまって。さめた視線は、くだらないと、吐き捨てるような。つまらないと、切り捨てるようで。


「あっ」


 これが、古宮さんが私に向かって抱いていた『つまらない人』の正体。

 互いに話したことで、私に抱いていた印象は変わった。と、言っていたけれど、それがまた、戻ってしまった……或いは、もっと下がってしまったのかもしれない。


「……海月?」

「あ、うん。大丈夫」


 声をかけられた。内容は殆ど入ってこない。

 違う。私は、つまらない人間じゃない。声高に叫びたくなる。クラスの中心で座っている、瀬戸海月はそんなみっともないことをしない。

 否定するでも肯定するでもなく、周りが望む言葉を。嫌われることのない答えを這いつくばって探し回っているような人間だと、直接、見られてしまった。

 失望。それが、古宮さんから少しでも向けられた事実を認めたくない。

 思い出す。小さな頃、お母さんに頼まれた、初めてのおつかい。頑張ろうという意気込みでいっぱいだった。けれど、一人で外を歩くのが怖くて、結局、何も買えずに帰ってきた。細かいことは、もう、忘れてしまったけれど、ただただ、期待に応えられない自分が情けなくて、こんなハズではないのに、と何処に向けられたのかも分からない言い訳を並べていた。

 今の私のように。ちゃんと出来るんだと、失敗していないと。

 ぼぅっとする。話し掛けられても、適当な相槌を打つのが精一杯。気付けば、担任の女教師が、教室へと来ていた。私を囲んでいた友達も席へと戻っていく。

 朝のホームルームが当然のように始まる。私の状態なんて考慮されていない。胸の内、しこりとなって、心の流れが淀んでいる。自分の、舵が上手くとれない。

 とんとん、と肩を叩かれ、振り返る。後ろに座るクラスメイトが数枚のプリントを私に向けて、差し出していた。瞬き一つ分の思考停止。悟られる前に再起動。笑顔を貼り付けて、受け取る。


「……これ」


 先週の金曜日に配られて、週明けに提出をするように言われていたプリント。そして、古宮さんの家に届けに行ったモノでもある。悩むようなモノでもない。単純な、修学旅行の参加可否調査票である。机の中、クリアファイルから、自分の分のプリントを取り出す。そこには、参加に丸印。それから保護者の印鑑。後ろから回されたプリントに重ねると、再び前へ。

 よほどの理由がなければ、殆どの生徒が参加する一大イベント。公立だから、特別豪華でもなければ、珍しいわけでもない。値段を抑えた、極々普通の古都巡り。海外だとか、南国だとか、テーマパークだとかが良い、と文句を言う生徒は居る。そう言いながら大概の生徒は楽しみにしている。勿論、私だって楽しみ。

 ふと、頭に過る。古宮さんはどうするのだろう、と。修学旅行、団体行動の中で、はしゃいでいる姿は想像し難いけれど、画にはなりそう。視線を古宮さんの方へ、向けてみる。


「……?」


 担任と何かを話していた。立ち上がった古宮さんは教師とともに、教室を出て行く。いつもなら、気にも留めないのに、視線が引っ張られてしまう。ガラガラと閉じられた、教室の前扉。少しすれば、一限目が始まる。隙間時間は、クラスがクラスという形を保ったまま、最もまとまらない時間。一枚板の机上に、ノートや教科書を準備する生徒。教師が来るまで、勉強道具の一つも出さずに雑談する生徒も居る。視線を落とす。誰のものかも分からない、小さくて薄汚れた消しゴムが呆然と、転がっていた。

 誰かに見られているわけではないのに、出来る限り自然を装って、立ち上がる。あくまで、お手洗いに行くだけ。途中で話しているのに遭遇したらタイミングが悪かった、とインスタントな言い訳を懐に忍ばせる。

 教室を出て、お手洗いに向かう。廊下には、一限目から移動教室の他のクラスの生徒が溢れている。少し歩くと、階段が見え……見間違うはずもない黒髪が、覗いた。

 このまま、素通りして、お手洗いに行くべきか。階段に差し掛かる手前の見られない場所で、立ち止まって話を盗み聞きするか。選択肢に挟まれる。盗み聞きなんて、やってはいけない。それも、人に見られるような場所で、本人にもすぐにバレてしまうような盗聴なんて、論外。

 論外、という二文字の上で、私の二本足は止まっていた。


「古宮、行かないことをどうこういうつもりはない。ただな、行くにしろ、行かないにしろ、親の同意が必要なのは分かるよな」


 よく通る体育会系を思わせる声が、少しだけ背筋が伸ばした。間違いない、話している相手は古宮さん。


「実際に行くのは親では無くて、私なんです。私が行かないと決めるのでは、不十分なんですか……?」

「あぁ。行かないと決めたことを、親に伝えないと不十分。お金だって絡む話だ。大人が、責任を取れる人間がどういう形であっても、入らなきゃいけないんだよ」

「自分の責任すら自分で取ることができないんですか。たかが、修学旅行の一つなのに」


 僅かに震えている声。顔も見えないのに、そこに、浮かんでいる不本意だけは、はっきり見えた。落ち着いているようで、隠し切れていない。綺麗な桜色の唇を噛んでいるようにすら聞こえる。


「そうだ。学生が背負う責任の大概は、大人になるまでの予行演習みたいなもんだ。背負いきれない責任は保護者が、学校が、大人が取る。そういう風にして世の中は回っている」

「たとえ、親として相応しくないようなロクデナシだったとしても?」

「親のことを悪く言うもんじゃ無い。どれだけ古宮が親のことを嫌いでも、どれだけ古宮がしっかりしてようと、世間が責任能力があると判断するのは親になる」


 声が二つ。盗み聞きするロクデナシが一つ。


「……古宮のお母さんから、高校の修学旅行は人生に一度しかないので、行かせてあげてくださいと、連絡を受けてるんだよ。それを無碍にはできない」


 底が冷えるような沈黙が一瞬、肌を撫でる。唯一見える、髪の毛先が、ぶわり、と蜃気楼のように揺らぐ。


「古宮には古宮の事情があるのは分かるが、きちんと話し合ってみてくれないか」

「……わかりました。もう少しだけ、待ってください」


 先ほどまでの芯の通った声が嘘のように、空虚でがらんどう。中身には、空気しか詰まっていないような。


「なるべく早く、決めてほしい」

「……はい」

「担任としては全員揃って修学旅行に行きたい、と思ってるよ」


 会話の流れで、何を話しているのかは大概、理解できた。発端が、私が金曜日に届けた修学旅行参加可否調査票。古宮さんの内側を、のぞき見てしまった。

 それきり、二人の会話は消化試合。この場を離れないと、と認識した時には既に、古宮さんが目の前。教室に戻るのだから、教室から来た私と鉢合わせになるのは、当然。

 瞬きを数度、偶然ここを通りがかった……なんて、言い訳は恐らく通用しない。


「……瀬戸さん、何してるの?」


 古宮さんの家では見ることのなかった、冷たい表情。なのに、見覚えが、ある。


「えっと、盗み聞き、かな?」


 どうしてだろう。もっと上手く立ち回れるはずなのに。幾らでも、誤魔化せるような予防線を張った上で振る舞うのは得意なはずなのに、古宮さんの前ではそれが上手くいかない。そもそも、スイッチがオンにならない。

 一瞬だけ、冷たい顔に、怒気が滲む……けれど、瞬きもしない間に、萎んでいく。


「そんなにバカ正直に言われたら怒る気も起こらないわ」

「怒るだけに……?」

「はい……?」

「怒ると、起こる。二つを掛けてるのかなって……」


 私と古宮さんの間に、一瞬の空隙。それから、弛緩。呆れを半分ずつ分け合った笑顔、二つ。

「ほんと、つまらないわ」


 あいさつを返せなかったから。軽蔑されるか、相手にすらされないか恐れは杞憂へとふんわり変わって。内心、安堵と拍子抜け。


「偶然通りがかっただけなら、私だって責めないわよ」


 好かれたいのなら、嘘でも頷けばいい。聞くつもりはなかった、と。でも、その選択肢は灰色に染まっていて、選ぶことは出来ない。


「……偶然じゃなかったら、責めてくれるの?」


 自分の口から出た言葉に、思わず、目を張った。

 鏡はないけれど……目の前の古宮さんが、鏡代わり。眉を上げ、目を開き、パチクリ、瞬く。きっと、私も同じ表情をしている。


「瀬戸さん、M?」


 再びの予想外。えむ。エム。M。数度、咀嚼して、ようやく言葉の意味を消化吸収。でも、答えは浮かばない。考えたこともなかったから、瞬き一つ分の時間、思索。


「分からない……けど、古宮さんなら、あり、かも」


 自分のものとは思えないような言葉ばかりが出てくる。


「私達、そんなに仲良くないわよね?」


 仲良くない。直球に過ぎる物言いに、自然、笑いがこぼれる。もっと、言い方があるのに、放たれた矢のような真っ直ぐさが、古宮さんなのだと、居心地が良い。


「古宮さん、美人だから」


 だから、なのだろうか。彼女の前では、私の根っこにまで染みついてしまった習性にも近しい、振る舞いが、引っ込んでどこかに行く。人気者、優等生、八方美人の瀬戸海月が、行方不明。新しい自分の一面、と言葉にすると途端に陳腐に。


「美人になら責められてもいいって、褒められてるのか微妙だわ。少しも嬉しくないもの」

「誰でもいいワケじゃないから、そこだけは勘違いしないで」


 会話した総時間が三時間にも満たない、裁縫糸のように細い関係。勘違いを起こすほど、互いを理解していない。すれ違うほど、近くはない。


「何話してたか、気になる?」

「う、うん」


 問われ、思考が、急に最徐行。質問の答えは、当然、肯定。辛うじて、声になったのも、短い二音。イエスかノー。二択で言うのなら、イエス。なのだけれど、本当に気になることは……本質はもっと別の所にあるような気がしてならない。

 徐々に減っていく廊下の影。止まっているのは、二対四足の上履きだけ。


「大した話じゃないわ。修学旅行に行きたくない、っていうのに親の同意がいるって言われて困ってたってってだけ」

「行きたくない……」


 自分に関係ないことのはずなのに。開けられた窓から入り込む風が、体温を奪っていく。


「私、母親が嫌いなのよ。親と上手くいってないだけの、ありふれた話だわ」


 仲が良くない、母親が嫌い。何でも無いことのように言って、自虐的に肩を竦める。探せば幾らでもあるありふれた話だからって、抱えているものが軽くなるわけなんかないのに。


「だから、一人暮らししてるの?」

「……流石に、あんな狭いとこに住んでたら分かるわよね」


 肩を竦める、その反応が、そのまま、質問の答え。


「中学の時に、新聞配達のバイトをしていた時に、親切な人が居たの。オンボロだけど、格安で借りてるの」

「自分で借りて、自分で払ってるの?」

「まぁ、そうかな。でも、結構、割り引いてもらってるから、自立しているかって言われたら、微妙ね」


 一人暮らし。それだけなら、同級生にも何人か居る。ただ、それは、寮暮らしであったり、親の仕送り等で家を借りてたり……謂わば、保護者が居て成立している、支えられた上での一人暮らし。本当の意味で、自立しているわけではない。自分で稼いで、自分だけで暮らしている生徒だって探せば居るのかも知れないけれど、少なくとも、私の周りには居なかった。

 どこか、古宮さんが、高等学校という空間に馴染めていないのは性格だけではない。もう、自分の足だけで立ち上がっているから。


「なんか、かっこいいね」


 自分が、何も出来ない子供みたい感じてしまう。ぼそっ、細い声が、落ちた。実家から通って、部屋も分けて貰って。その上、お小遣いを貰っていながら少ないと文句を垂れて、少しだけバイト。


「どこが?」


 首を傾げる古宮さん。それが、一番、かっこよかった。苦労しているだとか、頑張っているのだとか、掲げることもない。当たり前のことだと。古宮さんから見ると、高校二年生なんて、大多数は甘えている子供、に見えるのかもしれない。だから、必死になることも、萎むこともない。


「学校に行きながら、一人暮らししてるって、大人だなって」

「そう見える?」


 頷く。ただ、自立しているだけではなくて、成績だって優秀。なんというか、カンペキ。大人になって、大物になった時にはテレビに出て波瀾万丈だったと披露。私なんかは、山も谷もなさ過ぎて、全編カット間違いなし。


「大人、か」


 眉を顰めて、唇を尖らせた。私の言葉が、古宮さんの、ザラザラとした部分をなぞってしまった。舌先に残る言の葉の後味が、教えてくれた。

 予鈴が鳴る。もう五分もしないうちに先生がやってきて、授業が始まる。古宮さんのどこに触れたのか、分からない。分からないを自覚すると、自分の中にあった不定形の本質がハッキリ、輪郭を映す。

 知りたい。私と違う古宮さんのことを。


「……きょ、今日、家に行ってもいい?」


 気になるのは、何を話しているのかだけではなくて。

 不思議な力のことも。一人暮らしを何故しているのか、だとか。家族とか。好きな食べ物なんて、小さなことだって。他人に興味を持つこと、別に珍しいことでもなんでもないのに、まるで、初めて抱く感情みたい。


「何しに来るの?」

「あ、えっと、遊びに?」


 何をするわけではない。行くこと自体が目的の殆ど。言い換えれば目的はないとも、いえる。


「でも、バイトがあるわ」

「終わってからなら……!!」


 そこで諦めればいいのに。日を改めるとか、すればいいのに。潔さ少しも無い。食い下がってしまう。面倒くさがられていないか、断る方便だろうか、迷惑じゃないか。

 色々考えて推測して、一番好かれる答えを組み立ててくれている回路が、ショートして、壊れていた。


「遅くなるけど、それでもいいの?」

「だ、大丈夫!!」


 私の中、幾十も張り巡らされた濾過装置。そのフィルターを一つも通していないものが上履きの上、滴り落ちる。


「瀬戸さんがいいなら、私はいいけれど」

「やった」


 小さく、ガッツポーズ。小さく身体が跳ねた。


「そんなに、喜ばれると、怖いわ。うちに何もないの、知ってるでしょ」


 八の字の眉。綺麗な形。古宮さんの家には古宮さんがいるのを、古宮さんは分かってない。


「そろそろ、戻るわね」


 歩き出した、黒髪が揺れる。うっすらと、あの日、浴室で肺を満たした匂いが、私の鼻腔に混ざって、溶ける。

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