第5話
まさか、こんなことになるなんて。
ホッと一息、吐いて、顔を上げる。部屋灯りのヒモがほんの少しだけ、所在なさげにゆらゆら。その上、大小二つの輪っかが交わること無く灯っている。
古宮澄という少女は、想像よりもずっと話しやすかった。言葉が真っ直ぐで、嘘がない。偽ることのない、飾り気のない言葉は、私にとっては、とても貴重。すごく、呼吸がしやすくて。
時折、沈黙を共にするのが、不思議と落ち着く。殆ど初対面だから、すぐに話題が途切れてしまう。沈黙は苦手なはずなのに、狭い部屋で鳴り響くドライヤーの音が、静かに降り積もって、気まずさという穴を塞ぐ。
古宮さんの不思議な力について聞いたり、脱線して他愛の無いことを話していると秒針が早くなる。気付けば、制服からの水分は殆どが空気に溶けていた。留まる理由は失い、少し名残惜しさを乾いたポケットに詰め込む。
帰り際、制服を着て立ち上がる。私に付き添うように、扉の近くまで来ていた古宮さんが、玄関先のスニーカーへと足を通していた。
「駅まで送っていくわ」
「いいって。体調、悪いんでしょ」
「それ仮病。ほんとは、どうしてもバイトに入ってくれって頼まれたから」
やっぱり。鼻から、小さな笑いが抜ける。どこからどう見ても、寝込む必要性があるようには見えない。一人で真っ直ぐ立って、曲がらずに歩ける。生命力とか、意志力、なんて言えば大層
かも知れないけれど、古宮さんからは、弱々しさとは対極の位置にある向日葵のような心の強さがハッキリ、背筋を通っていた。
「女子高生を一人で帰すなんて、危ないでしょ」
「古宮さんも同じじゃないの?」
「私は大丈夫。走って逃げられるから」
「早いの?」
「それなりにね」
私と違って、とびきりの美人。少し人の集まるような駅でも行けば、すぐにでも声をかけられる。バイト、というのもモデルかなにかだろうか、と勝手に想像してしまう。
「送りたいって思ったから送るの。善意で来てくれた瀬戸さんに何かあったら、気分が悪くなるでしょ」
「本当に、善意だけで来たって思ってる?」
ピリ、と。ほんの少しだけ、角張った言葉が、転がって、板張りの床に、傷を付けた。切ったばかりの爪で、皮膚を引っ掻いたような傷を作る言葉。慌てて、手を伸ばしても、拾えるわけが無くて。
「あっ」
つい、口が滑った。誰の記憶にも残りたいという、大仰な欲。それは、他人を傷付けない、という制約が掛かっているハズなのに。幾つもの関所を素通りした、棘が、零れた。
「じゃあ、嫌がらせでもしに来たの? そうは見えなかったけれど」
「そうじゃ、ないけど……」
「なら、いいのよ」
それが、好かれたいという承認欲求から来る、偽善だとしても? なんて、聞けるわけが無い。
「? 行かないの?」
「……うん、帰るよ」
割れたプラスチック片のような言の葉は、向けられた本人、古宮さんには少しも傷を与えることはなくて、玄関先、冷たいコンクリートの床に、吐き捨てられた。何事も無く、玄関扉が閉じる。忘れられること無く、ノブの上にある鍵が掛けられた。
「建て付けが悪くて、鍵がすっごい固いの」
鍵を掛けた時の大きな音は、今も、玄関先にある、柵に引っかかっている。
二人、心地良い風に身体を委ねながら歩きだす。共用の通路を歩いて、階段を下りる。制服の私と、私服の古宮さん。私服、と言っても、髪型は乾かしたまま、何の手も加えていないストレート。長手のシャツに、デニムジーンズ、ラフそのもの。それでも、スレンダーな体型に綺麗にハマっている。華やかさは薄いけれど、それ以上に、ごく自然なままの格好は、隣を歩いていて、心地良い。
「私の家も、この辺なんだよね。ちょっと方面は違うけど」
太陽は沈みかけて、空を朱色に染め上げる。過剰なまでの燃えるようなオレンジは、綺麗だけれど、ずっと見ているのは目が痛くなる。揺らめき、炎は徐々に遠くに、届かない場所に。
「知らなかったわ」
「この辺って言っても、もっとあっちの方だけど」
適当に、家のある方角を指差す。なんてことはない、一軒家だとか、スーパーが並ぶような、何処にでもあるような住宅地。ただ、古宮さんの住んでいるこの周辺とは違って、大きな道路が幾つも通っていて、子供がよく通っている。だからなのか、比較的治安が良い方だと思う。
入り組んだ道を古宮さんに助けて貰いながら歩いていく。古いアパートの傍を通り、長屋の雑木林に迷い込まないようにしているうちに、車や人がそれなりに歩いているような道に出た。丁度、仕事終わりの帰宅時間に重なったのか、街自体が急いでいるみたい。
他愛のない言葉が、思考を介すること無く、するする、舌の先から流れていく。最近この辺りにできたパン屋さんが美味しいらしい、だとか。古宮さんの家の近くには、コンビニが遠くて不便だとか。
プリーツスカートを翻す。隣で、黒曜の絹糸がさらさらと舞う。軽い足取り、一歩、二歩、三歩。スニーカーと、ローファー。二対の靴裏が、アスファルトに削られる。
「つまらないって言って、ごめんなさい」
途切れた会話。気まずくはない。繰り返される街の喧騒という波に身体を委ねていると、こつり。突然の謝罪が頭にぶつかる。一瞬だけ、足が止まりそうに。
「……今更?」
それ以上に、悪い、と思っていたことに驚く。そんな素振り、少しも見せなかったのに。
「最初は、謝る気、なかったわ。ねぇ、知ってる? 知りもしないクセに遠くから、あいつはこういう人間だ、って好き勝手言われるの、すごく、腹が立つの」
「なんとなく」
少し成績が悪いけれどクラスで一番騒がしいグループには、頭が良いから、なんて別物扱い。逆に、真面目で育ちの良いクラスメイトには、生きやすそうだね、なんて言われる。古宮さんに向けられた噂のような露骨な悪気は無い。大多数に好かれようとすると、どうしても、合わしきれない小さなズレ。
「瀬戸さんも、汚れたレンズ越しに私を見てるんだろう。だから、私も、色眼鏡を通したの。誰にでもいい顔をしてる人生って、つまらなさそうだって。瀬戸さんのこと、何にも知らないのにね」
でも、だめね。そう、付け足して、仕上げに溜め息がトッピングされた。
「自分がされて嫌なことは、人にしちゃいけませんってあるでしょう? アレって多分、最初に言い出した人が、凄く気分が悪くなったのよ。後味が悪くて、引きずってしまうからやめましょうって教訓を残してくれたんでしょうね」
私が、古宮さんのことを色眼鏡を通さずにいられたのは、ただ、状況がそれどころではなかったから。聞こえていた噂を、手に取るどころか、漁る余裕もなかっただけ……だと思う。
「つまらない、って言われたのは、まぁ、少しイヤだったけど……誰かを噂するのって、関わりもしないのに勝手に想像するのって、普通じゃない? ほら、芸能人とか」
ただ耳に流れてきただけの噂を受けて、勝手に分類して、無許可にラベルを貼り付ける。そうすることで、関わりのない人間を知った気になる。自分の知らないはずの人間を推測できる、特別な機構。
「直接テレビを見て、どう思った、とかならいいの。ただ、コメンテーターとか週刊誌とかが、ありもしないことを外野から好き勝手に言ってるのが、嫌い」
人の汚いところが嫌いなのは、分かる。でも、それは少数派。大体の人は、自分に関係しない噂やゴシップを好む。誰と誰が付き合っている、有名人が浮気した。そんな話が電車に吊され、コンビニに並ぶのは、需要があるから。学校という小さな閉じたコミュニティも同じ。きっと、人と関わっている限り醜さを避けられない。
「想像とか、予想とか、それくらいは普通よ。私だってするもの。でも、尾ひれがついて、噂自体で遊びだす。何を言っても、そんな曇り眼鏡を通されるのは、すごくイヤだわ」
薄汚れた靄となって、吐き出された。ずっと、靄を一人で抱えていたのだろうか。
「でも、それってきれい事だよね」
古宮さんを励まし、支えるようと、言葉を薄い膜で包む前に、舌は動き出していた。優等生の、良い子の私が、機能不全。
偏見というのは、誰にでも気付いた頃にはできている。なんだったら、物心つく前から備わっている。主観の土台。だから、私は、人好きのする優等生という色眼鏡で見られようとしている。
古宮さんの言っていることは正しいけれど、学校を動かしているのは正しさとか理想とかとは真逆の燃料が半分以上。義務教育九年、更に高等学校で三年。ゆっくりと、理想から現実へと染め上げていくための場所。
「きれい事が好きなのっておかしい?」
思わず、足が止まった。車道を走るトラックの排気ガスが、私を通り抜けて、現実へと引き戻す。
怒られるとか、嫌われるとか。無意識領域に浮かんでいた予測モデルは何の役にも立たない。数歩、先行していた古宮さんが、振り返る。疑問符を浮かべながら。
「ううん、私も好きだよ」
負けた。その三文字が、私の中をいっぱいに占めている。少しの陰りもなく、問いかけてくる、曇り無さ、真っ直ぐさが、突き刺さる。噂がどうとか、そんなことは全部横に置いておいて。一つ、転がったビー玉が、すっぽりと、私の胸の中にあるくぼみに収まった。
古宮さんの考え方が好きだ。趣味が一緒だとか、性格が合うとか、具体的に何がとは、まだ、説明できない。抽象的で、何処が噛み合っているのか分からない。カチリ、綺麗に噛み合った新しい歯車。私の中で、滑らかに、何の動力も、努力も、後押しがなくともクルクル回る。
「だと思った」
どうしてだろう。噛み合っている理由は、見当たらない。勝ち誇ったようた自信を口の端っこに浮かべて歩き出した背中を追う。
「私の家、知らないでしょ」
並びたい、と自覚した時には、隣に並んでいて。
他の時間よりも何倍も増した人達は、小刻みな波のよう。その波を、ゆるく、掻き分けていく。会話もない、ただ、歩いているだけ。隣で無言の少女の頭に詰まっている澄んだ考え方を想像すると、少しだけ、重力が軽くなる。
軽い足取り、鼻唄が溢れそうになったけれど、突然、隣から、上がる舌打ち。思わず、目を、瞬いた。
どうしたのだろう、と古宮さんを見ると、視線は真っ直ぐ、前に向けられていて……誰が見ても分かるほどの冷めた激情が、湛えられていた。
「古宮さん?」
「え、あ、何?」
「凄い怖い顔してたよ?」
「……ごめんなさい。少しね」
声を掛けたと同時、チリチリ、と肌を焼く熱は、存在すらなかったように、霧散。古宮さんの言う『少し』に含まれたモノは何一つ分からない。けれど、その『少し』に向けられた感情が少なくないことだけは、分かった。
歩くのを止めない私達。立ち止まっているのは、古宮さんと目が合っていたスーツ姿の女性。
開いていた距離は縮まって、すぐ傍。
「澄っ……!!」
「ごめんなさい。今、忙しいの」
交差した直後。かけられた声が、古宮さんの肩に届くよりも先に打ち払われた。歩く速度を速めるでもなく、遅くするでもない。まるで、街角で配られているチラシを断るかのように、淡々と。
なんて声を掛ければいいのか答えは出ていないけれど、喉は動き出していた。
「何にも知らないから、適当に言うけど……よかったの?」
古宮さんは、女性と視線を交わすどころか、僅かに顔を向けることすらしなかった。近くで見た、その女性は十くらいは年上で、綺麗な人。古宮さんに蔑ろにされ、落ち込んでもいたから、少し、胸が痛くなった。
「何にも知らないんだったら、何も言わないで」
不機嫌に唇を尖らせる。本人も、理不尽だと分かっているから、それ以上、語気を荒らすことも、怒りを滲ませることもない。自分を律することが出来ているのか、出来ていないのか。分かりづらい。
他人の事情に踏み込み過ぎるつもりはない。それが、誰からも好かれる為の前提条件。
どこでも息が出来るという力を知っている人間は他には居ないらしいから、その関係で巻き込まれることもそうそうない。見なかったことに、触れないようにするべき。そう、望まれている。
鞄からポケットティッシュを取り出して、一枚取り出す。一枚だけのつもりだったのに、取り方が下手だったのか……残っていた数枚が全部、固まって出てきた。
まぁ、いいか、とティッシュペーパーの固まりを右手に乗せて、思い切り、クシャクシャと、丸め、握りつぶす。出来上がったのは、不格好なパルプの固まり。鼻をかんだ後みたい。
「古宮さん、手、出して」
「えっと、はい」
刺々しさの残り香を漂わせていた古宮さん。その、差し出された手に、丸められたティッシュペーパー。一言で言えば、紙くずを乗せる。
「これ、事情を知らない私の、罪悪感とモヤモヤ。だから後で、捨てておいて」
女性との間に、存在する事情は知らない。知らないけれど、胸の内に出来た小さな靄は本物だったから、それごと返す。これで、もう、私は今の話はしない、と。もうすぐ、家に到着する。だから、いらないものは持ち帰りたくはなかったから。自分勝手、とも言う。
古宮さんは目をパチクリ、と瞬かせて、手の上に載せられたゴミを見てから……くしゃり、と更に握りしめた。真っ白な手の甲に、細い筋が浮かぶ。それから、引き結ばれた、口の端が、解けた。
「ん、わかった」
人が、少なくなってくる。私が住んでいるのは閑静な住宅街の中、ローンで建てられた、普通の一軒家。閑静と言っても、家を建てるのなんて大抵が家庭持ち。夕方なんてそこかしこに子供が居るから、本当に静かか、と言われれば微妙なところ。
隣、黒髪が揺れる。お風呂上がりの、残り香が、未だ振りまかれていて、私の意識を惑わせる。
「一個、見つけたかも」
「見つけたって?」
「役に立ったことない、って言ったでしょ」
何を、とは言わない。出来たばかりの関係で、主語もなく通じる話題なんて一つしかなかった。
「うん。使いどころ、全然ないんだよね」
何を見つけたのだろう。役に立ったことを思い出した、でもなく、見つけた。視線で、意味を尋ねてみる。伝わったのかどうかは、知らない。
「瀬戸さんと、会えた」
自信満々に言い張る、古宮さん。真っ直ぐな言葉が私の胸の中に音もなく刺さって、背中まで静かに抜けていった。楽しそうに、目を細める。艶やかさだけではなくて、女子高生特有の幼さも持っている、アンバランスさが、どこか蠱惑的。
「やっぱり、今の瀬戸さんの方が好きだわ」
私の中に出来上がった、瀬戸海月という形が、ふにゃふにゃと、崩れそうで。古宮さんの前では、保てなくて。
笑っているのだろうか。照れているのだろうか。呆れているのだろうか。
笑顔、嘆息、それから、同情。自動で取捨選択をしてくれていた優等生が居なくなったから……私は、今、どんな表情をしているのだろうか。
彼女に聞くわけにもいかなかった。
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