第3話

 201号室。その下には、真っ白、何も書かれていない表札。


「ここ、だよね」


 名字も書かかれていないから、答え合わせはできない。表札だけを見たら、空き家にしか見えない。

 心許ないひび割れたコンクリートの足場。錆びて、劣化して、私の体重も支えられそうにない手摺り。昔は読めたであろう、このアパートの名前も、長年の風雨に晒されているからか、何かが書いてあった痕跡を残すばかり。

 振り返れば、蜘蛛の巣のように電線が、あちらこちらへと伸びている。我が物顔で止まるカラス以外の生き物の気配はなし。

 廃墟ではない。辛うじて、埃を被っていない自転車が、二階へと上がる階段横に駐められていたし、閉じられた磨りガラスの向こうには歯ブラシが見える。僅かな生活感が、息づいている人の存在を、教えてくれた。


「ぼろっぼろ」


 思わず零れた、その言葉が、このアパートに対する評価の全て。私どころか、お母さんよりも、お父さんよりも年上に見える。駅から徒歩十分圏内のだというのに、少し入り組んで奥まった所に入るだけで、閑散とした住宅街になっていた。


「……なんか、想像してたのと違う」


 結局、私は一人でおつかいをしている。バイトだとか、彼氏だとか、予備校だとか。ありふれた理由で、駅で解散。

 少し厚めの鉄の板を折り曲げて軽くプレスしただけのドア。塗装は所々、剥げ落ち、曇った鈍色を曝け出す。触れなくても、鉄の重たさが伝わってくる。まるで、訪れる者を拒絶するように冷たい。首を横に振るう。高々、古臭いドア一つに呑まれるなんて、毎晩夜を怖がっているような子供でもないのに、と。

 扉の横、端が少し欠けて傷んだプラスチックのボタン。ぐっ、と指を沈めると、傷んでいるせいか、軋む。返ってきたのは、呼び鈴の音。それから、無音。少し歩けば駅という、アクセスの悪くないアパートだというのに、周辺には、雑踏も喧噪も、聞こえない。時折、車が近くを通った事を主張するエンジン音。それか、遠くで電車がガタゴト、足音を響かせるくらい。防音もそれほどしっかりしていなさそう。連打しても、キシキシ、とプラスチックが擦れる音ばかり。

 自分が恵まれているとは思わない。けれど、この環境は少し、貧しく見えた。お父さんがローンで建てた一軒家の下で暮らせているから。ローンの支払いには苦しんでいるけれど。

 勝手に私と古宮さんの環境を比べて、貧しいと哀れむなんて、失礼にも程がある。醜い考えを、胸の奥にある、大きな大きなゴミ捨て場に放り込んだ。


「すみませーん」


 ノックを数度。鉄ドアの中には空洞があるのか、想像以上に大きな音が響く。綺麗な音色とは言い難く、鳴らしすぎたら、騒音に化ける。


「誰か、居ませんかー」


 チャイムは鳴っても、誰も出てくる気配は無い。ノックをしても少しの騒音が生まれるだけ。本当に、ここに誰か、居るのだろうか? 一人、声を出して騒いでいるのが、気まずくなってくる。誰かに見られているわけでもないのに。


「ここに入れといたら、いいよね……」


 鉄扉を叩き、ほんの少し赤くなった左手の甲を軽く撫でる。視線を落とすと、ドアポスト。家にまで来たから、これで十分。直接渡せなかったとしても、私の評価がマイナスへ傾くことはないだろう。


「もっと、豪邸とかに住んでそうに見えたけど、意外」


 古宮さんは誰が見ても分かる、美人。家は厳格で、習い事はバイオリン……なんていう偏見が、私の中にある。古宮さんに限らず、私は誰にでも、勝手なレッテルを貼る。根も葉もない噂と違うのは、それを吹聴していないことだけ。

 例えば、この子は勉強嫌いで不真面目だから、真面目な私が見せるサボり癖に勝手に共感を覚えてくれる。先生は面倒ごとを避けたがるから、間に挟まるクッションになってあげると頼ってくれるようになる。お母さんは、国立大学を出たことを何度も話すから同じ大学を目指していることを好ましく思っている。

 その貼り付けたレッテルに書かれた情報を元にして、誰からも好かれるように振る舞う。優等生の瀬戸海月も同じ。大多数に出来るだけ好かれるための、ベースメイク、みたいなもの。

 鞄のファスナーをジィ、と引っ張る。口を開けると、外端から教科書、ノート、クリアファイル。私ルールに基づいた整理整頓された鞄の中。一番、手前、身体側にあるクリアファイルを取り出す。ドアポストに入れようと、隙間に向かってクリアファイルを差し込むけれど、受け入れてくれない。


「はい、らない……」


 無造作に入れようとしてダメだったから、今度はもう片方の手で、ドアポストを押して開こうとするけれど、ダメ。一文字に結ばれたまま、口を開く素振りも見せてくれない。


「壊れてる、ワケじゃ無いよね……?」


 高々、ドアポスト。さび付いていようとも、小窓を開くだけの単純な作り。それが、偶然、壊れているとは思えない。


「中から、閉じられてる、とか」


 思いつくのはそれくらい。チラシなんかを放り込まれるのが嫌いなのかもしれない。

 入れられないのなら、と、もう一度ノック。ガンガンガン、と鉄板扉を叩く音、物静かな住宅街に何度も跳ね返って、響く。体調不良で学校を休んでいるクセに、どうして家に居ないのか。不満が、ポップコーンのように破裂して溢れてくる。

 どうするか、立ち尽くして数十秒。思考の底に沈んだ石ころが気泡を生む。手垢のついた噂が、水底から、一つ二つと浮かんでくる。家に居ない理由、空かないドアポスト……何の因果関係も無いのに、噂と紐付けようとしているのを自覚。自分の浅はかさに、鉄扉よりもずっと、曇った溜め息。

 このまま、帰ろう。来たのは完全な無駄足。やれる範囲の事はやったから、咎められることもない。踵を返す、その前に。なんとなく、本当になにも考えず。丸いドアノブに手を添える。

 何の抵抗もしなかった。


「う、そぉ……」


 ゆっくり、ドアが軋みとともに口を開く。開いた向こう側に見えるのは、ワンルーム。玄関に併設されるような形のちょっとしたキッチン。シンクには、スーパーで売られているような弁当の空きプラ容器がぽつんと置かれている。きちんと、洗い流されていた。

 流し台の上にある窓枠には、子供向けアニメキャラが描かれていたであろう色褪せたプラスチックコップ。突き刺さる一本の歯ブラシ。

 空き巣紛いの行為、誰かに見られたらよろしくない。そうは思いながらも、プリントが入らなかった真相が気になって、ちらり、視線を滑らせる。


「……うわぁ」


 開いた扉の内側、びっしりと、何重にも張られたガムテープが狂気的なまでにドアポストを塞いでいた。蟻一匹入る隙間はない。ドアポストにはこれだけ厳重に封をするのに、鍵は開いているのだから、警戒心が強いのか弱いのか。兎も角、不用心が過ぎる。ドアのすぐ傍には、傘が一本、立てかけられていた。

 訪れる場所を間違ってしまったのだろうか。何事も無かったことにして、後ずさろうとした時、視界の下端に、見慣れたローファー。小綺麗にされているからか、てらてらと、光沢を主張。

 狭い廊下の向こうには、閉じきった無地のカーテン。カーテンレールに引っかけられた、紺色のセーラーがこれ以上無いほどの物証となって、引き返そうとした足を掴む。

 紛れもない、私と同じ制服。生徒からの評判は悪く、大人達からのウケはいい。垢抜けず、オシャレとは言えない古くささが、真面目な校風に相応しいと先生達は本気で思っている。真面目であることを売りにするのは、他に取り柄が無いことを強調しているようで。やる気だけなら誰にも負けません、と言われた面接官の気持ちが少しだけ分かる。気がする。

 時代錯誤を思わせる学生服は遊びたい盛りの学生にとっては、身を縛る拘束具のようで、反発心を生む。常に偏った視線を集めるのと、真面目の象徴が、窮屈。

 同級生も先輩も、今風なブレザーが良いと嘆く。でも、私はそんなに嫌いじゃない。ブレザーにも憧れはあっても、絵に描いたような典型的なセーラー服は身が引き締まる。キッチリと幾重にも重ねられたプリーツが風に舞うのには少しだけ心が躍るし、まるで漫画のキャラクターになったかのようでちょっとした仮装気分。何より、真面目を織り込んだリボンタイは、背筋をシャンと伸ばしてくれる。優等生を維持するのには、これ以上ない理想の制服。

 それに、本当に綺麗な人が来たセーラー服の爆発力は本当に侮れない。

 深呼吸を一つ。粘膜を通り、喉を撫でて、肺を満たす、生活臭。例えば靴とか、服や布団。そこにシンクに僅かに残る食べ物の匂いなんかがシェイクされて生み出された、この家の匂い。少なくとも、玄関先に芳香剤は置かれていない。香水でもない。本当に、ただの生活臭なのに……ぼろアパートには不釣り合いなほどに、芳しくて、人工物の影がない良い匂い。

 何度か鼻を鳴らしてから、他所様の生活臭を、鑑定している気持ち悪い自分に気付く。これこそ、誰かに見られてしまったら、変なフェチシズムを持っていると勘違いされてしまう。早く目的を果たして帰ってしまおう、内心で一喝入れてから、一声。


「ふ、古宮さーん。いる?」


 狭い部屋。すぐに一番奥まで届いて、跳ね返ってくる。虚しいシャトルラン。


「プリント、ここ、置いておくねー」


 呟いて、玄関先に置いて帰ろうとして、動きが止まる。いいや、待て。このまま、帰ってしまうのはよくないのでは、と逡巡。勝手に入って、無言でプリントだけ置いて帰る……なんて、あまりにも無愛想な振る舞い。私が同じ立場だったら、家の中を物色されたのではないか、何かを盗られたのではないかと疑ってしまう。

 学校の誰とも繋がりの無い、古宮さん。学校という箱庭社会において、少数派。こういう機会だからこそ、きちんと好かれ、記憶に残るチャンス。生物、殊更、人間という生き物は滅ばないために多様性を取得する……なんて、大それた話に習って、私も色々なタイプの人間に好かれたい。何かが起こっても、一度に、全員から嫌われることがないように。


「ごめんくださーい」


 もう一度、放たれた言葉は安い砂壁に沈んでいって行方不明。声を掛けることは諦めて、扉をゆっくり閉めた。ドアノブに付けられた鍵を捻る。固かったけれど、ガチャン、と音を立てて閉まった。これで、鍵が壊れていただけという可能性は消えてしまった。

 ローファーを脱いで、玄関先に上がる。靴の中、温められた足先の熱が、ソックス越し、板張りのフローリングに吸収される。

 勝手に部屋の中に上がるのは、ほんの少し、罪悪感が脈打つ。私だったら嫌。けれど、事情が事情ならば、仕方ない。それに、鍵を閉めもしない、この部屋を放置して帰るのは良心が痛む。


「お邪魔します」


 こんな事なら、連絡先を聞いておけばよかった、と思ってみても後の祭り。年季の入った、室内をゆっくり進んでいく。失礼だとは分かっていながら、少し、家の中を観察してみたいという好奇心が勝った。引き出しや棚を好き勝手に探索するつもりなんてサラサラない。ただ、少し、帰ってくるまで時間をつぶさせて貰うだけ。勿論、手は触れず、眺めるだけに留める。言い訳を手元に準備完了。

 玄関を潜ると左手に、ミニキッチン。流し台と二口コンロ。流し台には、水切り用のザルが橋のようにかけられている。橋の上では、箸とお茶碗が一つずつ。それから、炊飯釜が置かれていて、乾いていた。私の背丈よりも小さいけれど、年季の入った白い冷蔵庫。ごうごう、と見た目にそぐわない、大きな寝息を立てている。ぺた、と磁石で固定された、何処かのスーパーのチラシが、唯一の衣服。

 ボロボロ、古い、狭い。勝手に家に上がっておきながら失礼千万。怒られたら正座して謝ろうと、頭の片隅にメモ。性懲りも無く、物が少ないなぁ、という印象が私の背中を押した。一人暮らし、なのだろうか。生活の痕跡はそこかしこにある。多少、雑然としていても、そこには一定のまとまりがあるというか、クセがみえた。


「だとしたら、尚更、不用心過ぎるでしょ」


 女子高生の一人暮らし。しかも、繁華街から外れた治安が良いとも悪いとも言えない寂れた住宅街。防犯能力が高いとは思えない年代物のアパートに鍵もかけないなんて、何が起こってもおかしくない。古宮さんは美人だから余計に、リスクは高いはずなのに。


「……なんかあったのかな」


 振り返ると、雁字搦めに封じられたドアポスト。薄らと、拒絶の二文字が浮かんでいる、気がした。短い廊下を進む。大股で進めば三歩で、奥のワンルームまで辿り着いてしまいそう。その途中、二つの扉。

「倒れているかもしれないよね……」

 古宮さんが休んだのは、体調が悪いから。仮に、一人暮らしだとしたら、倒れていても誰も見つけてはくれない。踏み込む理論武装を済ませ、一つ目の扉を開く、とそこには手狭なお手洗い。誰も、居ない事を確認して、もう片方の扉を開く。

 湿った空気が私の顔に纏わり付いた。湿度を孕み、濃度を増した生活臭。狭い洗面台と、小さな洗濯機。そこに、放り込まれている肌着や下着。濃密な匂いには視線の先にある、下着達の匂いも溶けこんでいる。ナマの生活空間に踏み込んだことが、足を縫い止めた。プールの授業なんかで見る下着とは、全く違う。一方的で、尚且つ誰かに見られることなんかこれっぽっちも考慮していないプライベート。洗濯機の中を覗き込んでいた視線を、慌てて逸らす。心臓が人生でも初めての気持ち悪く生々しい脈打ち方をしていた。

 視線を逸らした先には、まだ、使われて居ないバスタオルが、綺麗に折りたたまれて、待機していた。

 もう一枚、曇りガラス。外から分かるくらいに結露していて、これが、湿度の正体か、と納得すると同時に……もしかしたら、本当に、とただの言い訳だったものが輪郭を濃くしていく。


「ふ、古宮さん、居る? 同じクラスの、瀬戸、ですけどぉ……」


 物音はしない。返答もない。けれど、湿度と人の匂いが混じる脱衣洗面所が、つい先ほどまで誰かがここに居たことを、雄弁に語ってくれていた。返事がしないってことは、普通にお風呂に入っているとは考えにくい。


「あぁ、もうっ。悩んだって、結局行くんだからっ」


 このまま帰るなんて選択肢、結局選ばない。自覚しているのだから、後は早いか遅いかだけ。なら……。

 曇りガラスを開き、湿度の中心地に。足裏が、水気を吸った。


「へっ」


 喉が、引き攣った。

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