第29話 絶望と生への執着
「レティ」
ルークはそんな彼女を見て、声をかける。
ゆっくりとだが、着実にその真正面から。
狼になろうとしている彼女の視線を自分に向けさせて。
そうして辿り着いた彼は、ゆっくりと彼女を抱きしめようとする。
「やっ!」
指先がメイド服に触れようかどうかという時に、拒絶の声がかかる。
その口元が何かに押されたように恐怖でひきつっていた。
多分、ここから先が彼らの感知する領域。
人よりも感覚が鋭敏なのだ。肌より遠い場所に、肌があってもおかしくはない。それは見えないものだけれども。
「触るよ。痛くない、傷つけないから」
「うそっ、あのときも同じこと言った!」
「僕はなにも」
「あんたじゃない! あたしの華族を殺したあの男も‥‥‥あの騎士も、そう言った。なにもしないって。でも‥‥‥でもっ」
そこから先は言わなくてもわかる。
彼女は奴隷の烙印と呪いをかけられたのだ。
「だけど、僕には特別な力も、道具もない。ここで待とう。そう命じられたんなら。僕ら、もう揃って男爵家を裏切ってるじゃない」
「……あんただけよ。あたしは‥‥‥」
そう言い、しゅんっとなった彼女は抵抗しなかった。
耳を伏せ、尾は垂れ下がり、牙は姿を隠して、爪先は元通りになった。
「また、棄てられるわ。どこにも行けなくなる。その前に、死ぬかも」
「呪いを解けないかどうか、あのフロンに訪ねてみないと‥‥‥それよりも、静かになったね」
「うん」
二人がもめている間、二階のこの扉の向こうでも、激しく斬り結ぶ音がしていた。
誰かの苦悶の悲鳴がとどろき、絶命の叫びが立ちがった。
でもその中に、なぜか不思議と女性のものは聞こえなかった。
「い、行こうか‥‥‥」
「だめよ。待てって言われたんだから、待つべきだわ」
こういう時は男よりも女性の方が先に落ち着くものだ。
レティシアは首を振ると、それに、と付け加えた。
「もしかしたらだけど‥‥‥。、お嬢様の命令でこの部屋の中にいるから、ロイダース卿の呪いへの命令は‥‥‥届かないのかもしれない」
「あっ」
それは確信のある言葉ではなかった。
しかしどことなく奇妙な説得感がある。
ロイダース卿の管理下にあるとはいえ、男爵家の令嬢たるクロエの方が、命令の優先順位は高いはずだ。
それなら、なんとなく納得もいくというものだった。
「どっちにしても」
「誰かが迎えに来てくれないと‥‥‥ここから出ることができない」
「そうね」
そのとき。
カタンっと戸口の向こう側で音がした。
「――っ!」
思わずレティは先ほどと同じような戦闘態勢を取ってしまう。
ルークは二年前に王女たちを守ったときのように、レティシアをその背にして戦う気を見せていた。
今度は逃げたりしない。
死んだとしても‥‥‥。
固い決意が少年の背中から色を伴って湧き上がる。
それは後ろから見ていたレティシアにしか分からなかったが、明らかにルークが背中から立てているそれは、陽炎のように、向こう側を揺らいで見せた。
「ルーク? あなた、それ‥‥‥」
「え?」
誰何の声とともに、それはあっけなく霧散してしまう。
夢だったのかしらとレティが首を傾げたら、タイミングよく、扉が開いた。
「あーいたいた。無事だったようだね。良かったよ」
「フロンさん‥‥‥それに、お嬢様」
「あんた! さっきの客? お嬢様から離れなさい!」
それぞれの声が飛ぶ。
フロンのことをよく知らないレティがそう叫ぶと、彼の後ろに立ってたクロエが、「こらっ。お客様よ」とたしなめた。
しかられてレティは萎縮してしまう。
尻尾を膨らませたり縮めたりして忙しい奴だな。
思わずそう微笑むと、フロンがルークを見て言った。
「君‥‥‥なかなか面白い精霊の加護を持っているね?」
「はい? そんなもの、知らない」
「いやまあ、いいんだ。それよりここから出ようか。クロエ、彼女の呪いを解いてやってくれ」
「はい」
そのやり取りはまるで職場の上司と部下のようだった。
クロエはレキシアの首元にそっと触ると何かをつぶやき、その指先が鈍い銀色に光りを放ったら、「あうっ」とレティシアは悲鳴を上げて顔を歪めてしまった。
「あ、おい!」
その場に崩れ落ちた彼女をルークは慌てて抱き上げる。
「心配ないよ呪いの解けた後遺症だよ。しばらくしたら目が覚める」
「後遺症って彼女になるか残るんですか」
フロンとクロエは一緒になって首を横に振った。
大丈夫だということなのだろう。それから四人は館の中を探索する大勢の武装した冒険者たちの中を練り歩くようにして一回までたどり着き、一台の馬車に乗せられて古都の中心地にあるギルドのビルへと運ばれる。
ルークにとっては生涯で二度目の、死と直面する惨事に巻き込まれるとは、誰も予測しなかった。
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