第28話 レティのおねだり
クロエに対しては淡い想い。レティシアに対しては、もっと堅実なそれでいて揺らぐことのない、甘い思い。
母親にすら抱かない、また別の今自分が最も大事にしたい存在に、レティシアはなりつつあった。
とはいえ、彼女はこの屋敷の秘密を知りそれを隠している。
その事を共有できない限り僕たちはこれ以上深い仲にはなれないだろう、ルークはそう思ってもいた。
「あまり甘くし過ぎると、大事な紅茶の味も香りも分からなくなるよ」
「そうかしら?」
「僕はそう思う」
「分かるようだけど分からないかも? 元々、そんなに味に敏感じゃないし」
「え?」
驚きの一言だ。獣人とは五感が人間より敏感なのではないの?
「生まれつき鈍感なの。‥‥‥昔は分かった気もするけれど、家族全員が売られてからわからなくなった」
物憂げな難しい顔でレティは言った。
目の前にはルークが冷ました紅茶と、クッキーがそれぞれ四枚。それから‥‥‥。
「なに? 近いんだけど」
「黙って」
いきなりレティシアは静かに席を立つと廊下の方に両方の耳を向けた。
見ると長くて黒い尾は膨れ上がっいて、何かに警戒していることを表している。
「どうした?」
「何か変。下の音がしなくなった」
「……」
息抜きの憩いのひとときは、緊迫した状況へと変化した。
「なんだろう。剣と剣で戦っている音がする。あ、消えた‥‥‥」
「こっちにも何人かいる!」
反対側の窓に掛けよって外を見た。
その向こうには武装した男たち。あのフランと同じ格好をして、ワッペンの位置だけ違う連中が、そこから見えるだけでも十数人。
実際に外に出てみたら、それ以上の人数はいるのだろう。
屋敷の中にいるのは、ルークたちを含めて十人もいない。
裏口の当番表に、ロイダース卿とその部下、あと二名の侍女たち。
そのうちにはレティシアも含まれる。
彼らだけが夕方までは勤務となっていた。
「やられた。手薄な時間を突いてくるなんて」
呻くようにレティが言う。
それから、ルークの手を取ると、それを握りしめた。
「なんだよ?」
「あなたはここから動いちゃだめ。もしあいつらが‥‥‥冒険者たちが踏み込んできて、剣を振り上げても、抵抗したらだめ。殺されてしまう」
「なら、君もいればいいじゃないか!」
「……あたしは、無理だよ」
レティの顔から、一筋の涙が流れた。
自分の首元を指さして、彼女は言う。
「奴隷だもん。この契約に縛られているもの。逆らえば、死ぬしかない。呪いが、あたしの首を絞め落すわ」
「……そんな」
「だからあたしは行かなきゃだめなの。ロイダース卿の命令を訊かないと‥‥‥」
ごめんなさい。
小さく謝罪する。一度瞳を閉じた。
彼女の顔が、こちらに向かってくる。
柔らかいものが、唇に触れ、そして離れた。
「あなたのことをもっと知りたかった。さようなら」
レティがそう告げる頃、下から大勢の男たちが屋敷内になだれ込んできた声がした。
玄関が破られ、窓という窓が割れれて、彼らの侵入を許したのだろう。
裏口にいたあのカード仲間たちもまた、餌食になったに違いない。
「行かなきゃ」
くるりと踵を返す。
その尾はだらんと垂れ下がっていて、でもこれから起こるなにかを予感して、小刻みに動いていた。
戦うつもりだ。
負けると分かっていて、それでもなお、彼女は呪いとは別に。
仲間となった者たちとの絆を大事にしようとしている。
一度でもかかわった者たちとの、信頼を、一番にしようとしている。
それはルークが一番最初に持っていて一番最初に失ったもの。
もしくは、心のどこかで眠らせたまま、その存在に目を伏せて、見ないようにしていたもの。
彼女に行かせてはならない。
心のどこかで小さな騎士がそう叫んだ。
「レティっ!」
「きゃっ、ちょっと?」
叫ぶと、ルークは狼少女を後ろから抱きとめた。
この後を見下ろしてはならない。
あの時のように、ごめんなさいと、また言わせてはならない。
たとえ自分が弱くても、その力が尽き果てない限り、彼女を守ることができる。
「行かないで! 行ったらだめだ‥‥‥お嬢様のところにも冒険者がいる‥‥‥」
「なんでそんなこと?」
ルークの発言にレティは抱きかかえられたまま、いぶかしげな顔をして抵抗をやめた。
何か怪しむように肩越しに振り返る。
「それは」
「まさか、あんた。裏切ったの?」
思いもよらぬ力で少女はルークの腕を解くと、その場から飛びのいた。
牙が生え、爪がナイフのように鋭く伸びたかと思うと、垂れ目は切れ長の瞳へと怒りを宿し、目のまえにいる獲物を全力で狩ることを決意したかのように、彼女の背筋は警戒感を強めて低くなっていく。
「裏切り? 僕が?」
「ええ、だってそうじゃない。そういう風にしか見えない。なにをしたの? どうして冒険者なんかをお嬢様のところへ通したの‥‥‥」
「それは」
頼まれたから、とは言えなかった。
あの提案は交渉だったからだ。
見返りのあるお願いを、自分が請けただけ、とは言えない。
「僕は冒険者になりたい」
「なんですって!」
レティが吠える。
そこには凄まじい怒りが含まれていた。
「冒険者になれるって言われたんだ。僕は冒険者となって父親の仇を討ちたい」
「お父様、の‥‥‥?」
初めて知るルークの意外な過去に、レティは驚いたようだった。
彼にも自分と同じように誰かに言えない灰色の過去があるのかと、奇妙な共感を感じた。
「扉の鍵を開けるだけでいいとそう言われた。正しいこととも思ってない、でも僕は‥‥‥母上をいつまでもあんな悲しませるような、そんな毎日を送らせたくはない」
「それはあなたが!」
レティは怒りを半分ほど鎮めていた。
「あなたが‥‥‥やりたい事であって、お母様を持ち出すものじゃないわ‥‥‥卑怯よ」
「ごめん‥‥‥」
「鍵を開けるだけでいいって言うけど。その鍵はどこから?」
まだ警戒しながら、レティはそう問うてきた。
「お嬢様がくれたよ」
「……は?」
意外な返事だった。
間の抜けた声が戻ってきた。
「嘘。あたしも、あなたとこの部屋にいなさいって」
「はあ?」
今度はルークが驚く番だった。
二人ともあらかじめクロエが用意した段取りに従っていただけだと、そう気づく。
「あたしのこの首の呪いは屋敷の中でしか通用しないからって。外に出れば解放されるから、それを待ちなさい。ルークが導いてくれるわって」
「……」
話は一気に逆転する。
今度はレティが自分の独白をする番だった。
「ロイダース卿が望んだら、あたしは彼の命令に従わないといけない。だから、行こうと思ったの」
「でも、ここにいろって」
「だって!」
切り裂くような悲鳴がレティの口から漏れる。
「安全だなんて、思ってない! 首を縄で絞め殺すようにされるのは、あんたじゃないのよ?」
切実な、魂の叫びだった。
悲痛な生への願望だった。
絶望にうちひしがれるその目は、なにかを捉えるわけでもなく、怯え見えない恐怖を見つけようと虚ろに彷徨っていた。
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