第三章

第27話 紅茶と黒狼の少女

 クロエに先導され、その後に続いてフランが室内に姿を消した。

 いまは彼を案内してきた者もおらず、廊下にもあたりに気配はない。

 鍵を開けるなら、いましかない。


「くっ――」


 半ばヤケクソ気味になりながら、ルークは手に持った鈍い胴の色を放つそれを、扉の鍵口に入れた。

 左に回せば解錠。

 右に回せば施錠となる。

 もし左に回せなければ、最初からの行為も無になる。


 そうなったらどうしよう。

 フランとの契約は崩れ、クロエは音に気付くだろう。

 そして二人からの信用‥‥‥一人はあるかどうか薄いものだったが‥‥‥を失うことになる。

 驚きだったのは、てっきり、自分で絵画の裏から予備の鍵を取り出して、それを使うと思ってどきどきとしていたのに。


 クロエが彼女自身が自ら、ルークの掌にそれを握らせたことだ。

 それはまるで私の秘密を共有して頂戴、あなたに上げるわ。この自由を。

 などと倒錯的めいた予感まで連想させてしまい、まだ少年になり切れていない子供を、ひどく焦らせる。


「大丈夫だ‥‥‥落ちつけ」


 自分に言い聞かせる。

 いまは誰も見ていない。

 やるなら今しかない。

 鍵をそこに差し込み、左に回すと、小さくカチャリと音がした。


「はあ……」


 と、鍵を引き抜き、慌ててポケットにしまい込む。

 誰も見ていない。

 誰も聞かれて‥‥‥? ほぼ同年齢の獣人の少女のことが、不意に思い返された。

 彼女は耳がいい。鼻もいいが、つい先日もこう言っていた。


「わたし、屋敷内の多くのことが聞こえるの。でも内緒ね‥‥‥」

「う、うん。それって」

 お嬢様の痴態も聞いているの、趣味悪くない? そう訊ねようとしたら先手を打たれた。

「でも、お嬢様のお部屋の鍵がかかっている間は、特別な魔法でもかかっているのかしら。まったく物音がしないのよ。不思議ね」

「へ、へえっ‥‥‥」


 自分の思考を先取りされたように言われループは思わず焦ってしまった。

 あの美しい鈴の音のような声をしたクロエのそんな声を想像するだけで、背筋がえも言われえぬ感覚に震えてやまない。

 それは多分、彼女の魅力を知る男なら、誰でもそう思うに違いない。

 ルークはそう思っていた。


 いつしか少年は自分と倍ほども年の違う少女に、密やかな淡い恋心を抱いていたのだ。

 その思いは、今すぐにでもガラスが割れるようにあえなく脆く崩れ去ってしまかもしれないのに。

 こんな役割を引き受けた僕は馬鹿だ。

 普段とさして違わないように振る舞いながら扉の前にきちんと立ち、居住まいを正した。


 お嬢様の心はあのフランと共にある。

 頭のどこかでそんな考えが浮かんできて、どう振り払おうとしても消えていこうとしない。

 悔しいけれど彼らは美男美女のお似合いのカップルだ。

 今の自分では太刀打ちできない。

 もし冒険者になることができたなら、亡夫のように、王国でも随一、二を争う精霊騎士としてその強さを誇ることがいまできるなら。


 ‥‥‥女屋敷の薄ら暗い秘密なんて、さっさと暴いてやるのに。

 鍵を開けたことによってルークの心はほんの少しだけ裏の世界の世間に引け目を感じる場所の住人から、表の世界の正義を愛する正しい人間へと、変化しつつあった。


「あっ、いた。ルーク!」

「ひえっ」


 聞き覚えのある舌っ足らずな声が彼の耳を打つ。

 レティシアだ。

 彼女は自分の休憩にルークを付き合わせようと、時折見計らったかのようにやってくる。

 今がまさにそうだ。


 その手にはお菓子の入った一枚の皿とその上にかけられたナプキン、そしてもう片方の手には、お湯の入ったポットと二脚のティーカップのセット。

 多分、そのポットの中には、すでに茶葉が葉を開いているに違いない。

 離れた場所からでも、レティシアの大好きな、蜂蜜を垂らした紅茶のいい香りがしていた。

 あいにくとその茶葉の名前までは知らない。


「こっち」

「え? あー……うん」


 両手がふさがった彼女は首で合図する。

 そこは、この廊下の途中辺りにある、侍女たちの休憩用に使われる、小ぶりな部屋だった。

 ルークはいまここを離れていいのか少し悩み、お菓子の誘惑に負けた。

 その部屋の中には四人がけの小さなテーブルと四脚の椅子が用意されておりそれ以外にも湯を沸かしたり、簡単な調理ができるように暖炉が取り付けられていた。


 壁には食器棚があり、奥にはカーテンで間仕切りされた、簡易ベッドが置かれている。

 夜間はそこで仮眠を取るのだった。

 それ以外にも、侍女たちの制服や衣類をしまい込むロッカー代わりの縦長い洋服箪笥が二つある。

 いつ呼び出しのベルが鳴っても、戻れるように入り口近くの席を陣取った。


「美味しい紅茶をいれる方法があるんだって」


 カチャカチャ小さく音を鳴らしカップをソーサーに置いてから、その隣にティースプーンを二つ並べる。

 ミルクと砂糖は食器棚に常備されていた。それらを用意してから、レティはそう言った。


「あらかじめ温めたポットにきちんと測った量のお湯、熱し過ぎても、冷やし過ぎてもだめなんだって」

「僕にはよく分からない世界だね」

「冷たくそっけなくした方があなたの場合、逆に温まるのかしら?」

「どういう意味?」


 不満そうに言うレティはどこか不機嫌だ。

 でもこれはお嬢様の付き人になって知り合ってから、ほとんど同じような感じだから、特段、気にすることもなかった。

 しかし改めてそう言われてみれば、彼女が自分に何か特別な思いでも開いているのかと邪推してしまう。


「本当は大きくて丸い空に浮かぶ太陽のようだ熱さを帯びているのに、今は何もかも忘れてしまって冷え切った真っ白い氷の塊みたい」

「……君が帯びている、なんて難しい言葉を使うのが驚きだよ」

「んもうっ!」


 甘党の彼女は、砂糖を遠慮なくどんどん、何杯もカップの中に入れた。

 そんなに甘くしたら紅茶の香りも味もわからなくなるんじゃないだろうか。

 顔に一筋の汗を垂らし、ルークは自分のカップには一杯の砂糖を入れる。

 それは白いが、所々に黒い斑点がよく混じる、粗悪な品物だ。


 王宮でアミアたちが飲んでいたあの御茶会で使われていた、真っ白な白砂糖に比べれば、品質が劣るのは明らかだった。

 この家では、客人に対しても同じものを提供する。

 外観だけは男爵家なんて大仰な威光を見せているが、その実、中身はちょっとした裕福な商人と何も変わりはない。


 外見だけ気にして中身は三流以下。

 そんなところに務めている自分もまた、三流以下だ。

 なんとなくそんなことを考えてしまって難しい顔になる。レティは猫舌なのか、熱いっと悲鳴をさげてそれを覚まそうとしていた。


「もう‥‥‥レティは仕方ないなあ」

「ごめん」


 普段はお姉さんぶっている同年代の仕事仲間は、頭の上の獣耳を伏せて、お願い、とルークにそれを渡してきた

「ふーふーして」

「それくらい自分でやってもいいんだよ?」

「……いつもはお母さんがしてくれたから」

「そうだったね」


 ごめんね、と一声かける。

 ティースプーンでかき混ぜながら、息を何度も吹いた。

 そんなことで早く覚めることもないだろうにと思ったけれど。

 黒髪の黒狼の獣人の少女が満足してくれるなら、お安いものだ。


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