第21話 クロエの秘密
「向こうから呼ぶのが面倒くさいから、玄関を入ってきた時になるのと同じようなベルを用意することにする。呼び鈴でもいいし」
「はい、お嬢様。それで僕はどうすればいいですか」
「多くの片付けは侍女達がやってくれるから。あなたはこの応接室を綺麗にしてくれればそれでいい。あと、見張りね。誰がきても、一度この部屋の扉がしまったら何があっても私が呼ぶまで絶対に開けないようにして」
鉛のような秘密を抱えた気分だった。
ここは普通の貴族の館ではなく、多分。
たぶん、そう。
ルークだって、八歳にもなれば、世間のことに詳しくなる。
この古都にきて、二年の間に、平民の友達だって何人もできた。
ここから先はいっちゃダメだ。いかがわしい場所だから、子供が入っちゃダメだ。
そんなことを、友人達の父親は教えてくれた。
彼らの母親も、そこから先の場所で働く人々に対して、冷たい白々しい視線を向けることを忘れなかった。
男と女が、密やかに交わる場所。
秘密の関係をお金を持って成立させる場所。
これまで読んだ本の中にも、そんな場所の事はいくどとなく描写があった。
つまりそう。
オルケス男爵令嬢クロエは、貴族令嬢なのに。
やんごとなき身分の男性たちを、秘密を持って迎え、秘密を置いて帰らせる。
高級娼婦のような役割をここで話していたのだ。
「話は分かったの?」
「はい。お嬢様」
顔が硬直し、棒読みのセリフしか口をついて出ない。
とんでもない場所で働く事になってしまった。
だけど、ルールさえ守れば、母親が悲しむこともなくお金が手に入る。
ここでの生活を我慢しさえすれば、あと四年で独り立ちすることも可能となる。
我慢しよう。
心に固く決意して、改めて、新しい主人を上から下までしっかりと目に焼き付けた。
クロエは、薄い唇の横に小さなホクロがある。
意味深げな雰囲気をまとっていて軽く引き締められた口元はとても魅力的に見えた。
上等な白のワンピースに身を包み、レースの手袋で両手を包んでいる。
これからどこかに出かけるか、出かけてきたかの後のような装いだった。
苔桃色のピンク色の髪を腰辺りまで伸ばし、緑の瞳は意思の強さと慈悲深さを思わせる。
そんな髪は黒いリボンで後ろにまとめられていた。
「お嬢様にご満足いただけるよう、しっかりと勤しんで参ります」
その言葉は嘘じゃなかった。
彼女が誰であれ、どんな仕事をする存在であれ、自分は彼女の使用人なのだ。
秘密を守りルールを守り信頼を得て将来につなげよう。
ルークの決意は固かった。
「ありがとう。私を落胆させないようにしてほしいと思うの。あなたに望むのはそれだけよ」
今日はもう帰っていいと言われ、そそくさと部屋を追い出された。
あの温かい太ももと頬を撫でてくれた優しさは一体どこに消えたのか。
邪魔者扱いでもされたような気がして、ルークはちょっと面白くない。
扉の前では、やっぱりレティシアが待っていて、裏口までの道順を教えてくれた。
太陽はまだ高く上っていたけれど、明かりを少し薄暗い。
裏口にたどり着くと、そこにはロイダース卿よりももっと野蛮な雰囲気のいかつい男たちが数人、たむろしていた。
「そいつか」
低い声でそのうちの一人がレティシアに問いかける。
「そうよ。今日から入ったの。ルークって言うらしいわ」
「ふうん」
値踏みするように彼はルークの事を上から下までじろじろと眺めた。
続けて他の男達も、それまで興じていたカードゲームの手を止めて、ルークを見た。
「お嬢様は何だって?」
「あ、えと‥‥‥」
「お前に聞いてねえよ」
低く恐ろしい声で一括される。
レティシアが答えた。
「明日からも来るようにって言ってたわ」
「ほう‥‥‥。ルーク、か。ま、頑張るんだな」
そう言って彼は、裏口を開けた。
ついでに紙包みが手渡される。
何? と訊ねると「夕食だ」と言われた。
戻る時間が早いから、ここで食卓につけないルークのために、持ち帰り用の弁当にしてくれたらしい。
感謝を述べてそれを受け取る。
ルークがそこをくぐると、後ろから「まあもっとせいぜい一週間だろ」とか「また新しい候補をみつけなきゃいけないな」なんて、侮蔑を含んだ声が聞こえてくる。
「気にしないで。また明日ね」
「うん。ありがとう」
レティシアは笑いながら背中を押した。
「こんな時はお疲れ様でしたって言うのよ」
「ごめん。お疲れ様でした」
「できるじゃない」
ルークが表の門を目指そうとすると、そっちじゃない。と、レティシアは屋敷の後ろを指差した。
そこには、大人一人がくぐるのがやっとのような、小さな戸口があった。
「鍵は開いているから、明日からは、その戸口を利用して入ってきてね」
「ありがとう」
今度こそ、帰ろうとする。そうしたら、「待ってるから」とレティシアは小さく言って裏口の扉を閉めた。
中からは男達のカードゲームに興じる声が外まで響いてきた。
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