第20話 男爵令嬢クロエ

「アミア」


 少し前にふと脳裏を横切ったその姿を思い出した。

 何気なしに、彼女の名前を口にしていたら、上から返事が降ってきた。


「なあに? 私はその子じゃないのよ」

「……っ!」


 聞き覚えのないしっとりとした女性の声が、耳の奥深くへと侵入する。

 それはあっという間にルークをまどろみの淵から現実へと引き戻した。


 はっ、となり両目を見開く。

 すると、背中に暖かいものがあり、枕よりも弾力のある優しい何かに、頭を支えられていることルークは知る。

 自分は確か長椅子に腰掛けて、それから‥‥‥その後の記憶がない。


 左には椅子の背もたれがあるはずで、右には床が待ち受けているはず。

 それなのに、背もたれと自分の顔の間には何か別のものが挟まっている。


「起きた? あなたは誰かしら」


 再び声が降りてきた。

 今度は少しだけ、強めの口調で声かけられる。

 自分がとんでもない失態をやらかしたと理解して、少年は視線を上の方にあげた。


 大人の女性の顔が、そこにはある。

 いや、化粧の濃い大人の女性を意識した、少女の顔。

 遠目から見ればそれはどちらか分からないだろうと思えた。


 美しい。

 母親のターニャも美しい女性だった。

 母親以上に美しい女性を見たことはこれまで一度しかない。


 さっき呟いたあの名前の女性が、ルークの中で最高に美しく気高い存在。

 しかし今目の前にいる彼女は、そんな気高さはなくどこか憂いを含んだ色気に包まれている。


「あなたは‥‥‥」

「私が誰か分からない? この姿を見ても?」


 彼女は。いや、その正体はすぐに理解できた。


「クロエお嬢様」

「そうね、正解よ。あなたは誰かしら」


 慌てて飛び起き落とした。

 が、彼女の豊かな胸がその邪魔をする。

 あははっと楽しげな声とともに、見た目以上に強い力で、太ももの上に押し返された。


「新しい従僕の子、だったかしら。こんなところで何をしているの。誰も迎えに来ないと思ったら、寂しくなっちゃった」

「……申し訳、ございません。お嬢様」

「いいのよ。いいの‥‥‥」


 何がいいのだろう。どこか不機嫌な感じの彼女は、それでもルークを見て期限を少し良くしたようだった。


「こんな格好、申し訳ございません」


 それ以外に謝罪の言葉が思いつかない。


「気持ちいい? そこで寝ていると安心する?」


 は? それはどうでも意味だ?

 その質問は、なんだか弄ばれているような感じで、良い気がしない。

 ルークは赤面しながら、こくこく、と顔を上下に振る。

 左にやったら彼女の腹部があり、右にやれば、豪華な生地が自分を待っている。

 どちらに動くこともできず、ルークは盛大に戸惑った。


「正直な子はいいわね。そうね、勤務初日にここで寝たことは黙っておいてあげる」

「ありがとうございます‥‥‥感謝いたします、お嬢様」

「その代わり」


 と、クロエはルークの頭から手を離し、彼を立たせると隣の部屋に続くドアを開けるように言った。


「え、でも」

「大丈夫よ、今は誰もいないから。食べていいわ」


 主人の命令だ。

 ルークは見てはいけないものがあるはずのそこを見れるやましい思いを隠しながら、静かにドアを開いた。


 向こうには入ってすぐに机があり、それは応接室のそれよりも一回り大きい。

 上には数多くの書類が乗っていて、何が何だかルークには分からない。

 右手は壁になっていて、古都やその周辺の詳細な地図が何枚もそこに貼られていた。

 正面奥は、テラスに続く開閉式の窓になっている。

 左手側を見たら、そこには天蓋付きの豪奢なベッドが一つ鎮座していた。


 その奥には壁を隔てて、浴室があるようだ。

 それは、開け放たれた扉の奥に見え隠れしていた。


 入り口のすぐ左手側。

 そこには、やはり立派な暖炉が設置されている。

 隣にはクロエの衣装室があるのだろう。

 もうひとつの扉があった。


 しかし、どこか異質なものをルークは感じる。

 そこにあるものは何もかもが豪勢で、精緻なつくりの家具ばかりなのに。

 床に敷かれた絨毯すらも、応接室とは全く違う足触りだ。

 王侯貴族の寝泊まりする寝室を模したもの。

 そうとしか思えなかった。

 少なくとも、ルークはその本物を知っていたから‥‥‥ここにある偽物の持つおかしな雰囲気に、頭をひねってしまう。


「気に入った?」

「あ、はい。とても立派なお部屋だと思います」

「そう。お客様向けの部屋だから」


 お客様向け?

 クロエの私室なのに?

 そこから先は訊かないでね、とクロエはレティシアと同じような、何か他人に言えない秘密を抱えたような顔をした。


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