3 七生八重子さん

「よろしいか?」


 これはまずい。

 綱木くんさえそんな顔をしたのです。

 しかし、あたくしはこうお返事するよりありません。


「どうぞ。おはいんなさい」


 このプレハブ長屋にやって来たのは、どなたでしょう。


 扉が開いたとたん、光がさして、何か花の香りがした錯覚が起こります。


「ごきげんよう」


 声の主があらわれ、あたくしたちに緊張が走りました。


 あたくしたちの誰よりも背の高い八頭身。

 きめ細やかな白い肌が輝いております。

 そこに人形のように整った目鼻立ちと、艶やかな長い黒髪が流れるのでございます。

 学年一、いや、学区一の美少女、七生八重子ななお やえことはこの人です。昭和の御代であれば、道を歩けば芸能事務所やらモデル事務所やらのスカウトの名刺でババ抜きができたことでしょう。


「よう。ションベンたれ」


 ブチャ公だけが、あたくしに抱き上げられたまま、そんな呼び方をいたします。

 確かに八重子さんは我が家で粗相をしたことがありますが、二歳の時のことです。いまだに言うのはあんまりです。

 はい。彼女はお隣に住む幼なじみでございます。

 いつもならここで、


『やあねえ、ブチャ公ったら。あたしもう高二だよ?』


 と、和やかに返ってきたものなのですが、こないだから事情が変わったんでございまして。


「下がりゃ、獣よ」


『下がりゃ』ときたもんですよ。

 どこの御殿からお下がりになられましたものか。


「時に八重子さん、ご用向きはなんざんしょう」


 あたくしが暴れるブチャ公を抑えながらたずねました。


「火急じゃ」

「おや」

「そなたら、わしに手を貸せ」


 なんですか、藪から棒に。


「時が来た」


 なんですか、そんなラノベみたいな。


「わしが七度の転生を経てここへ戻ったのは、このためじゃ。

 わしらが今動かねば、この世界は闇へ堕ちるぞよ」


〈七度の転生〉とか〈この世界は闇へ堕ちる〉とかいう、専門用語みたいなものが飛び出しましたが、なんですかねこの八重子さん、残念な美少女なのねと思われた方はまあそれが普通の人情なのですからお気になさらずに。


「時が……来たんですか……」


 なんでまた綱木くんは逃げ腰でとぼけたことをおっしゃるんですか。


「で、私どもは、何をすればよろしいんでしょうね?」


 あたくしの顔を見られても困りますよ。


「おうッ?」


 そこでブチャ公です。


「ションベンたれが、この世界はア、なんて、いつからそんな口を叩くようになったんでえ?」

「下がりゃ、獣よ」

「なんだとお?」


 穏やかに頼みますよ、ブチャ公さん。


「屋上。屋上へ参るのじゃ」


 八重子さんは、ブチャ公を無視することにしたみたいですね。


   ◆


 ところで、ご愛読のみなさま、八重子さんから飛び出した、〈七度の転生〉とか〈この世界は闇へ堕ちる〉とかですが、綱木くんとブチャ公のせいで説明をしそびれました。

 屋上へ階段で上っていくには少しいとまがありますから、その間にあたくしが次回、手短にお話しいたしましょう。

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