九之四 荒天噂
見込み通り進み、日向の
船に残るのは津見彦とアサルと俺だ。あともうひとり、替わり番で船人を置いておく。つまり夜毎三人ずつ。写楽も病は治ったようだ。安い女は買うなと、くどいくらいに釘を差して、陸に上げてやった。
俺は陸には上がらなかった。別に入り用を感じなかったから。それに木花を守護する神と通じているのは俺だ。万一賊など押し入ってきても、船頭の間に入り仙術で封じれば、金銀や銭を持ち出すことはできない。降りる代わりに鮪漁師の棟梁を船に呼び、詳しく話を訊いた。
俺が陸に上がらないので、アサルは喜んでいるようだ。どうもまだ女を疑っているらしい。皆が陸で女を買うので夜伽番がなくなったのをいい事に、目立たぬように船頭の間に入り浸っては俺を求める。その折、毎度寝床の匂いを猫のように嗅いでいるので呆れる。あまり図に乗るようであれば説教せねばならんが、船人にもきちんと対しており、害はない。
長い航海では女を支える事が
いきさつに薄々感づきながらも、大綿は特になにも言ってこない。俺がどの航海でも女に気を配るのを知っているのと、この程度の扱いであれば害はないと思っているのだろう。俺と違う目と心で断じる大綿がそう考えているなら、俺としても遠慮なく癒される事ができる。地獄に潜る身としては助かる。
アサルを夜伽から解いて他の女を入れるべきか。これを随分考えたが、このままで行く決まりにした。
この小娘は、船人に不思議な食い込み方をしている。狭い船では、いくら気を遣っても、どうしても互いに不満が溜まる。務めも飽きるし不平も出る。それを癒すのは船の女の大事な役目だ。アサルには、その力が存分にある。
夜伽の狙いは、煩悩の解き放ちだ。そも煩悩の解き放ち自体、なぜ入り用かとさらに考えを回せば、それは同じく不満を和らげるためだ。つまりこの手のしこりさえほぐせるなら、夜伽などいらんと考えてもいい。現にアサルは玉門を与えないまま男を満たし、ひいては船人の気のすさびを解いている。そこにもうひとり別の夜伽を加えるまでもないだろう。むしろ
幾日かで集めた話で、ここのところの琉球が、おおむねわかってきた。
琉球は表向きは幕府とは別の王が統べているが、その実、薩摩の支配を受け、厳しく苛烈な
ただそこに到る波路では、陸を見ながらの地乗りができない。まわり全てが青い海である沖乗りを、いよいよこなさなくてはならない。今の船人にとって、初めての大きな試しとなるのも確かだ。
●
「気になる噂を聞いた」
昼餉の折に、夜儀が口を開いた。
「ここ何年か南の
「それは読めるのか」
源内が尋ねる。
「前もって読めはするらしい。ただ空も風も一刻ですぐ変わるので、沖乗りの間に逃げるのが難しいとか」
「渡りのさなかで兆しに気づいたときは、もう遅いのですね」
「油津の漁師は、どう取り計らっているのでしょうか」
「ぎりぎりまで沖乗りせずに近づき、沖乗りをとにかく短くするしかないと……」
「では、まず薩摩の佐多岬まで地乗りで進むしかない。遠回りにはなるが……」
大綿は渋い顔だ。
「佐多から一番近いは竹島だ。そこから硫黄島、口永良部、屋久と繋げばいい」
「そう。ただし屋久の後に壁がある」
源内が唸る。ついでにアサルに抱かれた猫の毛を引っ張りながら。長い毛が気になるらしい。猫は嫌そうな、からかってもらって嬉しそうな、いわく言い難い顔で噛みついている。
「屋久からは小島を辿る長い旅になり、間に何度も沖乗りが欠かせない。……まず口之島まで沖乗り。中之島やあれこれを辿り諏訪之瀬までは、短い。困りはすまい。そこから奄美までが、また遠い」
琉球への波路をよく知る三人の船人は皆、考え込んでいる。
「途上、悪石や小宝といった島はあるが、離れていてそこまで沖乗りするしかない。おまけにこれら小島は断崖が多く、近づける碌な港もないから船積みができないだろう」
「そう。せいぜい島陰で風を避けられれば見つけものだ。そしてその先は、もう蒼い潮の海しかない。次に寄れるのは奄美だ。奄美は大きいから、そこまで辿り着けばひと休みできる。ただし、トカラから二十五里もある。風がいいとしても、夜通し船を操って、まる一日より掛かる」
「奄美の先も楽ではない。大きな島を伝えるので、風下の島陰を地乗りで進めば、多少はましだ。ただし島々の間が、やはり十三里は離れている。危ない」
「大綿よ、この度の気の張った遅い進み方で、琉球の都、那覇まで進むのに、どのくらい掛かる」
大綿は、天を仰いで算盤勘定した。
「途上、気を付け風を待ち休みながら進むとして……、油津から那覇まで、ひと月掛からぬくらいだろう」
「となると、那覇に着くは
俺は、夏の琉球を思い浮かべた。何度も寄ったので、その頃合いはよく知っている。暑く、疲れで体を壊す船人が出る危うさがある。それに、その先、台湾に遠く沖乗り渡るのが、嵐の時節となってしまう。それも恐ろしい。
「安芸竹原を出てからふた月ほどか。たしかに亀の如き歩みで進んできたとはいうものの、扶桑というのも、思ったより大きな国じゃのう」
アサルが呑気に呟いている。病でないとわかった猫を優しく撫でながら。
「まずは佐多まで急いで進み、時を稼ごう。そこでまた手掛かりを探り深く考え、それを生かして屋久まで進む。屋久では特に心細かく聞き込みをする。頃合いを図り船出を決めたら、あとは神に托むしかない。皆で心をひとつに合わせ、奄美まで辿るのだ。その先は、また奄美で考える」
俺の決議に、皆、力強く頷いた。そう、もう進むしかない。遥か波斯まで続く波路を思えば、これはまだ序の口に過ぎないのだ。
■注
油津 現在の宮崎県日南市の港
地乗り 陸地が見える航路で、陸地を目印とする航海手法
沖乗り 陸地が全く見えない沖合を、風と潮、太陽や星を頼りに進む航海手法。当然だが航路を見失う可能性がより高い。ちなみに大陸間を横断するような長期の沖乗りを「沖渡り」と呼ぶが、極めて危険だ
二十五里 約100キロメートル。一里=約4km
文月 旧暦7月。現在の新暦では8月相当
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます