九之四 荒天噂

 見込み通り進み、日向の油津あぶらつに寄った。ここは、琉球に渡る前にある、最後の大きな港だ。ここからは小さな港を繋いで進み、その後で琉球を目指す事となる。油津はまぐろ漁師が多く、遠出するので琉球の噂に詳しい。ここに五日ほど留まり、顔役や漁師に話を聞く手はずにした。船人を代わり番で多く港に放ち、遊びも兼ね泊まらせ、あちこちで聞き込みをさせる。知らせを得る相手には金を掴ませ、共に遊ぶように申し付けた。


 船に残るのは津見彦とアサルと俺だ。あともうひとり、替わり番で船人を置いておく。つまり夜毎三人ずつ。写楽も病は治ったようだ。安い女は買うなと、くどいくらいに釘を差して、陸に上げてやった。


 俺は陸には上がらなかった。別に入り用を感じなかったから。それに木花を守護する神と通じているのは俺だ。万一賊など押し入ってきても、船頭の間に入り仙術で封じれば、金銀や銭を持ち出すことはできない。降りる代わりに鮪漁師の棟梁を船に呼び、詳しく話を訊いた。


 俺が陸に上がらないので、アサルは喜んでいるようだ。どうもまだ女を疑っているらしい。皆が陸で女を買うので夜伽番がなくなったのをいい事に、目立たぬように船頭の間に入り浸っては俺を求める。その折、毎度寝床の匂いを猫のように嗅いでいるので呆れる。あまり図に乗るようであれば説教せねばならんが、船人にもきちんと対しており、害はない。


 長い航海では女を支える事が船長ふなおさの大きな務めと心得ているので、望みにはなるだけ応えてやる。それに無邪気なアサルと夜を過ごすのは楽しい。宵闇の地獄から目醒めた時、女が総身で護るように抱いていてくれ、柔らかな胸に俺が流した血涙の跡が残っていると、共に艱難辛苦を乗り越えてくれたようで、わずかながら心安らぐ。


 いきさつに薄々感づきながらも、大綿は特になにも言ってこない。俺がどの航海でも女に気を配るのを知っているのと、この程度の扱いであれば害はないと思っているのだろう。俺と違う目と心で断じる大綿がそう考えているなら、俺としても遠慮なく癒される事ができる。地獄に潜る身としては助かる。


 アサルを夜伽から解いて他の女を入れるべきか。これを随分考えたが、このままで行く決まりにした。


 この小娘は、船人に不思議な食い込み方をしている。狭い船では、いくら気を遣っても、どうしても互いに不満が溜まる。務めも飽きるし不平も出る。それを癒すのは船の女の大事な役目だ。アサルには、その力が存分にある。


 夜伽の狙いは、煩悩の解き放ちだ。そも煩悩の解き放ち自体、なぜ入り用かとさらに考えを回せば、それは同じく不満を和らげるためだ。つまりこの手のしこりさえほぐせるなら、夜伽などいらんと考えてもいい。現にアサルは玉門を与えないまま男を満たし、ひいては船人の気のすさびを解いている。そこにもうひとり別の夜伽を加えるまでもないだろう。むしろいさかいの元となるやも知れん。油津でそうしているように、たまに港で女を買いに行かせれば済む。


 幾日かで集めた話で、ここのところの琉球が、おおむねわかってきた。


 琉球は表向きは幕府とは別の王が統べているが、その実、薩摩の支配を受け、厳しく苛烈なまつりごとで、理不尽な扱いを受けている。哀れなくらいだ。それだけに心で薩摩を嫌っているのは明らか。しかしそこは海と貿易の民であるので、出入りする船に対しては、たとえ扶桑の船であろうと扱いがおかしな事はない。俺と木花が何度も入っている国でもあるし、先も神木船の不思議は知っており、航海の民として、尊んでくれている。大きな面倒はないだろう。


 ただそこに到る波路では、陸を見ながらの地乗りができない。まわり全てが青い海である沖乗りを、いよいよこなさなくてはならない。今の船人にとって、初めての大きな試しとなるのも確かだ。


         ●


「気になる噂を聞いた」


 昼餉の折に、夜儀が口を開いた。


「ここ何年か南の天象てんしょうがおかしく、嵐が少ないはずの夏前にも、時として大きな嵐があるそうです」

「それは読めるのか」


 源内が尋ねる。


「前もって読めはするらしい。ただ空も風も一刻ですぐ変わるので、沖乗りの間に逃げるのが難しいとか」

「渡りのさなかで兆しに気づいたときは、もう遅いのですね」


 潮汁うしおじるを飲みながら、写楽が呟いた。


「油津の漁師は、どう取り計らっているのでしょうか」

「ぎりぎりまで沖乗りせずに近づき、沖乗りをとにかく短くするしかないと……」

「では、まず薩摩の佐多岬まで地乗りで進むしかない。遠回りにはなるが……」


 大綿は渋い顔だ。


「佐多から一番近いは竹島だ。そこから硫黄島、口永良部、屋久と繋げばいい」

「そう。ただし屋久の後に壁がある」


 源内が唸る。ついでにアサルに抱かれた猫の毛を引っ張りながら。長い毛が気になるらしい。猫は嫌そうな、からかってもらって嬉しそうな、いわく言い難い顔で噛みついている。


「屋久からは小島を辿る長い旅になり、間に何度も沖乗りが欠かせない。……まず口之島まで沖乗り。中之島やあれこれを辿り諏訪之瀬までは、短い。困りはすまい。そこから奄美までが、また遠い」


 琉球への波路をよく知る三人の船人は皆、考え込んでいる。


「途上、悪石や小宝といった島はあるが、離れていてそこまで沖乗りするしかない。おまけにこれら小島は断崖が多く、近づける碌な港もないから船積みができないだろう」

「そう。せいぜい島陰で風を避けられれば見つけものだ。そしてその先は、もう蒼い潮の海しかない。次に寄れるのは奄美だ。奄美は大きいから、そこまで辿り着けばひと休みできる。ただし、トカラから二十五里もある。風がいいとしても、夜通し船を操って、まる一日より掛かる」

「奄美の先も楽ではない。大きな島を伝えるので、風下の島陰を地乗りで進めば、多少はましだ。ただし島々の間が、やはり十三里は離れている。危ない」

「大綿よ、この度の気の張った遅い進み方で、琉球の都、那覇まで進むのに、どのくらい掛かる」


 大綿は、天を仰いで算盤勘定した。


「途上、気を付け風を待ち休みながら進むとして……、油津から那覇まで、ひと月掛からぬくらいだろう」

「となると、那覇に着くは文月ふみつきか」


 俺は、夏の琉球を思い浮かべた。何度も寄ったので、その頃合いはよく知っている。暑く、疲れで体を壊す船人が出る危うさがある。それに、その先、台湾に遠く沖乗り渡るのが、嵐の時節となってしまう。それも恐ろしい。


「安芸竹原を出てからふた月ほどか。たしかに亀の如き歩みで進んできたとはいうものの、扶桑というのも、思ったより大きな国じゃのう」


 アサルが呑気に呟いている。病でないとわかった猫を優しく撫でながら。


「まずは佐多まで急いで進み、時を稼ごう。そこでまた手掛かりを探り深く考え、それを生かして屋久まで進む。屋久では特に心細かく聞き込みをする。頃合いを図り船出を決めたら、あとは神に托むしかない。皆で心をひとつに合わせ、奄美まで辿るのだ。その先は、また奄美で考える」


 俺の決議に、皆、力強く頷いた。そう、もう進むしかない。遥か波斯まで続く波路を思えば、これはまだ序の口に過ぎないのだ。



■注

油津 現在の宮崎県日南市の港

地乗り 陸地が見える航路で、陸地を目印とする航海手法

沖乗り 陸地が全く見えない沖合を、風と潮、太陽や星を頼りに進む航海手法。当然だが航路を見失う可能性がより高い。ちなみに大陸間を横断するような長期の沖乗りを「沖渡り」と呼ぶが、極めて危険だ

二十五里 約100キロメートル。一里=約4km

文月 旧暦7月。現在の新暦では8月相当

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