九之三 釣合戦

 西海道九州では、南に向かい、調子良く波路を進んだ。日向灘ひゅうがなだは地や海の形がわかりやすい。本潮、つまり上の沖潮は、流れが速い。向かい潮なので、速くは進めない。だが陸からあまり離れず地乗りで進む大本おおもとさえ外さなければ、気が張る難しさはない。木花は漁の船ではない。魚の居所など気にせず、楽な道を進めばいいのだ。朝から夕まで進み、近くの港に入るか山陰の穏やかな海に錨を落とす。港に入れば水と菜、干魚や細かな品々を入れておく。時には船人を放って女を買わせる。


 青梅雨あおつゆに入りぐずりがちだが、海は穏やかだ。船の操りも、船人代わる代わるの務めで済む。雨に濡れての気持ち悪い操りだ。少ない船人で済むのは有り難い。他の船人は木花板や潮見の間でくつろぎ、さいなど振っている。それに灰を使い雨で体を洗えるので、操り番でない者にとっては、なかなか気持ちの良い日々だった。まあこれが冬だと大変なのだが。


 操りが楽なので、進む合い間を見て、写楽に魚釣りを試させた。港で仕入れればいいので、扶桑を離れるまでは入り用ではない。ただ異国で真に求められる前に、試しておきたかったのだ。なにか道具など入れ損なっていては困る。


 写楽に頼んだのだが、暇な船人が集ってきて、図らずも釣りの腕比べとなった。猫を抱えたまま、アサルまで糸を手繰たぐっている。


 やはり伝え聞く噂通り、写楽がうまく、太いかつおを幾本も上げている。続いて、水の色や風向きから魚のいる深さを推し量る技を持つ源内が続く。夜儀も釣ったことは釣ったがすぐ飽きたようで、平鯵ひらあじをアサルの猫に咥えさせると星辰櫓せいしんろに上り、先帆の津見彦に命じて船をゆっくり進めさせている。津見彦に船人としての知恵をいかにして与えるかは、木花の生き残りにとって、極めて重い値打ちがある。


 アサルは全く釣れなかったのだが、どうやら他の船人と異なる釣り方をしていたようだ。大詰めに大きな引きを得て上げてみると、鮟鱇あんこうだった。


「繪琉波蘭の娘よ、これを釣ったのか」


 源内が驚いている。


「釣る魚ではないぞこれは。網で底をさらって獲る奴だ。どうやった」

「秘密だ。繪琉波蘭の技を甘く見るでない」


 アサルは意地悪く微笑んでいる。鮟鱇をぶら下げて、写楽が重さを測った。


「二貫といったところか……。小さいがな、鮟鱇としては」

「負け惜しみを言うでない。今宵、鍋にしてやろう」

「お前の味付けではなあ……」


 今度はアサルが言い返す番だ。


「な、なに、海の水と味噌で煮ればいいのだ。うまいぞ。陽高が味を付けるから」


 自分で墓の穴を掘っている。


 その晩は、刺身と鮟鱇鍋が出た。鮟鱇を切るのは難しいので、写楽が助けていた。ようやく船人にもまとまりが出てきたと思っていたのだが……。


         ●


「こら、蜜柑みかんの皮を捨てるな。船出の時に申し渡したはずだ」


 あくる日の朝餉の折、源内が写楽に説教を始めた。写楽が何の気なしに船縁から皮を海に放り捨てたからだ。


「源内様、皮などいいではないか。食べられはせんぞ」


 うんざりした口調だ。


「いいから儂に寄越せ。乾かして陳皮ちんぴとして使う」

「ちんぴとは、なんぞ」

「話してもわからん」

「ああ、そうか。わからんか俺には」


 わざとらしく、また皮を海中に放り込んだ。


「なにをするっ」


 源内は赤くなって怒っている。


「ふたりとも止めよ」


 大綿が怒鳴った。


 船人が揉めるのは珍しい。沖乗り船は、同じ船人で長い間、陸も見えない海を行くのが務めだ。船人の多くに嫌われてしまうと、海に放り込まれてしまっても文句は言えない。人殺しは陸であれば罪咎つみとがとして捕まりもしようが、遥かに陸を離れた海の上では、誰にもわからん。陸に戻った時に、誰々は足を滑らせて落ちたとか病で死んだと言えば済む。


 それに狭い船に長い間閉じ込められて気も詰まる。だから他の船人に、とにかく気を遣う。それが沖乗り船人だ。アサルが言うように、これこそが作法。ただ写楽にはこうした船に乗った試しがない。いつもは陸からさほど離れぬ廻船の船人だ。だからそこに気が付いていないのだ。


「写楽」


 穏やかな声色を保ち、呼び掛ける。


「はい、頭」

「皮は源内に渡せ。手間でもない。たったそれだけの話だ。お前ももう一人前の船人だろう。餓鬼ではないのだから、できるはずだ」

「それはたしかに、なんでもない話ではありますが」

「いいか、沖乗り船人には、幾つか守らねばならん決まりがある」

「……はい」

「お前はまだそれを知らん。ならば皆の言う事は全て聞け。そして考えよ。なにゆえそのようにしているのか。なぜそのように言われるのか。皆、訳をいちいち説いたりせん。自ら気づかぬ男では、そも沖乗りなど無理だ」

「はい」


 小声になってしまった。


「陽高はかように大袈裟に言うが、なに、ただ食べられもせん皮の話だ。争う値打ちもない」


 つまらなそうに、アサルが執り成した。皆もう飯はほぼ終え、蜜柑を食べている。アサルだけは未だに芋汁を抱え込んで、もぐもぐしている。


「違いない」


 大綿が笑い出した。夜儀はなにも言わず微笑んでいる。


「わかりました。俺は早くこの旅を終わらせて、金を掴みたいだけだ。女を買ったりとか……。蜜柑の皮など、いくらでも源内様に差し上げましょう。俺が女の風呂で揉まれてもみくちゃになっている間、溜まりに溜まった蜜柑の皮に埋まり、息が詰まるとよろしいでしょう」

「なんだその乳臭い嫌味は」


 源内も苦笑いだ。


「そのような憎まれ口は、淋の病などもらわぬよう、女遊びがきちんとできる男になってから言うがよいぞ」


 皆に笑われ、写楽は顔を赤くして唇を噛んだ。



■注

日向灘日向灘 現在の宮崎県沖合。「灘」とは潮流や波浪が激しく航海困難な海域のこと

本潮/上の沖潮 黒潮本流ど真ん中のこと。流速四ノット(時速約八キロ)と超高速

二貫 約7.5kg

陳皮ちんぴ ミカンの皮を乾かしたもの。漢方薬としても用いられるが、もっぱらスパイスとして使う。七味唐辛子にも入っている

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