九之三 釣合戦
西海道九州では、南に向かい、調子良く波路を進んだ。
操りが楽なので、進む合い間を見て、写楽に魚釣りを試させた。港で仕入れればいいので、扶桑を離れるまでは入り用ではない。ただ異国で真に求められる前に、試しておきたかったのだ。なにか道具など入れ損なっていては困る。
写楽に頼んだのだが、暇な船人が集ってきて、図らずも釣りの腕比べとなった。猫を抱えたまま、アサルまで糸を
やはり伝え聞く噂通り、写楽がうまく、太い
アサルは全く釣れなかったのだが、どうやら他の船人と異なる釣り方をしていたようだ。大詰めに大きな引きを得て上げてみると、
「繪琉波蘭の娘よ、これを釣ったのか」
源内が驚いている。
「釣る魚ではないぞこれは。網で底をさらって獲る奴だ。どうやった」
「秘密だ。繪琉波蘭の技を甘く見るでない」
アサルは意地悪く微笑んでいる。鮟鱇をぶら下げて、写楽が重さを測った。
「二貫といったところか……。小さいがな、鮟鱇としては」
「負け惜しみを言うでない。今宵、鍋にしてやろう」
「お前の味付けではなあ……」
今度はアサルが言い返す番だ。
「な、なに、海の水と味噌で煮ればいいのだ。うまいぞ。陽高が味を付けるから」
自分で墓の穴を掘っている。
その晩は、刺身と鮟鱇鍋が出た。鮟鱇を切るのは難しいので、写楽が助けていた。ようやく船人にもまとまりが出てきたと思っていたのだが……。
●
「こら、
あくる日の朝餉の折、源内が写楽に説教を始めた。写楽が何の気なしに船縁から皮を海に放り捨てたからだ。
「源内様、皮などいいではないか。食べられはせんぞ」
うんざりした口調だ。
「いいから儂に寄越せ。乾かして
「ちんぴとは、なんぞ」
「話してもわからん」
「ああ、そうか。わからんか俺には」
わざとらしく、また皮を海中に放り込んだ。
「なにをするっ」
源内は赤くなって怒っている。
「ふたりとも止めよ」
大綿が怒鳴った。
船人が揉めるのは珍しい。沖乗り船は、同じ船人で長い間、陸も見えない海を行くのが務めだ。船人の多くに嫌われてしまうと、海に放り込まれてしまっても文句は言えない。人殺しは陸であれば
それに狭い船に長い間閉じ込められて気も詰まる。だから他の船人に、とにかく気を遣う。それが沖乗り船人だ。アサルが言うように、これこそが作法。ただ写楽にはこうした船に乗った試しがない。いつもは陸からさほど離れぬ廻船の船人だ。だからそこに気が付いていないのだ。
「写楽」
穏やかな声色を保ち、呼び掛ける。
「はい、頭」
「皮は源内に渡せ。手間でもない。たったそれだけの話だ。お前ももう一人前の船人だろう。餓鬼ではないのだから、できるはずだ」
「それはたしかに、なんでもない話ではありますが」
「いいか、沖乗り船人には、幾つか守らねばならん決まりがある」
「……はい」
「お前はまだそれを知らん。ならば皆の言う事は全て聞け。そして考えよ。なにゆえそのようにしているのか。なぜそのように言われるのか。皆、訳をいちいち説いたりせん。自ら気づかぬ男では、そも沖乗りなど無理だ」
「はい」
小声になってしまった。
「陽高はかように大袈裟に言うが、なに、ただ食べられもせん皮の話だ。争う値打ちもない」
つまらなそうに、アサルが執り成した。皆もう飯はほぼ終え、蜜柑を食べている。アサルだけは未だに芋汁を抱え込んで、もぐもぐしている。
「違いない」
大綿が笑い出した。夜儀はなにも言わず微笑んでいる。
「わかりました。俺は早くこの旅を終わらせて、金を掴みたいだけだ。女を買ったりとか……。蜜柑の皮など、いくらでも源内様に差し上げましょう。俺が女の風呂で揉まれてもみくちゃになっている間、溜まりに溜まった蜜柑の皮に埋まり、息が詰まるとよろしいでしょう」
「なんだその乳臭い嫌味は」
源内も苦笑いだ。
「そのような憎まれ口は、淋の病などもらわぬよう、女遊びがきちんとできる男になってから言うがよいぞ」
皆に笑われ、写楽は顔を赤くして唇を噛んだ。
■注
本潮/上の沖潮 黒潮本流ど真ん中のこと。流速四ノット(時速約八キロ)と超高速
二貫 約7.5kg
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