第九章 沖乗り

九之一 姫と奴隷

 いよいよ速吸瀬戸はやすいのせとを通る頃合いだ。南から北に抜けていた潮が止まり、これからは次第に北から南へと流れる。木花はそれに乗り進む。最も適した風向きではないが、贅沢は言えない。


 速さより細かな操りが求められるので、張るのは先帆だけにさせた。


いかりを上げよ」

「錨を上げよーっ」


 船を後に進ませ錨を緩めると、ともに陣取った鼠小僧……夜儀と写楽が、錨綱をたぐった。重い錨をふたりで引けるのは、神木船ならではだ。錨綱を、津見彦が形良く巻き置いてゆく。


「陽高よ、なぜ木花は錨を三丁も備えるのだ。形も違うではないか」


 星辰櫓せいしんろでアサルが俺に尋ねた。神木船の不思議に目を丸めながら。


繪琉波蘭えるはらあんでは同じなのか」

「大きな船でも、同じ形を舳先へさきともに一丁ずつだ」

「それぞれ異なるのは、海の底の形で使い分けるからだ。砂とか岩とかな」

「それで艫に一丁、舳先に二丁なのか」

「そうだ」

「面白いのう、異国の船は」


 瞳が笑っている。


 甲板の決められたところに錨が留められた。夜儀はそのまま舵棒を持ち、津見彦が待つ先帆まで、写楽が走った。


 俺は潮見の間に下り、星辰櫓にはアサルと大綿が残った。源内は潮見の間の脇に立ち、いつでも動けるように備えている。


 木花は、そろそろと進み始めた。宇和の伽羅山がらんやまを過ぎ、長崎鼻ながさきばなを過ぎ、佐多岬が左に見えてくる。その先に高島がかすんでいる。佐多岬と高島の間が、速吸瀬戸の入り口だ。佐多岬を越した先で舵を切らせた。ゆっくり舳先を巡らせた木花は、急に揺れ始めた。速い流れに乗ったからだ。そのまま吸い込まれるように、南に進んで行く。右に見える佐賀関が、凄い速さで後ろに消えてゆく。


「大綿、このまま真南だと危うい。もう少し東に進ませろ」

「わかった」


 声竹こえだけで命じると、星辰櫓の大綿が、大きく手を回した。写楽が先帆の筈緒はずおを引き、夜儀が舵を当てた。進みをわずかに変え、木花は辰巳たつみの方角を目指す。


 潮の流れが入り組んでいて始終変わるので、その度に舵を当て直した。浅瀬と潮で難しいところでは、俺の見立てを伝えに、アサルが時折先帆や舵に走る。船の操りと進み方を調べるかのように、アサルはじっと木花の動き方を見ていた。昼餉ひるげを取る暇などない。気を抜けない潮や浅瀬と闘いながら、船人ふなびとは汗を流した。


 四刻も掛けて速吸瀬戸を抜け切った。皆へとへとだ。抜けたすぐ先、高平山たかひらやまの陰に錨を下ろし、夜を過ごすことにした。


 次の朝はわずかに進み、佐伯さいきの港に入って昼から休みとした。写楽を除く船人は下ろして一晩街に放ち、女を買わせた。写楽には翌日の船積みの手配を申し付ける。アサルがうるさいので、大綿に木花を頼み、津見彦と三人で茶屋に飯を食べに行った。女を買わせる晩なので、アサルに夜伽の務めはない。


 風呂敷一杯の菓子を抱えて戻ってきたアサルを見て大綿は苦笑いし、入れ替わりで女を買いに船を降りてゆく。


 その夜、いつものように気まぐれに、俺の寝床に木花咲耶姫このはなさくやのひめが訪ねてきた。慰めるつもりなのかもしれないが、正直、神の考えはわからない。遥か昔、初めて木花で眠った夜に姫が顔を出してから三十八年間、わからないままだ。からかいに来ているような気がする宵すらある。いつも深い微笑みを浮かべ、遠くを見通す瞳をして、謎掛けのような台詞を残して消えてゆく。その文言にはなにか深い意味があるのかもしれないが、あまりに突飛で、俺には全くわからない。


いい頃合いなので、アサルについて訊いてみた。


「姫、繪琉波蘭の娘が木花に乗った因縁を教えてくれ」


 俺を癒し終わり胸に手を置いて寄り添ったまま、木花咲耶姫は瞳を細めた。


「世の因果や縁起は陽高よ、わしにも全ては読み取れん。観て取れたところをここで伝え聞かせたとしても、現身のお前では読み解けはせんだろう。……ただ、これだけは言える。あの娘は陽高よ、お前にとってさいよ。振ってみなければわからん。そしてお前は必ず振らなければならない。振ってみよ。陽高のためになるかどうか、世のためになるのかどうか、災いの元になるのかどうか、自分の目で確かめてみよ」


 毎度このような調子だから、なにか尋ねても、答えでむしろ惑うだけ。女神は癒してはくれるのかもしれないが、俺の悩みを解いてはくれない。


         ●


 あくる朝、津見彦や写楽がまだ起きてこないうちに、アサルが船頭の間をそっと訪ねてきた。夜の責め苦から解き放たれ俺の心が現に戻ると、これを見よと猫を差し出す。


「毛が伸びておるな」

「そうなのだ。少し前から伸び始め、とうとうこんなになってしまった。心配でならぬ……」


 顔を曇らせる。俺の寝床で無邪気に寝転がる仔猫は、たしかに総身の毛が伸び、長く垂れている。撫でてやると脚で俺の手を蹴り、じゃれて噛みついていくる。


「どうにもただの毛のようだが。引っ張っても抜けんし」

「なにかの病ではないだろうか。かような猫など見た事もない」

「毛が抜けるならまだしも、伸びる病など聞いた試しもないが……。まあ、源内が女郎買いから戻ったら、尋ねてみるとしよう」

「そうだな」


 いったん心安らいだように微笑んだが、急に不審げな気色けしきとなる。


「ところで陽高よ、この寝床は女臭くないか」

「別に……そのようなはずもないが」


 俺がとぼけると、奴隷は寝床に顔をつけ、眉を寄せた。


「いや、女だ。どうにも……。まさかとは思うが、宵に女を連れ込んだのか、港から。皆が女郎を買うのを見て」

「そんなわけないのは知っておろう。お前も寝るまで見ていたはずだ」

「それはそうだが……」


 それきり黙ってしまう。気まずい静寂が続いた後、急に抱きついてきた。


「ならば抱け。女が欲しいのであろう」

「誰もそのような話はしておらんではないか。お前の匂いだろう、寝床のはきっと」

「いいから抱け。私がそうしてほしいのだ、我が主様よ。もう髪もだいぶ伸びたぞ、お前の好きな。ほら」


 髪を掴むと束を俺に押し当てる。


「しかし夜伽の順が……」

「いいからっ。主様よ、奴隷の申し出には従うものだ。それがことわりであろう」


 構わず俺の服を剥ぎ取ると、自らも脱いでしまう。そのまま俺の胸に吸い付いてきた。


「こらこら、なにをする」

「黙って言うがままになれ、主」


 息も荒く俺を押し倒して手を伸ばすと、いいように身体をいじり始めた。俺と奴隷が絡み始めるのを、目を見開き驚いたように、毛の伸びた猫が眺めている。




■注

宇和うわ 伊予いよ(現在の愛媛県)の一地方

辰巳たつみ 南東

四刻 約八時間

佐伯さいき 豊後ぶんご(現在の大分県)南東部の地名

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