八之六 生娘

 船頭ふながしらの間の寝床から、低い天井が見えていた。なぜか神木の堅い芯が用いられている天井だ。昔から不思議だった。堅い部は得難い。ここに使うのは場違いだろうに。部屋を突き通す木花帆の帆柱といい、三百五十年前の船大工は、今と考え方が違うのだろうが……。


 堅い芯ならではの詰まった木目を眺めながら、それがなんの模様に似ているのか、俺は思い出そうとしていた。たしかに覚えがあるのだが、心覚えはすっと逃げていってしまう。


 ……そしてこの女だ。これまでの海渡りで見聞きした試しのない厄介の種を、もしかしたら今まさに、俺はこうして腕に抱え込んでいるのだろうか。


 裸になり俺に横からしがみついたまま、奴隷は荒い息をついている。瞳からは涙が流れ、体に汗の玉が浮かんでいた。


「アサル……」


 アサルは、気だるそうに溜息をついた。


「なんだ……陽高。私は気に入ったか」


 俺を抱く手に力を込め、胸に頭を置いて満足気に呟く。深い緑色の瞳で、俺を覗き込んだ。


「お前、生娘だったのか」

「そう言ったではないか、大黑屋の柵の中で。お前もしっかり触ったろう」

「いや違う。今の話だ」

「それは……どうでもよいではないか」

「いや、それでは済まん。どうなんだ」


 ぷいと横を向くと、アサルは上を向いてしまった。形のいい胸が天を仰ぐと、それはずいぶん小さく感じられる。


「……生娘だ。今宵、我が主様に女にしてもらったが。痛くて死ぬかと思った……」


 はあ……と、また吐息を漏らした。


「まさか、伽をしていないのか」

「伽はしている。大綿とも夜儀とも。……まあ源内のあれは、伽と言えるかわからんが」


 くすくす含み笑いをする。


「ならなぜ生娘だ」

玉門ぎょくもんを与えておらん」


 なにを当たり前の話をといった、軽い口ぶりだ。


「玉門を……」

「そうだ」

「それでは船人が納得せんだろう」

「いや。皆、喜んでいる」


 アサルは起き直って、俺の目を見た。


「男を喜ばせるすべを、幼いみぎりから習い教わっている。その秘めたるすべを用いた。大綿も写楽も喜び、玉門は許してくれている」

「男を喜ばせる……術、だと」


 俺も寝床に起き直った。細い体を掴み、奇妙な奴隷の瞳の奥を探ろうとする。しかしそこからは、一片の悪意も害意も見えてこない。草原くさはらのような深い緑が、俺を信じるしるしのように輝いているだけだ。気高いと言っていい程に。


「しかし今宵、そのような秘術を用いなかったではないか。まっさらの生娘としているような気になったぞ」


 胴を抱かれたまま、アサルは笑い出した。白い胸が揺れている。


「特別だ。陽高にだけは、まことの姿を見せた。だからただの小娘、お前の女だ。船人に対してだけ、夜伽の奴隷になっている。あれは私の仮の姿だ。真の私は傷つきはしない。だから気に病むな、陽高よ」


 女の台詞の意味を、俺はゆっくりと反芻した。


「アサルお前、漁師村の生まれと聞いたが、岡場所で禿かむろとして育ったのか。それで男の操り方を――」

「違う」

「間者の類か」

「それも違う」

「では、お前の真の姿はなんだ」


 瞳を伏せた。


「今は言えない。……でも信じてくれ、私は決して陽高に害をなしたりはしない」


 それきり黙ってしまった。


「そうか……。俺の船人であるお前を信じたい。信じたいが……」


 俺の頭に浮かんだ疑念は、アサルの瞳を覗き込んでいるうちに次第に和らいでいった。


 これが定めなのかもしれない。謎の奴隷女に寝首を掻かれるのも、いいかもしれない。どうせこの海渡りで、俺の命は詰んだ。行き止まりだ。


 奇跡を起こし務めを果たして安芸竹原の城下に戻っても、あの宦官かんがんどもが俺を解き放つとは思えない。そのあとも命を懸けた危ない務めに駆り出されるだろう。命ある限り脅されながら。悪くすればまたありもしない嫌疑をかけられ、神木かみき蘇りの密か事を知る者として、闇に葬られる。


 それよりは、強い瞳の力を持つ、不思議な異国の女の手にかかったほうが……。


「陽高、なぜ泣く」


 俺の顔にそっと手を当てて、呟く。


「気にするな」

「……また私が悪いのか」

「違う」


 頬を伝う涙を、アサルは舌で受けた。


「いい味だ」

「そうか」

「たまに飲ませろ」

「わかった」


 微笑んだ。


「陽高はよく泣くから、飲むのが楽しみだ」


 また俺の胸に顔を埋める。


「ところで初めて見たぞ、主様あるじさまの裸。大綿より、よほど傷だらけではないか。辛い務めが透けて見えるのう……。それにこの首飾りは、どこの女に貰ったことやら」


 首を飾る翡翠ひすい勾玉まがだまを、指で弾いて戯れる。


黄泉よみへの誘いだ」

「……」


 わからないのだろう。困ったような笑みを浮かべたまま、アサルは勾玉をもてあそんでいる。


「私の瞳の色に似ている」

「そうだな」

「陽高に玉門を許した事は、誰にも言うな、大綿にも。私がどのような伽をしているかも、皆に訊くな」

「どうしてだ」

「危ういからだ。お前も沖乗り船の作法は知っておろう。我が民も扶桑の船も、そこに違いはないはずだ」

「……そうだな」

「そうしろ。私が玉門を開くのは、これからも我が主様にだけだ」


 抱きついてくる。


「大綿が認めた。今宵は陽高の伽の番だ。私はお前と朝まで眠ってやろう。……それとも、もう一度するか」

「止めておこう。生娘に二度するのは気の毒だ」

「そう言うとは思っていた」


 嬉しそうだ。


「ひとつ言っておく、アサル」

「なんだ」


 ただならず穏やかな俺の言い方に、アサルはかえって怪しさを感じ取ったようだ。いぶかしげな顔つきとなる。


「今宵寝ていると、おかしな事が起こる。俺の体は震え、多くの汗が流れるかもしれぬ。苦しそうにうめくだろう。だが起こすな。なにがあっても起きない、朝まで。気にせず眠るといい。もし気味が悪く眠れなければ、おのが寝所しんじょに戻れ」

「……大綿が言っていた、苦しいときの話だな」

「そう思ってくれていい」

「それはなんだ」

「お前には縁がない」

「そうか……」


 悲しそうに眉を寄せた。


「ではせいぜい、今この一刻を、一緒に味わおうではないか。我が主よ」

 そう言って、俺の体を抱き締めてきた。


         ●


 朝、恐ろしい暗闇から解き放たれると、なんとか目を開いた。朝だというのに、すでに疲れ切っている。また今日も、ここから始める一日となる。毎日の事とはいえ、とても辛い。


 抱きついたままの形で、アサルは俺の瞳を覗いていた。


「起きたのか、陽高」


 体を引き裂くような苦しみ痛みからようやく解かれ、次第にぼんやりとものが見えるようになってきた。日々の考えが戻ってくる。


「夜、眠っている陽高の姿を見ていた」

「ああ……そう……か」

「固く目を閉じ歯を食いしばり、悪鬼の形相で血の涙を流していたぞ、お前。おこりのように、体も大きく震えておった、引きつけて。死ぬのではないかと怖くなった。……私であれば数刻も持たんだろう、あの奇っ怪な有様では」


 俺は、天井の木目の事をまた考えている。いつか思い出せる日が来るのだろうかと。


「主様よ、あのような苦しみは見た事も聞いた試しもない。あれはなにかの呪いであろう」

「話してもどうにもならない」

「魂ときもが楽になるぞ」

「いずれ……話そう」

「……わかった。では黙って乳を吸え。まだ夜伽の刻は終わっておらん」


 アサルは、俺の顔に乳房を押し付けた。ひときわ柔らかな乳首が、否応なく口に入ってくる。





■注

岡場所 官許(吉原など)以外の遊郭

禿かむろ 遊女の小間使いをする幼女。いずれ遊女になることが多い

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