八之三 生姜糖
二日ほど戻り
「綱ができるまで、しばらくは暇になる。荷積みが始まるのも明日からだ。ここで久々陸に上がって、骨休めをせよ。もう今から降りてよい。船には俺とアサル、津見彦が残る。残りは明日の昼まで好きにせよ。旨いものを食い酒を飲み、女を買え。銭を渡す」
「こんなに……」
中を覗いて写楽が呟く。
「いいか、皆。ひとつだけ命じておく。安い女は買うな。
「まだ髪がほとんど伸びていませんな」
自らの頭を撫でている。
「これでは
今度は苦笑いだ。
「陽高、私達は下りられないのか。津見彦と三人で団子でも食おう」
アサルが訴える。
「俺もそうしたいが無理だ。
「……そうか。それもそうだな」
悔しそうな瞳となる。
「だが大綿が明日、お前と津見彦に菓子を買って帰って来る」
「そうか。
顔が輝いた。
「任せておけ、アサル」
「ならば
「……まあなんだ。もしそのような事になったら、という仮の話だ」
アサルは余計なひと言を漏らし、さらに雲行きを怪しくさせた。
「なにやらわからんが……」
大綿が頭を掻く。
「とにかく羊羹も買ってきてやる。それでいいんだな」
赤くなったまま、アサルは黙って頭を下げた。
「よし、お前ら、
大綿が続ける。
「守って遊べ。服など好きに替えて出掛けてよい。では動けっ」
それぞれ楽しげに談じながら、船人が
●
皆が降りると、急に静かになった。昼が近いので、海風が強くなってきた。風は潮の香りを運び、陸へと消えてゆく。空を見上げて、津見彦はぼうっとしている。女は俺の顔の色を窺って黙っている。
「ふたりとも、そこにいろ」
先程の件をアサルが気に病んでいるようなので、
「これを見た事があるか」
皿に入れて見せてやると、瞳が丸くなった。
「なんだこれは、食い物か。白と紅と緑で、板のような。……菓子だな、これはっ」
「わかったか」
「わからいでかっ」
嬉しげに笑い出した。
「津見彦は知っているか」
「アサル様、俺、知らね。こんなに綺麗な菓子など」
「アサル、匂いを嗅いでみよ」
ひと欠け手に取ると、匂いを嗅いでいる。
「これは……棧紫微に似ているな」
「ざんしびとはなんだ、アサル様」
「
「ああ、試してみろ」
黙って、紅色のひと切れを手に取って口に放り込んだ。津見彦も続いて食べる。
「甘い」
にこにこしている。
「……しかし溶けてくると辛いな。なんというか鼻に抜けて」
「生姜の味だな、頭」
「そうだ。生姜糖という菓子だぞこれは」
「しょうがとう……。
「好きなだけ楽しめ」
「かような菓子をこっそり頂けるなら、皆がいない日もいいな。……たまには三人で留守を守ろう」
「そうだな」
奴隷の頭を撫でてやる。アサルは楽しそうに笑って、「緑の奴は茶の味がする」などと俺に教える。
昼餉も三人で、言葉少なにしっぽりと済ませた。ふたりには昼寝をさせておいて、俺は船縁からひと通り周囲を見て回る。桟橋には何人か男が立って前後ろを睨んでおり、俺の姿を見ると手を上げた。大綿が手配した男達だろう。海にも
明日の船積みに関して、港の手配方が話をしにきた。アサルに茶を淹れさせ、ふたりで段取りを取り決めてゆく。手配方は、神木船噂の
そうこうするうちに、陽が傾いた。煮炊き場脇の飯座敷で夕餉にした。人もいないので、簡単な煮物のみだ。それに加え、アサルに照り焼きを作らせてみた。俺に作りたいと言っていたし、少しは飯の種を増やさないと、いずれ船人がうんざりする。その試しのために。今宵なら失敗しても三人だけ
「どうだ、陽高。照り焼きはうまいか」
「うまいぞ、アサル」
「そうか。作った甲斐があったなっ」
照り焼きにした
「うん、甘辛でうまいのう、我ながら」
俺が味付けしてやったわけだが。
「鰆は春が旬。身が柔らかくていい魚だ。……焦がさなかったのは良かったな、アサル。照り焼きは焦げ易いからな」
奴隷は楽しそうだ。
「おうよ。魚の火加減はもう台所方に任せておけ」
「アサル様、俺、こんなうまいもんは食べた試しがありません」
津見彦が呟く。
「母ちゃはいつも飯を作ってくれたけど、みんなで食べると少ししかなかったし。自分では食べなかったりとか。父っつぁが持ってくる、値が付かなかった小魚と、俺や利助が採ってきた貝や亀の手ばかりで。こんな味の飯、初めてで。母ちゃに食べさせてやりたい。母ちゃ……」
涙ぐんでいた。
「もう口減らしをするしか……。あのときの母ちゃ……」
アサルも黙ってしまった。津見彦を哀れとも思い、また自らの父母や流された身の上なども改めて思ったのだろう。俺達は静かに飯を食べた。津見彦はしばらく泣いていたが、そのうち箸が動き出す。
「津見彦、家に戻りたいか」
頃合いを見て訊いてやる。
「……いえ、
「そうか」
「それに、この船は凄い。これまでこんな船に乗った事はない。いろいろ覚えて帰ったら、利助やみんなに聞かせるのが楽しみです」
「これを食え、津見彦」
アサルが、紅色の生姜糖を津見彦に手渡した。夕餉に出してはいないから、昼の菓子をくすねていたのだろう。
「アサル様……」
「遠慮するな。うまいぞ。それにまだある」
袖からじゃらじゃらと生姜糖を出しながら、横目で俺を窺う。俺は知らぬ顔で芋汁を飲んでいた。
「私はこの紅色の奴が好きだ。どれ……うん、うまい」
「アサル様、俺は緑のが好きです」
「そうか。たんと食べろ」
ついでに俺にも生姜糖を試せと迫った。三人で菓子を味わううちに、陽もすっかり落ちてしまい、暗くなった。それぞれもう寝るように促すと、ふたりとも歯を磨き始める。俺は船まわりをもう一度見て回った。ひと通り調べて
「……では寝る」
いつもの
「ああ、おやすみ」
「おやすみ」
俺の手を一度握ると顔を見て、それから逃げるように自分の部屋に消えていった。
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