第八章 疑念
八之一 転覆
あくる朝、痺れるような闇の苦しみからようやく解き放たれると、渾身の気合いを入れて、寝床から立ち上がった。そのまま壁に手を突いて、しばらく息を整える。
アサル……。
思わずそう呟いてから、頭を振る。
昨夜の俺は、少しおかしかった。
分け隔てなく接するのは、生きて
俺ならできる。三十八年間戦ってきたのだ。俺なら……。
朝の海の匂いがする気を深く吸い、肝の奥の奥まで染み渡らせる。全て吐き出し弱い心を振り払うと、部屋を後にした。煮炊き場にアサルがいて、
「おう陽高、もう起きたのか」
鍋を睨んでこちらを見ずに、忙しそうに掻き回している。
「今朝は芋を増やしてみた。どうも皆、藻より芋が好きなようなのでな」
「芋の減りが早いのか」
「そうだ。おそらく津見彦だと思うが」
溜息をつく。
「
「そうしてみるか」
「おお、そうしろ」
やっと俺の顔を見ると、頬に手を伸ばしてきた。
「なんだ、また
そう言ってから、はっとしたように手を引っ込め瞳を伏せ、アサルはせっせと鍋の味見を始めた。
「陽高に好きなものはないのか。私が作ってやるぞ。……作り方と味付けを教えてくれればだが。あと味見も……」
「有難うアサル。照り焼きがいいな。今度、教えてやろう」
「任せろ」
「平気か」
「……なんの事だ。アサルは平気に決まっておる」
鍋を混ぜる手が、ますます速く動く。
「そうか。毎日飯を作ってくれて助かる。皆喜んでいるぞ、味付けも良くなってきたと」
「もちろんだ」
これ以上ここに居てはいけない、女を
「どうした」
「陽高か。……今日はあまり風が強くない。危うくない
「
「もう
「では朝餉の後に試すとしよう」
その日の試しの段取りを詰めた。大綿は、昨夜の
船の上では狭い暮らしが長く続くし逃げ場がない。互いに気を遣わないと
朝餉の後、さっそく皆を配した。一の帆に
アサルは猫を抱えて、夜儀の脇で見ている。休んでいる者はいない。これは、ほぼできうる限りの陣立てだ。使っていないのはアサルと木花帆くらいで。日々の操りでは、これほど皆が取りつく事はあまりない。ただ試しとしては、ここまでやっておきたい。
舵を上げ、帆を下ろした形から始める。
「一の帆を上げよ」
潮見の間から顔を出した俺が命じると、声と手振りで、星辰櫓に立つ源内が皆に伝えた。
「一の帆をー、上げーよーっ」
夜儀と津見彦が声を揃えると、
「舵を下ろせ」
「舵を下ろーせーっ」
写楽が舵をゆっくり下ろした。鈍い音がして、
「風に合わせよ」
「風に合わーせーよーっ」
帆から垂れている右の
「先帆を張れ」
「先帆を張ーれーっ」
先帆は小さいので、轆轤はない。人が直接、帆を上げる。大綿が帆張りの綱を引くと、小振りな先帆がはためいた。さっそく傾け、一の帆が受ける風の進みを助けている。
速さは、大きな一の帆の力に依る。進みが右左にぶれないように、舵を当てる。ただ、向かい風だと船が
ここまでは滞りなく、見込み通りだ。しばらく左前に進むと、帆や舵の向きを変え、右前に進むよう傾きを変えさせた。
そのとき、乱れが起こった。
まだ一の帆の向きが変わり切れてないというのに舵が大きく先走り、木花は右に回り出してしまう。
「舵が早いっ」
窓から顔を出し、手を振り回して叫ぶ。俺の命で大綿が先帆を引き直し、傾きを正そうとした。
しかし回り出しの直しに力を取られた。そのため傾ぎの整えがおそろかにり、大きく右に傾ぎ出してしまった。向かい風だけにそうなると船が前から押され、どんどん傾きが増してゆく。いつもは海に没している
足元が揺らいで、アサルが抱えた猫を落としそうになっている。猫の瞳が、大きく見開かれた。
「一の帆を落とせっ」
重い布を避けて、夜儀と津見彦が飛び退く。
風を受けるものが消え、傾きが一気に元に戻った。力の限り走った俺は、舵棒に飛びついた。傾きが勢いよく戻ったあおりで、舵には大きな力が掛かっている。写楽とふたりで舵棒を支え、舵が折れないほどに操り、舵の傾きを正してゆく。
船の傾きも右への回り出しも、跳ね返りを残しながらも次第に直っていった。
木花が落ち着きを取り戻すと、先帆も下ろして進みを止め、
「どうした、写楽」
訊くと、下を向いたまま答える。
「……舵を間違えた」
「なぜ間違えた」
「木花の舵は、思ったよりずっと軽かった。力を込め過ぎていて、操りが早くなった」
「それが
「わかりました、頭。……皆には申し訳なく思っております」
青くなっている。
「気に病むな、写楽」
夜儀が語り掛けた。
「お前はそも絵描きであろう。力仕事とは真逆の。いかに船人として勤めを重ねたとしても、長い間ではない。それに神木船は初めてだ。俺も大泥棒の癖が抜けず、初めは木花で騒ぎを起こし、
夜儀──鼠小僧次郎吉の話を写楽は、下を向いたまま聞いている。
「しかし、写楽が悪いとは思えん」
アサルの声がした。
「見ておると、たしかに初めは舵がしくじった。だから舳先がまだ左に残っているのに
「アサルの言う通り、誰が悪いの話ではない」
大綿は不機嫌だ。
「先帆だけならうまく行っていた。だが今日は先帆に一之帆、それに梶棒と、船を進める力を最も多く使った。速くは進むが、操りは難しくなる。
「そうさな。幸い
にやりと笑ってやると、皆の顔もようやくほぐれた。
「船が傾いだとはいえ、儂の
源内が蓋を閉める仕草をすると、皆が笑い出した。写楽もようやくぎこちない笑みを浮かべる。
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