七之四 因果含め

 その日は心得通り蒲刈ほかりの沖に錨を投げ、木花このはなは眠りに就いた。夜が明けると進んで呉に入り、船出までに間に合わなかった大事の品を幾つも積んで港で夜を過ごす。見込み通りだ。


 何日か掛けてくれから江田島えだじまを抜け、屋代やしろ文珠山もんじゅやまを右に見ながら抜ければ、もう島々と浅瀬に溢れた安芸ではなく周防すおうだ。木花の操りも楽になり、船人達も一息ついた。


 その夜、アサルを訪ねた。船人には部屋がないが、女にはある。厚く遇しているわけではなく、もちろん夜伽に使うからだ。毎日辛い務めに追われ雑魚寝する船人達は、ひと夜ゆったりとした部屋で眠り、女を得て癒される。日頃と開きがあるからこそ、その一夜が夢のように感じられ、また務めに奮い立てるのだ。


「なんだ陽高。私の部屋にも来てくれるのか」


 奴隷は嬉しそうに手を握って、指を絡めてくる。足元に猫がまとわりついている。


「アサル……」


 気の重い務めだ。女に因果を含めなくてはならない。


「木花が船出して幾日か過ぎた」

「誰でもわかるぞ、かような事は。我が主様よ」


 ふざけて、からかうような調子を帯びている。


「慣れるまでの日は終わり、これからは常の営みが始まる」

「わかっておる。飯はどんどんうまくなる。今宵も昨晩よりはましであったであろう。芋の茹で汁にも味噌を入れて味を付けたし……。もう少し時間をくれ」

「有難う。助かる」

「任せておけ、陽高よ」


 俺の胸に体を寄せてきた。


「……常の営みとなれば、夜伽も始まる」


 アサルは微笑んだまま急に固まり、やがてぎこちなく真面目な顔になると、下を向いてしまった。俺の胸に、短く切った髪の頭が当たる。


「……もちろんだ」

「夕餉も終わって、飯も片付けた。これから煮炊き場で湯浴みして、化粧をしろ。少し曇ってはいるが、姿見もある」

「……わかった」

「夜伽の順は、大綿おおわたが決める。お前が相手をするのは、日にひとりだけ。それも夜の間だけだ」

「わかった」

「長い海渡りとなる。無理をさせたくはない。月のさわりが来たら、大綿に言え。船人ふなびとげんを担ぎ、血の汚れを嫌う。その間は、お前は誰の相手もせずに休めばよい」


 もし寂しければ俺の部屋に来い、添い寝してやる――そう言いそうになって、ぐっと堪えた。わかっている。寂しいのはアサルではなく、俺だ。重い務めと呪いを背負い独り気を抜けない男の望みに、年端もいかない女を巻き込むわけにはいかない。


「わかった」

「毎日、そこにある源内の薬、朔日丸ついたちがんを飲め。飲んでいる間は子ができん。飲むのを忘れるな。万一子ができると、お前をどこかの港に下ろすか、腹を踏んで流れさせなくてはならん。そんな事はしたくない」

「……わかった」


 下を向いたまま、異国の女は自分の足先を見ている。絡めていた指も、いつの間にか外してしまっている。猫が不思議そうに俺達を見上げていた。


「ここに夜伽の服が色々積んである。好きな物を着ろ。その日の男が好むものであってもかまわない」


 急に顔を上げると、緑の瞳で俺を捕らえた。なんとも言えない顔の色をしている。因果を含めるなど単なる流れの俺でも、胸が痛くなる。小娘の強い眼力を胆で受け止めようと、肚を据えて見つめ返す。


「……わかった」


 わかったしか言わなくなった。しばらくふたりを静寂が包んだ。やがてへなへなと下を向いてしまうと、アサルは俺の胸をどんと押す。


「もう船頭ふながしらの務めに戻れ。身ごしらえする」

「……そうする」


 あとじさりした俺が敷居を越えると、下を向いたまま、アサルは戸を引いた。刹那、俺の目を見て。


 その夜は、船頭の間の見張り窓から、アサルの部屋をずっと見ていた。湯浴みを済ませて夜伽の服をまとい化粧を始めたようだ。やがて大綿が部屋に入っていった。戸の隙間にふたりの影が揺れ、灯りの油が落とされ暗くなる。特に騒ぎにならなかった事を風が薙ぐまで見定めてから、寝床に横たわった。


 悔いた。


 生娘など買わなければ良かった。夜伽なら、秘め事に慣れている女のほうが気が楽だろう。それにアサルは、図らずも船をよく知っていた。ただでさえ木花の船人は足りない。ならば大綿や俺、夜儀やぎを支える船人として使い、伽には別の奴隷を買っても良かったのだ。


 それを考えなくはなかった。ただ危うさを感じ、避けてしまった。船人のそりがまだわからない長旅の往きという、その縛りを考え合わせたからだ。それは船頭、船長としての肚決めだったのだが、間違っていたかもしれない。


 なぜせめて大黑屋に今一度足を運び、別の女を見ておくくらいはしなかったのか――。


 肚の底から深く息を吐くと、目を閉じた。アサルだけに苦しみ痛みを与える事はない。これから漆黒の闇に取り込まれ、俺の奴隷と共に苦悶を味わおう。それがせめても船頭としての務めだ。




■注

周防すおう 現在の山口県

月のさわり 月経。つまり生理

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