第七章 夜伽

七之一 寝覚め

 翌朝、毎夜の苦しい夜の闇から目覚めると、しばらく寝床で荒く息をついていた。まだ起き上がる事はできない。呪いの夜の責め苛みから、今しばらく体を休めないと。女神は俺を癒すと消えていった。そのまま眠りの煉獄へと落ちたわけだ。


 まあ、いつもの話だ。


 深く息を吸い、そして吐くと、のろのろと寝床に起き直った。あらゆる骨が悲鳴を上げるほど、体が痛む。幾夜も寝ていない朝のように頭はじんわりと重く、考えがまとまらない。


 寝床を離れ船頭の間を出ると、煮炊き場に湯気が立っているのが見えた。朝餉を作っているようだ。顔を出すと、アサルが輝く笑顔で迎えてくれる。


「陽高、起きたのか。お前に聞いたように飯を作っておる。見てみい、この出来を。……どうした、顔の色が悪いぞ。隈もできておる。またなんぞ悪い夢でも見たのか」


 俺の顔に手を添え、気を揉むように撫でさする。


「気にするな。いつもと変わらず、朝に弱いだけだ」

「そうか、なら良いが……」


 アサルの手を取り、しばらく握っていた。


「……陽高」


 もの思わしげな声に我に返った。眉を寄せ、俺を気遣っている様子だ。


「朝も早くから大変だな、アサル」


 手を離して頭をぽんと叩いてやる。


「なに。なんでもないぞ、このくらい」

「猫はどうだ」

「かわいいぞ。今は部屋で干魚の頭をかじっておる」


 ようやく笑うアサルを残し甲板こういたに上がると、雲の広がる空を、大綿が睨んでいた。


「昼には降るだろうな、これは」

「なんだ陽高か」


 大綿おおわたは振り返った。


「見たところ、日の入りまでは持ちそうだ。夜にはしとつく雨となるだろう」

「ならば大崎島での荷積みは無事済ませられるな」

「ああ、降ると荷積みは難しい。荷を皆小さくまとめ直して運ばせても、足が滑って傷つく人足が出るだろうし」


 大きな目が俺を見る。


「ところで、女の具合はどうだ」

「アサルか。……まだ難しいだろう、あの塩梅では。慣れぬ暮らしに哀れなほどだ。それに長旅だ。使い捨てにできん事は大綿、お前もよく知っているはず」

「わかった。飯だけはなんとかさせろ。味よりなにより、船人が体を壊す」


 苦笑いだ。


「つつがなくなるだろう……月が欠ける頃には」


 ふたりで大笑いする。


「陽高お前、老けたら女を見る目が鈍ったのではないか」


 意地悪い目でにやけている。


「からかうな。アサルはいい女だ。俺の船人ふなびとだぞ」

「女がひとりいるだけで、船は滑らかになる。アサルにその力がある事は認める。……あいつは物怖じせんからな」

「それは俺も思う。お前と諮り事をしていても、奴隷というのに脇から割り込んできてそれなりに正しい考えを述べるし。船頭ふながしらに媚びへつらったり下働きを見下したりもしない。少し不思議だ」

「異国ならではの気のたちなのだろう。あるいは生まれ育ちが人とは違うのか……漁村の生まれだったか、陽高」

「そうだ」

「まあいい買い物だったのは確かだな」

「ああ。……飯を除けばだが」

「違いない」


 また笑い合う。


 大綿は、友として俺を陽高と呼ぶ。ただし、船人の前ではおさと呼ぶ。それはもちろん船人に船のわきまえを叩き込むためだ。船人には皆、長とか頭と呼ばせている。それでないと、生き死にに関わる火急のとき、船頭の言う事を聞かぬ船人が出てしまう危うさがあるからだ。


 平賀源内は天津殿と呼ぶが、それはあの男の歳が俺より上である事と、変わり者で世の習わしに従わないからだ。俺も大綿も源内には信を置いている。だからこそ、そのくらいの横紙破りは見逃している。


 それから外れるのは、女だ。船に載せる女には、陽高と呼ばせている。安芸の船人の習わしではない。長い見聞きで俺が編み出した、木花だけの決まりだ。


 それはまず、女は他の船人と異なる位にあると、皆に知らしめるためだ。だからこそ、船頭に親しげに呼び掛けてもよい。特別なものであるから、夜伽の値打ちも上がる。ただの安い端女はしためを抱いていると思うのと、船長ふなおさに目を掛けられた女を抱いていると感じるのでは、船人の心地良さが異なる。


 次に、女のためだ。長い海渡りでは、女の心の傷みはどんな船人より酷くなる。抜け殻のようになってしまう女すらいる。船頭がそれを支えてやらなくてはならぬ。おのれは船頭に特にかけがえなく思われていると、心の底から感じさせてやりたい。そのためだ。


 ただ、そこには難しい勘所がある。女が勘違いして、船人を見下してしまう危うさだ。そうなると船の気配が荒れてきて、人に争いが生じる。こればかりは気をつけて見ているしかない。今のところアサルはつつがなく思えるが、それは俺の目が曇っているからかもしれん。船頭のいないところで、どう振舞っているかだ。


「津見彦、かじの下ろし方は覚えたか」

「はい大綿様。今のですっかり」


 いつの間にやら大綿は津見彦を連れ歩き、船の操りの大本おおもとを教えているようだ。


「いいか、まだこのあたりでは舵は全ては下ろせん。底が浅いでな。舵が擦れて壊れる」

「はい」

「瀬戸内の島は遠浅が多い。舵は上げたままにしておく」

「大綿様。昨日は舵を下ろしていました」

「半ばまでな。半ばであれば、それほど危うくはない。そもそも帆だけでも、穏やかな海をゆっくり進む分にはなんとかなる。昨日舵を半ば下ろしたのは、船出を芝居として皆に見せつけるためだ」

「はあ、そうだったのですか、大綿様。俺わからねかった」

「すぐにわかるようになる。学べ」


 大綿は童の頭を撫でてやっている。


 アサルが津見彦を呼びに来た。どうやら朝餉あさげの支度が整ったようだ。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る