六之四 木花咲耶姫

 船出の日の営みを全て終えると、独り真っ暗な船頭ふながしらの間に下りた。油に火を移すと、薄明るくなる。静かだ。微かに波の音が聞こえてくる。


 またここに帰ってきたか。毎度生きるか死ぬかのこの部屋に。


 長く見慣れた部屋のしつらえに深く溜息を漏らすと、寝床に体を横たえた。


 疲れた。船出の一日で、覚悟していたとはいうものの、あまりにも多くの事があり過ぎた。これはうつつなのだろうか。命を懸けて遙か遠くの波斯はしまで行く船に乗っているなどと。


 ここには自分しかいない。気を遣い、考えに考えて使わなくてはならぬ船人ふなびともいない。まつりごとで俺の命をもてあそび、雑事で身をわずらわせるやからも。誰はばかる事なく、真のおのれに戻れる。


 神木船かみきぶねの船頭などと。十五の頃どころか、今でも荷が重いわ――。


 自らの合い口を、俺は知っている。多くの采配さいはいを人に任せねばならぬ神木船の船頭などより、独りだけのさばきで好きに生きてゆける小舟暮らしが向いているのだ。それを四十年近くも……。


 思わず眉に力が入る。


「神木船など……。大綿おおわたのほうが、よほど船長ふなおさに向いておる」

「まあそう愚痴るな、陽高よ」


 女の声が響いた。寝床の前に、いつの間にやら女生にょしょうが立っている。透けるほど白い神衣かむみそを着て。


「……来たのか」

「久方振りよのう……」


 白く晒した楮布ちょふの衣。島田にまとめ、花橘はなたちばなかづらとして飾った髪。まっすぐで形のいい脚が、神衣の脇から覗いている。綺麗きれいに整った眉に薄い唇のたおやかな笑顔ながら、芯の通った強い瞳が光っている。


「姫……」


 木花咲耶姫このはなさくやのひめが、今まさに人型として顕現けんげんし、俺の前に立っている。寝転ぶ俺の脇に、すっと優雅に腰を下ろすと、体を捻って俺を見つめる。


「会いたかったかや……」


 意地の悪い微笑みを浮かべて。


「知らん。俺は疲れている」

「知っておる」


 くぅくぅと笑う。


「またぞろ、質の悪い輩に責められておるようじゃのう」

「そう思うなら、あの宦官かんがんどもをぶち殺せ。この勾玉まがたまも壊してな」


 胸を開いて突き出してやる。


「それはできん。お前もわきまえておろう」

「それでも神か」

「神じゃ、神。しかし今は、この船の護りとしてここにほれ、かように封じられておる。かれこれもう三百五十年ほどもな。力を持つのは、この船を護る事だけ。人をぶち殺すだの、その勾玉をどうにかするなど、無理な話じゃ」


 女神の訳知り顔が気に入らん。こちらは現身うつしみで日々生きるのに、泥のように這いずり手こずっているというのに。


「へそを曲げた考えを持つなというに……。申し訳なく思っておる。苦しみ多き船頭に選んだについてはな。……しかしお前が受けなんだら、この船はあのまま朽ち果てたであろう。それは安芸あき、そして扶桑ふそう民草たみぐさのために、果たしてなったであろうかのう……」


 なにかを見通す瞳をした。


「知るか。遠いときを睨んだ、神々のはかり事など。俺は、束の間、命を与えられただけの男に過ぎん。この苦しみはどうしてくれる。眠りの安らぎを奪われたこの俺の」


 怒りのあまり、寝床から飛び起きた。睨みつける。そんな俺を、姫は静かに見つめている。微笑みを浮かべながら。


「たしかに呪いを解く道はあった。――しかし四十年。そう四十年近く闇寝やみね仙宝せんぽうを探し回って、まだ半ばほどしか解けておらん。俺の……俺の苦しみは死ぬまで続くわっ」


 黙って頭に腕を回してきた。


「すまぬと申しておるではないか。そう怒るな。……だからほれ、いつものようにこうして出てきておる。お前を慰めるためにな」


 その体からは、気持ちを和らげ癒す香木こうぼくの香りが漂う。そしてそれはまた、男を誘う匂いにもなる。姫は、俺の頬を優しく撫で始めた。


「お前も老けたのう、陽高よ。皺だらけになりおって。それに身体はまだ張り切っておるが、古傷だらけで痛むだろう。……しかし、わしにはわかっておるぞ。今ここにおるのが、若い頃の陽高と同じ気持ちを抱える男だとな。重き荷を幾重にも背負いながらも、精一杯優しく生きておる。だからこそちぎりを願ったのだ、あのとき」


 姫の力で三十八年の時をさかのぼり、俺達は契約の刹那せつなに戻る。あのとき、俺の前に顕れた木花咲耶姫は、俺を船頭に望んで、代わりにひとつだけ取り決めがあると告げたのだ。


 ――わしをめとれ。木花船長として、お前に世の端々の秘密まで全て見せてやる。ただし夜の安寧あんねいがお前からなくなるが――


 それを聞いて、俺はろくに考えもせずに心を決めた。すでに世に親も家もなく、人に辛く当たられ世をはかなんでいた。名高い神木船の船長ともなれば、全てが変わる。下働きでこき使われるのも、もう終わりだ。これからは船長として大海原を駆け巡り、見た事もない宝を得、褒美で贅沢に暮らすのだ。夜寝るときの安らぎなど、いかほどの値打ちがあろうかと。


 あれから四十年近い。顔もかたちもすっかり変わってしまった俺に、姫はそっと寄り添ってきた。


「呪いに潰され、いずれお前は心が抜ける。それをせいぜい遅くしてやることしか、わしにはできぬが……」


 木花咲耶姫は、衣の紐を解いた。いともたやすく衣は足許に落ち、滑らかな体が顕わになる。両腕を上げ花橘のかづらを外すと、島田が解けて長い髪がすっと落ち、匂いを拡げる。豊かな胸、薄撫子色の乳首が、顔の前に近づいてくる。俺は女神の柔らかな体を抱くと、乳首を口に含んだ。


「泣け。そして心を開け、陽高よ。奥の奥の痛みまで、姫にぶつけてこい」




■注

神衣かむみそ 神々が纏う衣服。かんみそ、かんころもとも

楮布ちょふ 古代布の一種。桑科の植物を原料に用いる

花橘はなたちばな 花の咲いた橘(柑橘類)の枝

かづら 草木で作った髪飾り

島田 日本髪の一種

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