六之二 南蛮河豚

「これは南蛮河豚なんばんふぐではないか」


 俺が呆然と漏らすと、源内が眉を上げ、自慢げに笑った。


「いかにも南蛮河豚だ」

「しかし、かような値の張る魚をこんなにか」

「そうだ。自慢のお宝よ」

「陽高、それはなんだ。うまいのか。見た目は妙だが、それなら試してもいいぞ」


 水樽に手を差し入れようとして、アサルは手を払われて怒られている。


「南蛮河豚は、渡りの魚だ」

「さよう、天渡りの魚だ。粟特の女よ、空を遠くまで渡る魚は色々知られておる」


 源内が引き継ぐ。


「中でも得難く値千金なものが幾つかある。高く渡り過ぎて滅多に捕らえられず、誰もその実をよく知らん、おひょう。こいつは畳二枚ほどもある大魚だ。次に、粉にして飲めば長生きできると噂の、竜宮使りゅうぐうのつかい。反物並に長細く透き通りたる奴で、いつも東向きにしか渡らない不思議の魚だ。他にも幾つかあるが、特に貴重なのが、この南蛮河豚よ。こいつにはふみ書付かきつけを持たせる事ができるのだ」

「書付を……」


 アサルが不思議そうに呟く。


「そうだ。育てた地の土や飼い主の血などを少し水に混ぜれば、その匂いを辿って渡らせられる。異国での調べの実りを書付にし、南蛮河豚に持たせて弟子の元まで渡らせるわけだ。これなら途上儂が死んでも、そこまでの見聞きは残るでな。


 この水には、仙宝せんぽうを粉にして溶かし込んである。清められておるので、河豚は死なん。百はおるで、五年の海渡りとしても月に一、二度は書付を持たせられる算段だな」


 美しい文様を持つ黄色い河豚に、女は目を奪われている。


「それにしても、これだけ揃えるのは難儀であっただろう、源内殿よ」

「船の上では源内と呼べ、天津殿。皆に示しがつかんでな。……儂の支度金は、全てこれに使った。足りない分は書物を売って揃えた。海渡りが楽しみでならん。ああ早く扶桑ふそうなどぶち抜けて、先へと進まぬものか……」


 俺は思わず苦笑いした。


「焦らずともすぐに、嫌というほど異国の海と陸を見るはめになるぞ、来る日も来る日も」

「それもそうですな、天津殿」


 満面、口が裂け広がるような笑みを浮かべた。


「形は妙だが綺麗きれいな魚よ……」


 また手を入れようとして、アサルが手をつねられる。


「手を出すでないぞ、粟特そぐと。少しでも荒れた日には、儂が水樽に固く蓋を閉めるでな」

「わかっておる。なんだ、むきになりおって……」


 つねられた手をさすりながらぼやく。俺はアサルを連れ出した。


「どうした陽高。あの河豚を奪い食べる算段かっ」


 二人っきりになると、アサルが嬉しそうに尋ねてくる。


「……いや違う」


 つくづく食い意地の張った奴だ。呆れ返って顔を見ると、少し赤くなって目を伏せてしまった。


「なに、ちょっと思い付いただけだ」


 小声で言い訳する。


「アサルよ、猫はどうした」

「部屋で寝ておる。仔猫は寝るが仕事だ。なんなら起こしてくるが」

「いや、猫はいい。飯の事だ」

「飯の……」

「そうだ。今日は朝から皆、気が張った。城主相手に気の休まらん船出もした。昼餉ひるげも食っておらん。どうせこのまま朝まで大崎島にもやったままだ。だから早めに飯にして、早く寝る」

「ああ」

「だから煮炊き場で飯を作れ。七人分だ」

「……飯か。その……任せろ」


 なぜか瞳を逸らす。


「どうした。なにか厄介事やっかいごとでも」

「いや、この船の煮炊き場は初めてだから、少し心許こころもとないだけだ……」

「差し支えない。船人は贅沢は言わん。気にせず気を楽に取り組め」

「そうする」


 大崎島など根城ねじろも同じで、飯などは入れさせれば済むだけの話だ。しかし早い内に船の機能、船人の働きを試しておきたい。そのための飯作りだ。


「当面使う芋や青菜あおな、干物や海の藻などは、煮炊き場の脇にわかるように積んである。どれでも使え」

「うん」

「味付けの塩や味噌、ひしおの類も置いてある。好きに用いよ。お前は異国の女だ。味噌や醤はわからんだろうが、なに、味を見てうまいと思うように作れ。支度したくができれば津見彦に命じて甲板に並べさせよ。今宵は外で食べる」

「わかった」


 ようやく俺を見て微笑む。


「任せておけ、陽高よ、神木船木花かみきぶねこのはな船長ふなおさよ。お前のために作るぞ」

「そうか、頼む」


 頭にぽんと手を置いてやると、俺は木花板から甲板へと戻る。そこでは大綿と夜儀が、なにやらはかり事をしていた。


「どうした」

「……おさか。いや夜儀と、今宵、渡し板を外すかどうか論じていた」


 大綿が、腕を組んだまま俺を見る。


「長、積み残した荷の運び込みは、明日も続く。木花用の大きな渡し板を港から正しく船縁の金具に嵌めるのは危ないし、手間も大きい。面倒を考えれば、できればこのまま掛けておきたい。しかし……」

「悪党が忍んで入ってこないか、か」

「そうです」


 夜儀が港を指差した。


「ここは安芸の船人、ど真ん中の根城。そのような間抜けが出るとは考えにくい。しかし考えにくいだけに、備えは疎かになりがち。多くの金銀を積んでおるは、務めの中身を知れば、誰でも考えが及ぶ」


 なぜか楽しそうに、夜儀はにこにこしている。


「泥棒なら、命を懸けても狙いたいでしょうなあ……」


 さすがは鼠小僧次郎吉。泥棒の心持ちは、誰より知っておるのだろう。


「たしかにそうだな、次郎吉」

「夜儀です、長。ならばこそ、根城を敢えて狙う悪党がどこぞより忍び潜んでいないとは限りません……」

「長、どう決める」


 大綿が訊いてきた。


「外そう。たしかに面倒ではあり、掛け外しで怪我や人死にといった災いも起こる。しかしこの波行きでは、特に怠りなく気を配っておきたい」

「よし。そう指図する」


 大綿が、ゆっくりと沖仲仕の棟梁とうりょうに歩み寄っていった。


「夜儀よ、この度の船人達を、お前はどのように考える」

「これは船長ふなおさ……」


 人好きのする笑顔で、夜儀が応じる。


「この夜儀、安芸に居着いてからの写楽は、知らぬ仲ではございません。同じ頃合いに江戸にいたはずなれど、そちらはさっぱり。こちらは日陰者の泥棒暮らしでしたからな」

「写楽をどう思う」

銭金ぜにかねを抜かせば、まず憂いの種にはならぬ男かと。津見彦はほっておけばよろしい。奴隷女はわからぬが、なんとなれば海に落とせば済む。残りの船人は手練てだれだ。此度の船人を総じて判ずれば、まず平気であろうかと存じます。……ただ異国の知らぬ海、牙を向いてくる潮に遭うとどうか。沖渡りの恐ろしい心細さ、今の道行きが正しい向きかすらわからなくなり、思わず右に左にと無闇にかじを切りたくなるあの凄まじさ。それを写楽は知りませぬ。奴の肚がどこまでくくれているか、そこで試されましょうな」


 言う事はたしかに正しい。


「しばし写楽の動きを見ておいてくれ」

瀬戸内せとうちの間は特に、ですな」


 勘の鋭い男が、にやりと笑う。


「いや、それには限らん」


 曖昧に誤魔化し、何気ない顔のまま離れた。そのまま星辰櫓せいしんろに上がり、しばらく素知らぬ顔で、万端見回すような形にしておく。


 瀬戸内の快い香りの風が、鼻をくすぐる。西の空はまだ明るい。西に浮かぶあの陽の下、遥かあそこにあるに違いない波斯まで進まねばならん。たとえどれほど難しき航海であろうと。


 夕の七つを回ったところだ。明るいうちに夕餉ゆうげにしておきたい。見ていると、アサルと津見彦が甲板に出てきて、皿を並べ始めた。いい頃合いだ。初めての煮炊き場を使ったにしては、あの小娘もやるではないか……。どれ、俺も下りていこう。




■注

ひしお 味噌樽に溜まる上澄み。醤油の原型

夕の七つ 十七時、つまり午後五時(季節によって異なる)

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