第六章 女神

六之一 大崎島

 いつも航海の始まりは、なんとも言えない気持ちになる。辺境行きの海渡りが多い木花このはなでは。此度こたびこそ生きて戻れないかもという重苦しさと、おかのどろどろしたまつりごとから離れおのれの力だけで生き死にが決まる海に乗り出してゆく気持ち良さとが交じった。


 長い旅から戻り安芸あきの屋敷で横になると、必ずと言っていいほど酷い夢見となり、うなされる。海でへまをして死んでゆく夢だ。ただでさえ夜は呪いで辛いのに、さらに夢路が悪いのだから、戻った晩は毎度気が重い。


 今、安芸竹原の港にほど近い大崎島に向かう木花の星辰櫓せいしんろで、俺はいつもの憂いにふけっていた。春にしては強い陽射しに汗ばむ頭に、海風が抜けて気持ちいい。この風の匂いだと、今は晴れていても夜の間に雲が出て、明日はしとつく雨になるだろう。なにを考えているのか、隣の大綿も押し黙っている。


 島にはすぐに着いた。目配せすると、大綿と甲板こういたに下りていく。


「よし野郎ども、ひと働きだ」


 大声で大綿ががなる。


「港と話は着いて払いも終わっている。写楽、この海渡りでは、お前がおぎないの係だ。おさおさ怠りなく申し付け、見事に働いてみせよ」

「おうっ」


 写楽が船縁ふなべりに飛び出してゆく。港に接すると、津見彦が港の下働きともやい縄を投げ合い固め、木花このはなを陸に繋ぎ留めた。大きな渡し板が持ち込まれる。大きいのでふらふらしながらも、なんとか港から船縁に掛けられ、金具で固められる。潮が引いているので、まだやりやすいほうだ。


 半刻も掛かってようやく渡し板がしっかりはまると、待ちかねていた沖仲仕おきなかし達が、早速蜜柑や水を運び込んでくる。人足にしても、神木船かみきぶねに乗るのは得難い見聞。しかも波斯はしへと渡る旅だ。神木船に荷を上げ、今宵の酒の自慢にしたいのも道理だ。


 甲板に荷が届き始めると、写楽が口やかましく段取りを決め始めた。


 木花は扶桑の船には珍しく、南蛮船のような甲板を持つ。しかもふた層も。そのため雨風などからの荷の囲いに優れる。代わりに渡し板の垂れ角が高くなるので、沖仲仕にとっては危うさが増す。


 ただ歩むだけでも角度のきつい板が揺れるというのに、重い荷を背負って上らねばならない。怪我も多い。だから瀬戸内せとうちの港には、おおむねね木花用の幅広で長い渡し板が用意されている。


 異国へと進めば、それもないだろう。ときによってはひもで引き上げる事も考えねばならない。内実を知られないよう、異国の人足は長い間甲板に置きたくない。しかし、そのときが来れば止むを得まい。怪しいと感ずる港においては、おぎないを諦める事も増えるだろう。


 ぼんやり今後の波路に思いを巡らせていると、平賀源内が写楽に食って掛かる声が聞こえた。


「こら写楽、その水は渡り魚の水樽みずだる用だ。一番下ではなく、木花板このはないたの荷置き場に置け」

「源内様よ、あそこに並べると煮炊きの水と間違えてしまうが、女が」


 写楽は腕を腰に当てた。


「いいから運ばせろ。粟特そぐとの女には儂から言っておく。第一、渡り魚の水樽は、そこに置いてあるでな」


 閉口したような顔で人足に指図すると、写楽は木花板に水樽を運ばせる。そう言えば今気づいたが、皆、まだ白装束のままだ。死に装束の坊主頭が水で喧嘩していれば世話はない。荷積みに大騒ぎの写楽は後にして、他の皆は船人の衣に着替えさせた。あんずの小袖と枯茶からちゃ四幅袴よのばかまだ。アサルにも一張羅いっちょうらの美しい衣を脱がせ、つましい草色の小袖に替えさせる。


 木花板のさらに下、船腹ふなばらまで下りていくと、まさに写楽が大騒ぎで荷置き場に荷物を並べさせている最中だ。見ているとなかなか道理に合った並べ方で、使う順に取り出すのがやりやすい。


 津見彦が脇に付いており、写楽の言いつけで、細かな場所の塩梅あんばいなど直している。わらべには重そうな樽などひょいと抱えているから、大力おおぢからとの話は正しいのだろう。木花板をぶち抜く窓、さらに上の甲板の窓とも今は開かれており、そこからの明かりを頼りに仕分けが続いている。大雨の日や夜に荷積みの必要あらばもちろん窓を閉じ、灯りを灯して行う習わしだ。


 船腹には、幾つかに分けられた大きな荷置き場の他に、船人の寝床がある。ひとりひとりの寝所はない。舳先へさき側荷置き場の上に広い棚が出ており、そこにわら布団と綿布団を並べて雑魚寝だ。そこでは大綿が夜毎よごと船人の動向に目を光らせて、采配さいはいの頼りとするはず。今は誰もいないが、この航海の船人は数も少なく、寝床は十分な広さを持つ。ここの布団もできれば毎日、干さねばならない。いったん虫が湧くと、退治が面倒だ。後で津見彦に命じておこう。


 寝床は舳先だから、荒れればもっとも揺れる場所。いくら木花が神に加護され揺れは少ないといえど、時によっては人ふたり分ほども上へ下へと動く。慣れない者は、まず夜は眠れまい。


 木花の船人であれば皆平気だが、あまりに荒れる夜は寝床を避け、ともの荷置き場になんとか居場所を作るはず。もっと荒れる夜はもちろん皆、寝るどころの話ではない。帆やかじを操って、船が腹を上に出して沈まないよう命懸けの働きが夜通しだ。


 木花板に上がる。


 木花板には、忍野神社おしのじんじゃ、煮炊き場と飯座敷兼荷置き場、女の部屋と予備の部屋、さらに船頭ふながしらの間が設けられている。煮炊き場の前に、アサルと源内がいた。かたわらの水樽を覗き込んでいる。妙に幅広で、まるで大きな風呂桶のようだ。


「いいか女、これが渡り魚の水樽だ。ここにおる魚は煮炊き用でないぞ。まかり間違っても刺身などにしてもらっては困る」

「このように妙な奴、食べる気はせんから案じるな。……それにしてもこの魚はなんだ」


 口を開けて見つめるアサルの脇から覗き込むと、水樽には蒲公英たんぽぽ色の鮮やかな魚がたくさん泳いでいる。五寸くらいの箱型で、茱萸ぐみの実ほどの黒い斑が総身に入っている。


「これは南蛮河豚なんばんふぐではないか」


 俺が呆然と漏らすと、源内が眉を上げ、自慢げに笑った。




■注

四幅袴よのばかま 膝丈くらいの袴。裾が絞ってあるので動きやすく、人足などが用いた

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