五之三 船出道中

 船出の日。明け六つに寝所を出ると集まった。からっとした好天。まさに船出に相応しい朝だ。調べの補佐役がひとり庭に控えていて城主、小早川宗徳こばやかわむねのりが竹原の港を見下ろす渡り茶屋二階に陣取っていると告げた。船出道中の道行きを、城主の陣取りに応じて少し変える事にする。


 今日はこの後ゆっくり飯を食えるかわからん。なので朝餉あさげは腹持ちのいい献立にして、量も多くした。茶屋に頼んで特別に運ばせた飯だ。力を得るため、皆競うように腹に入れている。好きな菓子がたくさん膳に載っているので、アサルは眼の色を変えている。


 食事が終わると、塩で歯を磨き身を清めさせ、船人を集める。


 いよいよ刻が来た――。


「よし。皆、船出の心支度こころじたくは万端整ったな」


 口々に「おうっ」という頼もしい声が上がった。


「全て脱げ。足元にさらしの反物がある。千切ってふんどしに巻け。……アサル、お前は褌はいらん。脱がんでもいい」


 奴隷がおろおろしているので声を掛けると、皆が笑った。


「奥に行け。万事手はずを頼んである」

「わ、わかった」


 アサルが消える。


 真新しい晒を六尺褌に巻くと、身も魂も洗われるようだ。気持ちが締まる。


「足元の衣を着よ。船出の誂えだ」

「これはこれは……。船出道中が楽しみですなあ」


 着物を持ち上げしげしげと見ながら、夜儀やぎが楽しそうに微笑む。身支度を整えて、アサルが戻ってきた。


「玉依さん……」


 大綿おおわた嫁御よめごに近づくと、礼を述べた。


「支度万端、有難い。これまで渾身に支えてくれ、恩に着る。……そして大綿を遙か海に連れ去る件、すまない。大綿が戻れるよう、全ての力と心得を尽くす」


 俺の目の奥をまっすぐ覗くと、玉依たまえさんは、晴れるような笑顔を浮かべた。


「天津様……。大綿と天津様の友誼ゆうぎは存じております。それに海で死ぬるは船人ふなびとほまれ。まして神木船木花かみきぶねこのはな一世一代の大勝負に乗り合わせてあの世のふちを覗けるとあらば、大綿も幸せでありましょう。海渡りのご武運を、お戻りになるまで神仏にお祈り申し上げておきます。家の皆と共に」

「過分なる心遣い、有難い」

「それにアサルさんの事、大事にしてあげてください。あの娘は強いですが、硬い殻の中の身は、本当に無垢ですよ。天津様が気遣ってやらねば、いずれ壊れましょう。大綿にはその役は無理です。……なんだか娘に思えて、奴隷の身の上が不憫でなりません」


 瞳が濡れている。


「……わかっている。諫言かんげん痛み入る」


 その言葉を心に刻みながら、皆の元に戻る。


「船出の杯を交わす」


 縁側に並ぶ船人達に唐物の白く薄い盃が手渡され、木花神社で満願成就の祈祷を受けた天舐あまのたむけが注がれる。アサルと津見彦は甘酒だ。


 固い顔つきで、皆が盃を持っている。夜儀やぎでさえ笑ってはいない。


神木船木花船長天津陽高かみきぶね このはな ふなおさ あまつひだか此度こたびの海渡り成就ご加護を、木花咲耶姫このはなさくやのひめと八百万の神々に願い奉る」


 願いを込め、盃を高く突き上げた。船人も続いて天に盃を掲げ、言葉なく祈っている。……静かだ。海から山に渡る風の音だけが聞こえてくる。


「盃を空けよっ」


 かちどきの声を上げ、一斉にぐっと飲み下す。飲み終わった盃を縁側に叩き付け、ぶち割る。盃の割れる高い音が、静かな屋敷に木霊こだまする。


 俺の船人の顔を見渡す。大綿、アサル、夜儀、源内、写楽、津見彦、そして俺。この七人を生きて帰す。


「では皆で、ちょいと波斯はしまで散歩に出掛けるとするか」

「いよーおっ」


 俺のひと言をきっかけに、庭に控えていた楽師連が掛け声を掛け、調子を整えて歌舞音曲かぶおんきょくを奏で始める。安芸あきの船人が旅立ち、多くの艱難辛苦かんなんしんくを乗り越え竜宮のお宝を得て戻るうたい。安芸の男、いや女でも誰もが心震える、船出の唄だ。


 庭に下りると列を整えさせ、静々と進み始める。誰かが門を大きく開くと、俺達は港に向かい歩き出した。


 すでに道々には人が集まっており、船人の姿を見て仰天している。だがまだだ。まだ勝負どころではない。大綿の屋敷を出立の場に選んだのは、家人がいて手配に利があるからもあるが、真の狙いは、港に進む折に、安芸竹原一の通りを抜けるからだ。


 そこには、竹原のみならず安芸のそこここから船人や町人、百姓などが集い、神木船木花の船出を一目見ん、城主小早川宗徳の姿を一目見んと右往左往しているに違いない。


 ゆっくりと進み、いよいよ一番の通りに曲がり出た。角を曲がると、白っ茶け埃舞う大通りの両の端、店先や路地のそこここに、人が鈴なりになっている。凄い人出。まるで正月参りの木花神社のようだ。俺達の姿が見えると、大きなどよめきが人々から立ち上がった。


「見ろ。皆が覚悟の白装束だっ」

「死に装束じゃ」

「あの洒落者の夜儀様まで、坊主になっておる」

「そこな異国女を見よ。鮮やかな着物に猫を抱いておるぞ」


 地鳴りのような、尋常ならざる響きだ。


 道中の並びは、全て抜かりなく考えて決めたものだ。頭にアサルと大綿。大男と小娘の組み合わせが皆の目を見張らせる。次が夜儀こと鼠小僧次郎吉と、平賀源内。安芸にそれぞれ名立たるふたり。そして写楽と津見彦。殿しんがりが俺だ。


 短髪にしたアサル以外は皆、頭を丸めさせ、白い絹の経帷子きょうかたびらを着せている。帷子には、瑠雲るうん文字で仙術の真言しんごんを書き連ねてある。


 白装束にしたのは、死を賭して辺境へと船出する俺達の覚悟もあるが、城主と集まった民に「命懸けの旅」を際立たせるためだ。その働きを狙っている。それほど厳しい務めである事を訴え、報奨手形にふさわしいと思わせなくてはならない。頭を丸めたのもその目論見と、あとは蚤虱のみしらみを当面防ぐためだ。


 アサルには、例の牡丹色ぼたんいろ花喰鳥柄小袖はなくいどりがらこそでを着せてある。船出のとき海で目立つようにと考えての事だ。そして仲良くなった例の白い仔猫を抱かせてある。白猫だから牡丹色によく映えるし、アサルの白い肌にも合う。


 猫については、随分考えた末、木花に乗せる事にした。玉依さんに言われるまでもなく、俺は航海のとき、特に女に気を配る。女をうまく使えなくて狙いが成就できなかった船をたくさん見聞きしてきたし、自らしくじった事も何度かあるからだ。


 この長旅で一番魂が寂しく気が伏せるのはアサルだ。奴隷の務めからして、それははっきりしている。猫が奴隷を癒せれば、それは皆にとって得な話だ。餌は食べ残しの骨や魚の頭で済む。どこぞの港でねずみなど紛れ込めば、それも探して獲るので益がある。厳しい沖渡りでいよいよ蓄えが尽きれば、猫を煮て食べてもよい。


 船人の後ろには、船出の曲を流し謡い、さらに舞い踊る楽師がぞろぞろと続く。アサルと大綿の前には、夜儀の組の傾奇者かぶきものが四人、判じ物柄の派手な着物を着て、舞い踊るような体で雅やかに歩いている。うち頭のふたりは、書付かきつけの束を持っている。続くふたりは、黒く艶めくうるし仕上げの大籠おおかごを背負っている。


 派手な着物に漆黒の大籠、それに続く真紅の小袖に死に装束ども――。鮮やかな道中が歌舞音曲の粘るような拍子ひょうし韻律いんりつに乗り、うねるように進んで行く。


 集った男や女がその艶やかさにぼうとする。それを見て取ると、傾奇者は書付を左や右に広く放り投げ始めた。この海渡りの本懐ほんかいと、城主小早川宗徳が約束した報奨手形の中身を全て書き連ね、木花神社にて開運祈願を受けた神撰米しんせんまいをひとつまみ、袋に入れてくくりりつけてある。全て撒き終わると、後ろに控える男の黒籠からまた書付を取り出して続ける。


 人々は争うように紙を拾い、字を読める者が声に出してまわりに説き始めた。




■注

さらし 漂白した木綿布

六尺褌 晒の反物を六尺(約百八十センチ)で千切って腰に巻き、褌(下着)としたもの

諫言かんげん 諌める言葉。忠告

経帷子きょうかたびら 仏教の経文をびっしり書き連ねた帷子(ひとえの着物)

瑠雲るうん文字 古代ゲルマン人が用いていた文字

真言しんごん 密教で真理を表す秘密の呪文。マントラ

判じ物 文字や絵図で作った謎解き。洒落や皮肉などの図柄が多い

韻律いんりつ 今風に言えばグルーヴ

本懐ほんかい 本来の願い

神撰米しんせんまい 神々に献上する神聖な米

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