五之二 前夜
いよいよ船出の前の日となった。
まだ雑事が幾らでも湧いてくる。それも取り掛かりの物だけでなく、今から始まるものすら。俺が大汗で指図していると、三々五々と
着いた船人にはすぐに補佐役達が取り付き、手はずや段取りを打ち合わせ始める。旅立ちに向けた最後の
あまりの騒ぎに恐れをなして、猫は縁の下に逃げ込んでしまい顔を出さない。アサルが寂しそうに猫を探している。
忙しい最中、アサルを呼ぶと、
「よいか、アサル」
俺は奴隷の手を持ってさすってやる。
「長き海渡りでは、体を清らかにする事が要。だからお前の髪も短く刈る。
「わかっておる。負い目を抱くな、陽高よ」
手を与えながら、アサルは俺を嬉しそうに見ている。
「アサル、それにすぐ髪は伸びる。今でこそ短くするが、そのあとは切る潮時も、なかなかないだろう。だからあらかた伸びたままの形が多くなるはずだ」
「陽高は、私の髪が好きなのか。長くした髪が」
俺は頷いた。
「そうであれば、あっという間に伸びるぞ。私の髪はすぐこのように伸びて、お前を誘うだろう」
切り落とされた髪の束を掴むと、楽しげに俺に突き出す。緑色の瞳が輝いている。
「楽しみにしている」
「任せろ、主様よ」
俺の手を握ってきた。
●
前夜から寝る間もなく多くの案と事柄を
大綿と相談し、昼八つに、もう用は差し止めにした。積み残しの用筋は、船出の後、
寺の鐘が夕七つを打つと、揃った船人を広間に並べ、立って向き合った。言いくるめの頃合いだ。今はもう七人の船人の他は、源内の弟子だの夜儀の連れの傾奇者だのの、それぞれの
「これから
声を張ると、源内、夜儀、写楽、アサル、津見彦、皆が俺をまっすぐに見つめた。大綿は俺の右に控えている。補佐役どもも皆緊張した面持ちで、そこここに立っていた。
「この海渡りは、
そこまで告げると、しばらく黙り顔を見渡す。明日からの長い船旅をなんとしても
「お務めの細かな顛末は皆知っているな」
皆が首を縦に振る。
「俺達は、宗徳様の御用で
沖渡りの恐ろしさを知る夜儀や源内が、唇を引き締めている。
「いいか、俺は皆を必ず生きて
俺は一度言葉を切った。
「津見彦、知っておるか」
問い掛けると、難しそうな顔をする。
「知りません、頭。……もしかしたら飯ですかっ」
船人も補佐役も、皆がどっと笑った。
「そうだ津見彦。皆は笑ったが、一番大事なのは食べる事。それに間違いはない。食べなくては生き残れない、生き残れなくては御用も果たせん。いいな。もうひとつ忘れてはならぬのは、体を清らかに保つ事だ」
もう一度、皆の顔を睨んだ。
「馬鹿にしてはならぬ。これが最も大事だ。足が腐れれば、必ず死ぬ。足を
ひと息置いて、大綿に渡す。
「大綿」
「いいかお前ら、
六尺三寸の大男が、肚の底から大音声を張り上げた。
「荒れた日以外、必ず足を洗え。寝る前だ。無理ならいつでもよい。体も同じく、なるだけ水浴びせよ。津見彦、お前は海の流れを
「わかりました大綿様っ」
精一杯の声で、津見彦も応ずる。
「五日に一度は真水の湯を置くので、順に湯浴みせよ。そのとき、髪も灰で洗え。……まあしばらくは、髪を洗う事もなかろうが」
大綿がにやりと顔を崩すと、皆が大笑いした。
「雨が降れば、甲板に出て存分に体を流せ。毎日でもかまわん。アサルは別だ。お前は毎夜、煮炊き場にて真水で湯浴みせよ。雨が降っても外にて洗うは禁ずる。皆、体に怪我を負わば、たとえどんな小さな擦り傷でも必ず源内殿に報らせ、沙汰を仰げ。いいなっ」
顔をひと通り見渡すと、続ける。
「問いはあるか」
大綿の問い掛けに、津見彦が手を上げた。
「大綿様、俺わからね。それだと普段暮らしのときより風呂に入る事になる」
また皆が沸く。
「それでいいのだ津見彦よ」
下働きの小僧に、大綿は笑い掛けている。
「いいな。生きて戻りたければ、絶対にこれを守れ。……源内殿、伝え漏れはあるか」
「おう」
源内が鷲鼻の顔を上げた。
「足粉をたんと持ち参じた。水や虫でふやけたら、儂に言え。やるので足に摺り込んで乾かせ。足を腐れさせたくなければな。あと、
「他に問いはあるか」
船人を見回すと、大綿が俺に振る。
「船長」
「うむ」
皆の顔を見た。
「明日の船出は、全て手はず通りに進める。間違えるな。木花を操るのが初めての者だけでなく、乗った事がある者も、皆久方振りの神木船となる。したがって船出の後は足遅く、船の操り扱いを習い思い出しながら、瀬戸内をゆっくり流す。半ばの速さだ。その間に皆で息を合わする事を、
緊張した顔で、写楽が俺の目を見て返事を返した。
「船出の盃は、明日は一杯だけだ。これから誓いの杯をする。今宵は飲んでもよい。しかし酷く酔わないほどまでだ。朝に酒が残りし者には、五日の間、津見彦と共に下働きを命ずる」
津見彦が手を上げた。
「頭、俺が飲み過ぎたら、下働きはどうする」
笑いが巻き起こった。
「津見彦よ、お前には飲まさん。まだ童ではないか。甘酒をやるが、酔いはすまい。……アサル、お前も甘酒だ」
「甘いのか。それは楽しみだ」
嬉しそうなアサルの声を受け、俺達は誓いの盃を交わした。皆の顔が語っていた。務めを果たす。そして必ず生きて戻ると。
■注
夕七つ 現在の十六時頃、つまり午後四時頃
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