五之二 前夜

 いよいよ船出の前の日となった。


 まだ雑事が幾らでも湧いてくる。それも取り掛かりの物だけでなく、今から始まるものすら。俺が大汗で指図していると、三々五々と船人ふなびとも屋敷に到着し、にぎやかに久方話ひさかたばなしを始め出した。


 着いた船人にはすぐに補佐役達が取り付き、手はずや段取りを打ち合わせ始める。旅立ちに向けた最後の塩梅あんばい合わせが始まったので、船人を取り囲んで支度したくさせる者、荷を検分する者、さらには用で出入りする人の波で、大綿の大広間と庭は大騒ぎになっている。


 あまりの騒ぎに恐れをなして、猫は縁の下に逃げ込んでしまい顔を出さない。アサルが寂しそうに猫を探している。


 忙しい最中、アサルを呼ぶと、玉依たまえさんに頼み、髪を切らせた。ほおずきのように布を被せた女の背後に回り、大綿の嫁御は鋏を使い出す。


「よいか、アサル」


 俺は奴隷の手を持ってさすってやる。


「長き海渡りでは、体を清らかにする事が要。だからお前の髪も短く刈る。しらみのみが湧かんようにな。……なに、坊主にはしない。猫のように短くするだけだ」

「わかっておる。負い目を抱くな、陽高よ」


 手を与えながら、アサルは俺を嬉しそうに見ている。


「アサル、それにすぐ髪は伸びる。今でこそ短くするが、そのあとは切る潮時も、なかなかないだろう。だからあらかた伸びたままの形が多くなるはずだ」

「陽高は、私の髪が好きなのか。長くした髪が」


 俺は頷いた。


「そうであれば、あっという間に伸びるぞ。私の髪はすぐこのように伸びて、お前を誘うだろう」


 切り落とされた髪の束を掴むと、楽しげに俺に突き出す。緑色の瞳が輝いている。


「楽しみにしている」

「任せろ、主様よ」


 俺の手を握ってきた。


         ●


 前夜から寝る間もなく多くの案と事柄をさばき続け、俺もくたびれ果てた。しかしやるしかない。目につく端から取り決めてゆく。目が回るような差配さはいが続いた――。それでも明日までの限られたとき、いつかは区切りを付けねばならない。


 大綿と相談し、昼八つに、もう用は差し止めにした。積み残しの用筋は、船出の後、瀬戸内せとうちの津々浦々でゆっくりと解決する。人々が次第に屋敷を辞していく。


 寺の鐘が夕七つを打つと、揃った船人を広間に並べ、立って向き合った。言いくるめの頃合いだ。今はもう七人の船人の他は、源内の弟子だの夜儀の連れの傾奇者だのの、それぞれの係累けいるいと補佐役とが残っているだけとなっている。


「これから此度こたび海渡りの心得を申し伝える」


 声を張ると、源内、夜儀、写楽、アサル、津見彦、皆が俺をまっすぐに見つめた。大綿は俺の右に控えている。補佐役どもも皆緊張した面持ちで、そこここに立っていた。


「この海渡りは、安芸あきの次代をにな大事だいじ波路なみじとなる。ご城主、小早川宗徳こばやかわむねのり様から直々じきじきのご下命を受けたもので、俺の長い辺境船頭としての務めでも、最も遠く、しかも重き旅だ」


 そこまで告げると、しばらく黙り顔を見渡す。明日からの長い船旅をなんとしても成就じょうじゅに導こうという気概に溢れた顔が、口上を待っている。


「お務めの細かな顛末は皆知っているな」


 皆が首を縦に振る。


「俺達は、宗徳様の御用で波斯はしく。そして神木かみき蘇りの儀式でにえとなるべき豊穣の生娘を得て戻ってくる。長く、難しい海渡りとなるは必然。行方さえ見通せぬ海での長く厳しい沖渡りすら、間違いなくあるだろう。心をひとつに全ての力を使わなば、乗り切れまい」


 沖渡りの恐ろしさを知る夜儀や源内が、唇を引き締めている。


「いいか、俺は皆を必ず生きて扶桑ふそうは安芸まで戻してみせる。もちろん宗徳様のお務めを果たしてな。……生きて戻るのに一番の大事を知っているか」


 俺は一度言葉を切った。


「津見彦、知っておるか」


 問い掛けると、難しそうな顔をする。


「知りません、頭。……もしかしたら飯ですかっ」


 船人も補佐役も、皆がどっと笑った。


「そうだ津見彦。皆は笑ったが、一番大事なのは食べる事。それに間違いはない。食べなくては生き残れない、生き残れなくては御用も果たせん。いいな。もうひとつ忘れてはならぬのは、体を清らかに保つ事だ」


 もう一度、皆の顔を睨んだ。


「馬鹿にしてはならぬ。これが最も大事だ。足が腐れれば、必ず死ぬ。足をおろそかにするな。ただでさえ船の長旅では足が衰える。この海渡りは、ひとり死なば皆が危うくなる。ひとりも死ぬな。そう命ずる。いいか、我が身を日々清らかにする事に、皆の命が懸かっている。それを努々ゆめゆめ忘れてはならぬ」


 ひと息置いて、大綿に渡す。


「大綿」

「いいかお前ら、船長ふなおさの言った通りだ。一度しか言わんから、よく聞けっ」


 六尺三寸の大男が、肚の底から大音声を張り上げた。


「荒れた日以外、必ず足を洗え。寝る前だ。無理ならいつでもよい。体も同じく、なるだけ水浴びせよ。津見彦、お前は海の流れをんで甲板こういたに置け。それを使う」

「わかりました大綿様っ」


 精一杯の声で、津見彦も応ずる。


「五日に一度は真水の湯を置くので、順に湯浴みせよ。そのとき、髪も灰で洗え。……まあしばらくは、髪を洗う事もなかろうが」


 大綿がにやりと顔を崩すと、皆が大笑いした。


「雨が降れば、甲板に出て存分に体を流せ。毎日でもかまわん。アサルは別だ。お前は毎夜、煮炊き場にて真水で湯浴みせよ。雨が降っても外にて洗うは禁ずる。皆、体に怪我を負わば、たとえどんな小さな擦り傷でも必ず源内殿に報らせ、沙汰を仰げ。いいなっ」


 顔をひと通り見渡すと、続ける。


「問いはあるか」


 大綿の問い掛けに、津見彦が手を上げた。


「大綿様、俺わからね。それだと普段暮らしのときより風呂に入る事になる」


 また皆が沸く。


「それでいいのだ津見彦よ」


 下働きの小僧に、大綿は笑い掛けている。


「いいな。生きて戻りたければ、絶対にこれを守れ。……源内殿、伝え漏れはあるか」

「おう」


 源内が鷲鼻の顔を上げた。


「足粉をたんと持ち参じた。水や虫でふやけたら、儂に言え。やるので足に摺り込んで乾かせ。足を腐れさせたくなければな。あと、春蜜柑はるみかんを山のように積んでおる。長き沖渡りでは、血の病で死ぬる者が一番多いと、南蛮なんばん亜瑠禰策音撰あるねさくねせんの書付にある。戦よりもな。蜜柑を日にひとつ、必ず食え。沖乗りでが尽きれば、塩漬け菜を食う。蜜柑も塩漬け菜も、血の病を防ぐ。食べ終わった皮は儂に寄こせ。それは別に使う」

「他に問いはあるか」


 船人を見回すと、大綿が俺に振る。


「船長」

「うむ」


 皆の顔を見た。


「明日の船出は、全て手はず通りに進める。間違えるな。木花を操るのが初めての者だけでなく、乗った事がある者も、皆久方振りの神木船となる。したがって船出の後は足遅く、船の操り扱いを習い思い出しながら、瀬戸内をゆっくり流す。半ばの速さだ。その間に皆で息を合わする事を、おのが身に叩き込むのだ。まず目の前の大崎島おおさきじまに渡り、稽古けいこ方々、船出に間に合わなかったあれこれを船積みする。蜜柑と干物と水だ。水補いは最も大事だいじで怪我もするので、決して手を抜くな。わかったな、写楽」


 緊張した顔で、写楽が俺の目を見て返事を返した。


「船出の盃は、明日は一杯だけだ。これから誓いの杯をする。今宵は飲んでもよい。しかし酷く酔わないほどまでだ。朝に酒が残りし者には、五日の間、津見彦と共に下働きを命ずる」


 津見彦が手を上げた。


「頭、俺が飲み過ぎたら、下働きはどうする」


 笑いが巻き起こった。


「津見彦よ、お前には飲まさん。まだ童ではないか。甘酒をやるが、酔いはすまい。……アサル、お前も甘酒だ」

「甘いのか。それは楽しみだ」


 嬉しそうなアサルの声を受け、俺達は誓いの盃を交わした。皆の顔が語っていた。務めを果たす。そして必ず生きて戻ると。




■注

夕七つ 現在の十六時頃、つまり午後四時頃

亜瑠禰策音撰あるねさくねせん ジュール・ヴェルヌ「地底旅行」で言及される、欧州中世の地底旅行先行者。どうやら実在していたようだ

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