四之三 東洲斎写楽
「これは
俺と
「写楽だな。まず聞いておきたいことがある。お前は江戸でなにをしていた。江戸におった頃、お前はまだ餓鬼だったはず」
「はい天津様。地面に絵図を描いているところを面白がられ、ただ同然で差配師に買われ連れて行かれました。そこではいろいろ人の顔など描いていましたが、一両どころかビタ一文ももらえずに、押し込められた土蔵暮らし」
理不尽を思い出したのか、悔しそうに顔を歪めた。
「半年で逃げて
「船の暮らしはどうだった」
「はい。
船の上では、
それに俺とは全く違う。俺は同じような歳で神木船の
どうにもぺらぺらと舌回りがいいのが
「写楽。お前は木花に乗りたいとか」
「はい。遥かに遠い波路のお務め、噂で聞いております。なんでも
「その通りよ。生涯安らかに暮らせるだけの金が手に入る。女もいくらでも囲えるだろう。……ただし、それは万事本懐を遂げ、安芸竹原まで戻って来られればの話だ。
頭を下げたまま、男は俺の話を聞いている。
「海渡りも、五年と長い」
大綿が告げた。
「その間、
頭を起こした写楽は、俺達を精一杯見つめている。
「大綿の言うは
「写楽よ、若い
「はい。私は異国まで沖乗りした試しはなく、わかりません」
若い男は、俺に向き直った。
「ただ、この写楽、貰える銭以上に働き船頭様に儲けていただくのが、これまでの所存。この旅も堪えに堪え必ずや生涯分の
まっすぐ俺の目を見ている。
……この男なら、存分に働いてくれるやもしれん。ただ源内や夜儀とは異なり、同じ釜の飯を食ってはいないので、まだ本性がわからん。さらばしばらく怠りなく心根を窺っておかねばならない。
「ではよろしく頼む、写楽よ」
「あ、有難き幸せにてございます」
また頭を下げた。
「礼には及ばん。俺はお前の命を
「はい。仰せの通りに、
俺と写楽の顔をじっと見比べていた大綿が告げる。
「写楽よ。お前は、安芸の次の世のために海渡りするのだ。大勢の明日が懸かっておる。それを忘るるな」
「はい、大綿様」
「船出の前の日、昼過ぎの八つまでに、身ひとつと手間物だけ持ちて来い。その晩はここに泊まり、次の日に旅立ちだ」
「わかりました。何事も仰せの通りに……」
神妙な顔で、写楽は頭を下げ続けていた。
★次話から新章。陽高と木花がいよいよ、船出の朝を迎える。しかし……。
■注
八つ 十四時、つまり午後二時くらい(季節によって異なる)。3時の「おやつ」というのはここから来ている。
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