四之三 東洲斎写楽

 写楽しゃらくは、まだ二十にもなっていない男だった。荒い岩を幾つかくっつけたかのような顔で、もう少し目鼻立ちが整ってさえいれば、いい男になれたはずだ。鋭い目が飢えて輝いており、擦り切れた袖から覗く腕はざらざらだ。


「これは神木船木花かみきぶね このはな船頭ふながしら天津あまつ様ですね。ご活躍はかねがね……。お会いできただけでほまれ。写楽と言います」


 俺と大綿おおわたに頭を下げる。アサルは奥の間に引っ込めて、子らと遊ばせている。


「写楽だな。まず聞いておきたいことがある。お前は江戸でなにをしていた。江戸におった頃、お前はまだ餓鬼だったはず」

「はい天津様。地面に絵図を描いているところを面白がられ、ただ同然で差配師に買われ連れて行かれました。そこではいろいろ人の顔など描いていましたが、一両どころかビタ一文ももらえずに、押し込められた土蔵暮らし」


 理不尽を思い出したのか、悔しそうに顔を歪めた。


「半年で逃げて廻船かいせんに乗り込み、流れ歩いてきました」

「船の暮らしはどうだった」

「はい。おかとは違い、みな優しくて性に合っていました」


 船の上では、いさかいを起こせばふかの餌にされることもある。寝ているところを簀巻きにされて海に放り込まれれば、成すすべもない。裏はともかく表が優しいのは、よくある話だ。人心ひとごころの裏まで考えが及んでいないのは、若さ故だろう。


 それに俺とは全く違う。俺は同じような歳で神木船の船長ふなおさにさせられ、裏のある船人ふなびとに睨まれながら艱難辛苦かんなんしんくを味わった。正直、写楽の気楽な暮らしがうらやましい。


 どうにもぺらぺらと舌回りがいいのが剣呑けんのんではある。江戸や廻船での暮らしが本当かはわからん。人誰しも話したくないこともあるから、なんとも言えんが……。


「写楽。お前は木花に乗りたいとか」

「はい。遥かに遠い波路のお務め、噂で聞いております。なんでも宗徳むねのり様の御用にて、過分な褒美を頂けるとか」

「その通りよ。生涯安らかに暮らせるだけの金が手に入る。女もいくらでも囲えるだろう。……ただし、それは万事本懐を遂げ、安芸竹原まで戻って来られればの話だ。波斯はしで女を見い出し、弱い女を無傷で扶桑ふそうまで連れ帰る。知らぬ海を進む往きだけでなく、帰りの波路もかなりの厄介やっかいとなるはずだ」


 頭を下げたまま、男は俺の話を聞いている。


「海渡りも、五年と長い」


 大綿が告げた。


「その間、ろくなものは食えんし、楽しみもない。酒など正月くらいしか飲めんだろう。もちろん銭ももらえん。船人に支度金は出るが、お前の分は褒美のときに合わせて渡す」


 頭を起こした写楽は、俺達を精一杯見つめている。


「大綿の言うはまことだ、写楽よ。代わりに皆が仲良く、弱った船人を助け協力しながら帰って来さえすれば、極楽浄土が待っている」

「写楽よ、若い身空みそらで、そのようなこらえ旅が、お前にはできようか」

「はい。私は異国まで沖乗りした試しはなく、わかりません」


 若い男は、俺に向き直った。


「ただ、この写楽、貰える銭以上に働き船頭様に儲けていただくのが、これまでの所存。この旅も堪えに堪え必ずや生涯分の金子きんすを超える働きをし、お役に立ちましょうぞ」


 まっすぐ俺の目を見ている。


 ……この男なら、存分に働いてくれるやもしれん。ただ源内や夜儀とは異なり、同じ釜の飯を食ってはいないので、まだ本性がわからん。さらばしばらく怠りなく心根を窺っておかねばならない。


「ではよろしく頼む、写楽よ」

「あ、有難き幸せにてございます」


 また頭を下げた。


「礼には及ばん。俺はお前の命をもらい受けたのだ。――それより旅立ちは三魚の日、もう遠くはない。直ぐに万端備えよ。先ほど大綿が申しつけたように、お前の支度金はない。どうせ独り身だ。道具や鍋釜まで全て手放し、その銭で支度しろ。なにも惜しむものなどない。戻れば幾らでも金はある」

「はい。仰せの通りに、かしら


 俺と写楽の顔をじっと見比べていた大綿が告げる。


「写楽よ。お前は、安芸の次の世のために海渡りするのだ。大勢の明日が懸かっておる。それを忘るるな」

「はい、大綿様」

「船出の前の日、昼過ぎの八つまでに、身ひとつと手間物だけ持ちて来い。その晩はここに泊まり、次の日に旅立ちだ」

「わかりました。何事も仰せの通りに……」


 神妙な顔で、写楽は頭を下げ続けていた。



★次話から新章。陽高と木花がいよいよ、船出の朝を迎える。しかし……。


■注

八つ 十四時、つまり午後二時くらい(季節によって異なる)。3時の「おやつ」というのはここから来ている。




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