四之二 吝嗇
いよいよ船出が近づき、とても忙しくなった。連日、
俺達の道のりは危うい。無事、
遅くまで大綿の屋敷で事を
大綿と談義を持つときは、
船出が間近に迫ったある夜、大綿が俺に告げた。
「
腕を袖に入れ、襟から出して顎をさすっている。すっかり仲良くなった猫を胡座を組んだ腿の上に置き、アサルはじっと俺達の話を聞いている。猫は金の瞳で、俺達を見やっている。
「船人に……。ときどき舞い込む、金と誉れ目当ての、なにも知らぬ馬鹿ではないのか」
「まあ有り体に言えばその類なのだが、ちと引っ掛かる」
「話を聞こう」
大綿は、
「この
「聞いた事がないな」
「安芸を空けがちなお前が知らぬのも無理はない。ここのところ、安芸の船人として知られるようになった若造だ」
また酒を飲んだ。
「どこぞから流れてきた。元は親なし子だ。生まれ故郷で港の漁師が毎朝投げてやる施しの小魚を齧り、野良犬のように港をうろついて生きてきたらしい。あるとき、人買いに買われて江戸に送られたという。そこで何をやっていたかは知らんが、いつの間にやら竹原に吹き溜まっていた」
「どんな力がある」
「ものの本質をしっかり見つめる力がある。絵図を描くのも上手いが、それもものの
「そんな奴が、なんでこれまで船人見込みに挙がらなかった」
「銭金に汚い」
そう言い切るとまた一口酒を放り込み、梅の漬物を口にする。
「誰よりも銭金を願い、わずかでも多く得ようとする。皆で出し合って酒を飲むときにも渋るので、嫌う船人も多い。流れ歩いておるのも、それが元だろう」
「なるほど。銭金はどう使っている。
「知らん。
「女を囲っているなら、長旅は求めんだろう」
「そこはわからん。いずれにしろこちらから誘うとつけあがって求めが増えるだろうから、ずっと放っておいた。しかし奴から申し出たとなると、乗ってもいいかもしれん」
「大綿は、なぜ考えを変えた」
「向こうが求めるのだから、無理は言えないはず。それに考えてもみろ、陽高。銭金に汚いといっても、この船旅は五年。扶桑の銭など、使う場所もない」
「しかも銭金が入るのは、支度金の百両と、あとは扶桑に戻ってからの話となるからな」
「そうだ。ならその弱みは、この航海に限っては気にしなくてよい。若い
「そうか……」
しばらく考えてみた。人は欲しい。すでに
猪口に注いだ酒を、俺も口に運ぶ。
「支度金が揉め事の種だな、大綿」
「俺もそう思う。なにしろ迷惑を掛ける
「船出当日、人垣に囲まれるまで、支度金を渡さねばよい。そこで渡せば、いくらなんでも逃げはできまい」
「それに扶桑を離れるまでは、特に注意して見ておかねばならんだろう。なにしろ泳ぎがすこぶる達者と聞く」
「ならば支度金は、両替屋に預け
「褒美と一緒がいいだろう。なに向こうから来た話だ。嫌なら断ると返せば、乗ってくるだろう。もし乗って来なかったとしたら、それはもう、はなから俺達を
「そうだな」
「私はこの男が使えると思う」
アサルが口を挟んできた。
「……なぜそう思う、アサルよ」
猫を抱く異国の小娘を、大綿が睨む。
「その男は、童の頃、寂しく寒く、苦労したはずだ。たったひとりで港をうろついていたのだからな」
「それで」
「その折、悪に染まらなかった点は重い。街をうろつく小僧には、悪の誘いが多いものよ。私の故国でも良く聞く。それを跳ね除け、一本、筋を通して生きてきたのだ。
「……なるほど。
孤児として街を這いずる暮らしを思い浮かべた。それは俺にも覚えがある。日々、どれほど辛く、また切なかったことか。
「明日会って決めよう。
「もちろんだ」
アサルが嬉しそうな顔になる。
「わかった。俺の船人に手配させよう。それに今晩の事は、すでに奥が用意を全て進めているはず。アサルはまた子らと一緒に眠るが良い」
「猫も寝所に連れていいか」
「いつも勝手に寝床に抱き込んでおるではないか。なにを今更」
「そうであったか。それにうまい飯も頼む。
「……この奴隷、お前が言うべき事を、全て先んじてしまうのう。
からかうように目尻を上げる。
「良い。女は尻に敷かれるに限る。それが一家繁栄の基。それは船も同じであろう」
「さにあらん」
俺達の笑い声は、夜空に吸い込まれていった。もう時間がない。なんとしても船出を成功させねばならない。
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