第三章 鼠小僧次郎吉
三之一 鼠小僧次郎吉、遊郭で面通し
支度も進んだある日、俺とアサルは、港にほど近い
「天津様、お成りでござーいーっ」
大声で奥に叫ぶと、「へーいーっ」と調べを整えた低い声が、そこここから聞こえてくる。履物を脱ぐと、ふたりで上がった。
「陽高、ここは
頷いてやると、物珍しそうに見回している。
「存外、
「お前を請けた値の三倍はする。とても買ってやる事はできん」
俺の手を取ると、階段を登り始めた。
「そうなのか。この階段もぴかぴかに磨かれているではないか」
知らない世を見て、楽しそうだ。俺の暗い屋敷と、やたらと値定めされる大綿の屋敷ばかり見ていてはな……。
「表だけ見ているからだ。裏は酷い」
「まあ、そうであろうなあ……」
「アサル、お前の故国には、女郎屋はないのか」
「知らん。あるとは思うが、見せてもらえるはずもなし」
「そうだろう。小娘が女郎屋の門を潜るのは、売られに来たときだけだ」
「私は、ここに入るかもしれなかったのだな」
なにかを測るかのように壁に手を置いて、あっさり言う。
「いや。あのまま大黑屋におれば、お前には推し量りもつかないほど底の店に卸されただろう」
「……そうか。柵に多くの女が入れられていた。皆、無事であろうか」
アサルは眉を寄せた。
通された座敷で、昼の軽い膳と酒、茶が供された。
「なんだこの飯、見た事がないほど綺麗に並べられているではないか」
おぼつかない手で箸を取り、頼んだ
「うまい。これが
顔をほころばせて、余計なひと言を口にする。漁師飯に奴隷屋、さらに俺の屋敷の乾物ばかりでは、そう思うのも無理はない。無我夢中といった趣であっという間に平らげると、おずおずと上目遣いに俺の膳にまでちょくちょく手を伸ばす。なにも言わないでいると、ついには膳ごと引き寄せてがつがつ食い始めた。
「これはこれは、どこの野良猫である事か」
襖を開け立ったまま俺達を見下ろし悦に入っているのは、
「どれ、噂の
俺達の向かいにどっかと座ると、アサルを観察し始めた。目を細めた邪気のない笑顔で、誰もが心を開いてしまう。線の細い色男面だが、細い目は離れて少しだけ間抜け顔になっており、その分、人を安心させる穏やかさがある。
歳は俺より随分離れていて、三十にまだなっていないはず。なにせ大泥棒として名を馳せたのは、数えで十とかの頃だ。
「ふむ、なかなかいい女だ。綺麗な瞳をしている。お前、名はなんと言う」
「アサルだ……」
「そうか、アサルか……。良い名だ。私の事は、夜儀と呼べ」
あっと思う間もなく手を取って、頬にすり寄せる。アサルが慌てて引っ込める。
ようやく俺に瞳を移すと、夜儀は言った。
「
両手を着いて深々と頭を下げる。横に置かれた
「次郎吉よ、まさか
「天津様、その名はとうに捨てております」
苦笑いしている。
「夜儀とお呼び下さい」
この女郎屋は、夜儀の拠りどころだ。仕事で上手く立ち回って金を掴むと、遊郭で
「いえ行灯部屋もなかなか乙なもので……。ところでお
目を細めて微笑んでいる。
「若い衆も、俺がお前を身請けしに来たと笑っていたぞ」
「ふふん。身請けされたも同然ではないか」
微笑みを崩さないまま、夜儀が言った。
■注
身請け 馴染客が借金を全て肩代わりし、女郎の身分から女を解放すること
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