二之五 間者
「……ところでアサル」
「なんだ、大綿」
まだ猫の腹を撫でている。猫はだらしない形に伸び、喉を鳴らしている。
「
いきなりの申し出にアサルは驚き、六尺三寸の大男をまじまじと見る。猫をいじっていた手も止まってしまった。
「木花から……降りて」
「そうだ。俺はお前が気に入った。近場に家を買い、住まわせてやる。なに、船に載せる奴隷はまた買えばよい。いくらでも売っている。お前には、一代暮らせるだけの蓄えをやろう」
「……」
緑色の深い瞳が、右、左と、小刻みに揺れた。俺は黙っている。
「どうせ俺はすぐに陽高と旅立ち、生きては戻らない。お前は俺と何度か
「わ、私は猫など……」
猫に目を落とす。女の手が止まってしまったので、仔猫は不思議そうに薄銅色の髪を見上げている。
「嘘をつけ。俺の家に来ると、いつでも猫を撫で遊んで楽しそうだぞ」
「……」
「この穏やかな
口上が女の心に染み透るのを待ち、大綿は、じっと返事を待った。顎をさすっている。
「わた、私は……」
下を向いてしまう。そのまま黙った。
広間を
畳の目を見つめたまま、アサルは小さな声で続けた。
「私は陽高と一緒に行く。陽高の船に乗る。陽高の船、木花に……」
最後は途切れそうなほど、か細い声になる。
「辛い思いをしてもか」
それっきり、口を開かない。
「……振られたようだ」
大綿は、また笑い出した。
「安芸に知らるる、この大綿を袖にするとはなあ……。まあよい。船出すれば、俺はいつでもお前を好きにできる。何度でも
「アサルよ、奥で
「わかった」
大男の問い詰めと
「陽高よ」
ぎょろっとした目が、俺を捉える。
「あの女は大丈夫だ。海原に出てから、そして異国の地でなんらかの誘いを受けても、お前も木花も裏切るまい」
「そう思うか」
「ああ。……ただ少々、
俺の顔を見据えたまま、大綿が続ける。
「あの女、
「それはない。いつ誰に買われるともわからぬ奴隷の市にいたのだから」
「権之助がぐるだったとしたら。城内の風説を得て、お前に
「それはあり得る。しかし考えてもみよ。もし大黑屋がぐるだったとして、それが明るみに出ればどうなる。権之助も安芸船人の気の質は知っている。銭金など通じぬ男どもになぶり殺され、もちろん大黑屋は打ち壊されるだろう。あの男はすでに大きな富を築いている。今さら金でそのような
「たしかに」
大綿は唸っている。
「間者であるという疑いは、あまり抱かずともよいだろう」
「……となると、もう少々厄介な話となる。あの奴隷は、陽高よ、お前に惚れているのではないか」
にやにやしながら俺を見た。猫が膝に乗り、伸びをしている。俺は口を閉ざしたままでいる。
「まあ、惚れていてもいいのだが。それはそれで利になるし……。お前の事だ、どうせ手を出してはいないのであろう」
顎を掻いて続ける。
「ただ、男に惚れた女は、
「その話の筋を、実は俺も考えてみた。だが違うだろうと判じた」
「どうして違うと思う、色男」
腕を袖に入れ、からかうような声色だ。
「俺はもう五十三だ。小娘が惚れるはずもない。それに呪いがある。体や魂、
「そうかな。俺が聞いている話とは違うが」
まだ笑っている。
「俺に値打ちがなくなっただけではない。よくもったとはいうものの、木花も建造以来三百五十年。もうぼろぼろだ。船頭も神木船も、先は見えている。ならばこそ、まだ残り火の燃えているうちに、使ったほうがいい。もし仕損じ使い捨てとなっても、老いた船と船頭など構わない。――そう思ったからこそ、このような見込み薄な旅立ちを、あの
「それは、たしかにそうだ」
急に素に戻って、大綿は頷く。たとえ
「とにかく大黑屋の薄暗い柵の中から、遙か西に征く木花に、あの女はただならぬ興味を示していた。どうしても船に乗りたいと見える。だからこそ、辱められるとわかっていても降りないのだろう」
「ふん……。なぜ西に征く船に乗りたい」
「あれは異国の女だぞ、大綿。それも
「ああ、そんなところだろう。ならば小娘ひとり、大海原でなんの障りでもない」
大綿は同じた。ちょうどそのとき、茶菓子の盆を持ったアサルと玉依さんが入ってきた。アサルを見つけると、一声鳴いて、猫が足許に体をすり寄せに行く。
★次話から新章。鼠小僧次郎吉登場! お楽しみにー。
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