二之五 間者

「……ところでアサル」

「なんだ、大綿」


 まだ猫の腹を撫でている。猫はだらしない形に伸び、喉を鳴らしている。


木花このはなに乗るのは止めて、俺の女になれ」


 いきなりの申し出にアサルは驚き、六尺三寸の大男をまじまじと見る。猫をいじっていた手も止まってしまった。


「木花から……降りて」

「そうだ。俺はお前が気に入った。近場に家を買い、住まわせてやる。なに、船に載せる奴隷はまた買えばよい。いくらでも売っている。お前には、一代暮らせるだけの蓄えをやろう」

「……」


 緑色の深い瞳が、右、左と、小刻みに揺れた。俺は黙っている。


「どうせ俺はすぐに陽高と旅立ち、生きては戻らない。お前は俺と何度かしとねを共にするだけだ。あとは死ぬまで、好きな猫とたわむれていればいではないか」

「わ、私は猫など……」


 猫に目を落とす。女の手が止まってしまったので、仔猫は不思議そうに薄銅色の髪を見上げている。


「嘘をつけ。俺の家に来ると、いつでも猫を撫で遊んで楽しそうだぞ」

「……」

「この穏やかな安芸あきの地で、お前は命果つるまで安寧あんねいを得る。もし船に乗らば、奴隷として何人もの男に代わる代わる休む間もなくなぐさみ者にされる。身も魂もぼろぼろになった挙句、生きては戻れん」


 口上が女の心に染み透るのを待ち、大綿は、じっと返事を待った。顎をさすっている。


「わた、私は……」


 下を向いてしまう。そのまま黙った。


 広間を静寂しじまが覆う。庭の赤松から、鳥のき声が聞こえてくる。どこか遠くで犬が吠えている。気持ち良い風が、庭を抜けて俺達の間を通って行った。


 畳の目を見つめたまま、アサルは小さな声で続けた。


「私は陽高と一緒に行く。陽高の船に乗る。陽高の船、木花に……」


 最後は途切れそうなほど、か細い声になる。


「辛い思いをしてもか」


 それっきり、口を開かない。


「……振られたようだ」


 大綿は、また笑い出した。


「安芸に知らるる、この大綿を袖にするとはなあ……。まあよい。船出すれば、俺はいつでもお前を好きにできる。何度でもはずかしめてくれるわ」


 欠伸あくびして前脚を舐め始めた猫に手を置いたままじっとして、小娘は赤くなっている。


「アサルよ、奥で玉依たまえを手伝うてくれんか。茶菓子を支度してくれ」

「わかった」


 大男の問い詰めとはずかしめから逃れられ、ほっとした顔で、奴隷は広間から出て行った。大綿は、しばらく眉の横を掻いていた。


「陽高よ」


 ぎょろっとした目が、俺を捉える。


「あの女は大丈夫だ。海原に出てから、そして異国の地でなんらかの誘いを受けても、お前も木花も裏切るまい」

「そう思うか」

「ああ。……ただ少々、に落ちん。どちらにしろ俺にはもてあそばれる。おまけに多くの男にもな。生娘きむすめが、恐ろしくないはずはない。ならば船を降りるのが筋ではないか」


 俺の顔を見据えたまま、大綿が続ける。


「あの女、間者かんじゃではないのか。どこぞの国に俺達を引っ張り込んで、財宝もろとも神木船かみきぶねの密か事を知ろうという」

「それはない。いつ誰に買われるともわからぬ奴隷の市にいたのだから」

「権之助がぐるだったとしたら。城内の風説を得て、お前に沙汰さたが下りる日を聞き、あまりの事に呆然とするお前を大黑屋に引きずり込んで間者をあてがう。……簡単な話だ」

「それはあり得る。しかし考えてもみよ。もし大黑屋がぐるだったとして、それが明るみに出ればどうなる。権之助も安芸船人の気の質は知っている。銭金など通じぬ男どもになぶり殺され、もちろん大黑屋は打ち壊されるだろう。あの男はすでに大きな富を築いている。今さら金でそのような剣呑けんのんを犯すとは思えない。それにたいした玉だが、馴染みである俺相手に、そこまで悪には徹せまい」

「たしかに」


 大綿は唸っている。


「間者であるという疑いは、あまり抱かずともよいだろう」

「……となると、もう少々厄介な話となる。あの奴隷は、陽高よ、お前に惚れているのではないか」


 にやにやしながら俺を見た。猫が膝に乗り、伸びをしている。俺は口を閉ざしたままでいる。


「まあ、惚れていてもいいのだが。それはそれで利になるし……。お前の事だ、どうせ手を出してはいないのであろう」


 顎を掻いて続ける。


「ただ、男に惚れた女は、ことわりに合わぬ行いを取る事がある。それは船に災いを呼ぶ。もちろん陽高、お前にもな」

「その話の筋を、実は俺も考えてみた。だが違うだろうと判じた」

「どうして違うと思う、色男」


 腕を袖に入れ、からかうような声色だ。


「俺はもう五十三だ。小娘が惚れるはずもない。それに呪いがある。体や魂、きもまでも、壊れる間際といったところだ。いかな神木船の船頭ふながしらといえども、もはや間者の女すら近寄っては来ん」

「そうかな。俺が聞いている話とは違うが」


 まだ笑っている。


「俺に値打ちがなくなっただけではない。よくもったとはいうものの、木花も建造以来三百五十年。もうぼろぼろだ。船頭も神木船も、先は見えている。ならばこそ、まだ残り火の燃えているうちに、使ったほうがいい。もし仕損じ使い捨てとなっても、老いた船と船頭など構わない。――そう思ったからこそ、このような見込み薄な旅立ちを、あの宦官かんがんどもは押し付けたのではないか」

「それは、たしかにそうだ」


 急に素に戻って、大綿は頷く。たとえ刎頚ふんけいの友を前にしていたとしても、流されずに正しい見極めをする。それでなければ、厄介な海渡りの要石など望めない。


「とにかく大黑屋の薄暗い柵の中から、遙か西に征く木花に、あの女はただならぬ興味を示していた。どうしても船に乗りたいと見える。だからこそ、辱められるとわかっていても降りないのだろう」

「ふん……。なぜ西に征く船に乗りたい」

「あれは異国の女だぞ、大綿。それも胡人こじんだ。天竺より遠くの繪琉波蘭えるはらあんとかいう国の民。おそらくなんとか俺を誘い導き、故国に逃げ帰る算段だろう」

「ああ、そんなところだろう。ならば小娘ひとり、大海原でなんの障りでもない」


 大綿は同じた。ちょうどそのとき、茶菓子の盆を持ったアサルと玉依さんが入ってきた。アサルを見つけると、一声鳴いて、猫が足許に体をすり寄せに行く。



★次話から新章。鼠小僧次郎吉登場! お楽しみにー。


■注

間者かんじゃ 間諜かんちょう。スパイ

刎頸ふんけいの友 親友

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る