二之三 船頭の契

神木船かみきぶねには不思議の力がある。そして自ら船頭を選ぶ」

「自ら……」

「建造以来三百余年、木花このはなは誰も船頭を受け付けなかった。海を知らぬ船だったからこそ傷む事なく、ただ一艘だけ生き残ったのだ。船頭を探そうとする努めは、とうの昔に捨て置かれた。もはや木花は海を知らぬ生娘きむすめのまま朽ちていくと、誰もが信じていた。しかしある日――」

「お前を選んだのだな」

「そうだ。まだ十五の餓鬼だった俺を選んだ。三十八年前の事だ」


 アサルに話しながら、俺は、その刹那せつなを思い返していた。あまりに途方もない事であったので、今でも細かに思い出せる。


 四つの春に親が海で死に、俺は、親族をたらい回しにされた。あげくに厄介やっかい払いされ、丸亀の船の下働きとして、七年過ごした。ある日戻った安芸での話。木花のために創建された木花神社が海辺にあり、本尊として船がまつられていた。


 扶桑最後の神木船は、船人ふなびとの信仰を広く集めていた。船が立ち寄った折、俺も自らの無事を祈りに行ったのだ。なにしろ直ぐ前の航海で女を巡って殺し合いが起こり、まだ女を許してもらえていない俺でさえ巻き込まれて、危ういところだった。厄祓やくばらいを願うのも故ある話だろう。


 そのとき、「それ」が起こった。


 まぶたの裏に木花守護の神体、木花咲耶姫このはなさくやのひめが顕現し、船頭ふながしらの契りを求めたのだ。


 はじめはなにが起こったのか、よくわからなかった。鳥居の先の船に手を合わせ厄払いを願ったその刹那、真っ暗な闇の中に白い神衣かむみそまとった女があらわれ、俺の頭に手を置いた。


 この世ものならぬ美しさの女は微笑んだまま、口も動かさずに話し掛けてきた。天津陽高あまつひだかよ、そちを船頭に望む。待ちに待った男が来た。船頭になってほしい。それについては、ひとつだけ取り決めがあるが――と。まだ若かった俺は、深く考えずにその取り決めに乗った。その途端……。


「あれを見ろ、流藻ながれもの火だ」


 大勢の参拝客がどよめき始めた。祀られた木花の帆柱先、そして鳥居に緑色の炎が灯り、輝き始めたからだ。


「流藻の火だ……」


 流藻の火を見た船人は少ない。しかし船人を守護すると信じられているので、全ての船人は、その火の有様を伝え聞いて知っている。そして生娘の神木船に灯る流藻の火が持つ意味も。


「しかしなぜ今」

「三百年も経ってからか」

「この小僧だ、見ろっ」

「なんと、あんな餓鬼にかっ」


 俺のまわりから、人垣がじりじり下がってゆく。たしかに俺の体も緑の炎に包まれている。全然熱くはない。ただ体の奥から力が湧いてきて、魂を満たしていくだけだ。


 船頭契ふながしらちぎりの儀は長く続いた気がしたが、うつつとしてはすぐに終わった。流藻の火が消えると、遠巻きにしていた人垣がわっと縮まり、もみくちゃにされた。そのまま担がれるようにして、社殿に連れて行かれた。神輿みこしのように。そこに、急ぎ呼び出された安芸の船頭長ふながしらおさが来る。俺は、その日のうちに木村城に登城させられた。


 正直、十五の餓鬼は持ち上げられて舞い上がっていたと思う。これまでの辛い暮らしが全て変わると、ありもしない夢に振り回されていた。ただ、それは恐ろしい勘違いだった。


 あくる朝、俺は万事すっかり悔いる羽目になった。目覚めと共に世をはかなんだが、溜息をつく間ももらえなかった。まつりごとのまっただ中に放り出され、恐ろしい権謀術数けんぼうじゅつすうに巻き込まれたのだ。


 あちこちの手勢から一挙手一投足を見張られ、どこかの輩に言いくるめられた女が、俺のしとねに忍び込んでくるようになった。そして寝物語に漏らした俺の愚痴や軽口は、一日過ぎればもちろん、あらゆる顔ぶれに伝わっていた。十日も経つ間に丸亀の親方には話が着けられており、がんじがらめになった俺は、安芸のため仙宝や博物を探すと誓わされていた。


          ●


「それでお前は三十八年もの間、神木船木花と生き死にを共にし、辺境で死地を潜り抜けてきたのだな」


 俺の昔語りを聴き終えて、アサルが優しげに語り掛けてくる。俺の手を握ったままだ。


「そうだ。考えてもみよアサル。わずか十五の下働きが、いきなりこのような船の船頭に仕立てられたときのことを。あちこちの手勢の肚づもりで送り込まれた裏のある猛者もさどもに囲まれ、長き海渡りに放り出されたのだ」


 アサルは遠い目をした。


「厳しかったであろう。私にもそのような試しがある」

「俺は何度も海に身を投げようと思った」

「しかし耐えた」

「そう、耐えた。しくじり、しくじり、いさおしを示し、またしくじった。一歩一歩、にじり這うようにして気心知れた船人を育て、政をうまくかわせるようになっていった。ただ、政よりずっと大きな厄介事があった……」

「それはなんだ」

「それは……」


 ふと我に返った。因縁を語れるほど気を許せる友は、ほとんどいない。聞いてくれる女に、思わず度を過ごしたようだ。考えてみれば、アサルはおそらく十五にもなっていまい。それを奴隷として船に乗せ、酷い運命さだめを与えようとしているのだ。人を責められた義理ではない。俺に群がった面々も、おそらく今の俺のように、自らの生き残りを賭けて、したたかに務めの成就を願っただけなのだろう。


 歳を取らなくてはわからない事もある。俺は願った。あの輩と今の俺が外枠同じでも肝心な、黄泉の神前に差し出す魂だけは、全く異なることわりを持っている事を。ただそれは俺が見立てる事ではないし、自分でもわからない。正に神のみぞ知るところだ。


「……いや、少し話し過ぎたな。木村の前の城主に、散々っぱら仙宝を求められた話よ。お前にはつまるまい」


 アサルの頭を撫でてやった。もう片方の手を握ったままの奴隷は、薄銅色の長い髪を嬉しそうに撫でさせている。木花板に立っていれば、木花が船人の体と心を多少なりと護ってくれる。温かな船に包まれて、若い奴隷とかつて若かった俺は、しばらくたたずんでいた。




■注

丸亀 香川県中西部の地名

流藻ながれもの火 航海中、帆柱の先などに灯る不思議な炎。セントエルモの火

しとね 布団

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