二之二 最後の神木船「木花」
「これが
もやい留められた木花の舷側を撫でて、アサルが呟く。
いかな
「
「大きいだろう」
「そうだな。
夢中といった声だ。
「ただかように細い船型で
船を見上げたまま、確かめるように前後ろと眺めている。時を経た木の匂いと磯の香りが、強く船腹から漂ってくる。
「
「それでこの船型では、揺れるだろう。たしかに速く進めはするだろうが」
舷側から甲板に移ると、アサルも上げてやった。甲板の木材は、船腹より柔らかい部位を用いている。そのため長年船人に踏まれ続けて磨り減っており、木目の柔なところが削れている。まあ濡れても足が滑らないので、かえって具合が良いとも言えるが。
甲板には、潮見の間が前のほうに設けられている。その屋根上が
「帆柱三本、帆が三枚か。上の
「普段は帆柱に固く嵌っているが、緩め綱を引くと外れ、いい
「なるほど。その仕組みを持つ帆なら、向かい風に逆らっての斜め行きや間切りもできる。……だが、そのような手の込んだからくりは、すぐ壊れてしまうのではないか」
「そこが木花の不思議なところだ。壊れん」
「壊れんのか……」
甲板に立つとさっそく
「
船の上まで揚げられた舵の
「
「そうだ、海に落とす。手すりにしっかり掴まらないと、海に落ちて死ぬる。荒れたときは、部屋の
女が頷く。
「なぜ三枚目の帆と帆柱が、こんなところに。……わからん」
甲板の後ろに畳まれている木花帆の帆布を、確かめるようにこすっている。と思う間もなく今度は前に駆け出して、
「陽高よ、これはなんだ」
「それは
「とりい……」
聞いた事のない名に、アサルが眉を寄せた。
「神に加護された聖なる船であるという証だ」
「そうか。神に加護さるるは大事だ。加護されない船は、すぐに沈む。沈まないとしても、災いを港にもたらす」
感じ入っているのか、あるいはなにかを値踏みしているのか、しゃがむと鳥居の天辺に耳を当てた。船の声でも聞こうとするかのように。
「アサル、お前はなぜこれほど船を知っている。俺より詳しいくらいではないか」
「なんだ、そんな事」
破顔一笑して、アサルは俺の手を取った。ふざけるように。船に乗れて嬉しいのかもしれない。
「漁師村の生まれよ。扶桑とは漁の仕方もおそらく異なろう。それは船の形からもわかる。子供の頃から、漁師の話を聞き、ときには船にも乗った。ならばこそ、自ずと私も海や漁、船や海渡りに詳しくなったのだ」
「では漁に出ていて流されたのか」
「そのようなものだ、我が主様よ」
からかうように言って俺と瞳を合わせ、指を絡める。
「扶桑の言葉をどこで覚えた」
「故国は、潮目が入り組んでおる。なんでも流れ着いてくるのだ。
俺は、奴隷の口上を
「では、蛮族の
「私にか」
俺が頷くと、アサルは束の間、天を見た。
「難しいだろうな。私が使えるのは、故国。それに扶桑。あと幾つかは挨拶くらいしか」
「なぜ特に扶桑なのだ」
「それは……」
顔を曇らせると、アサルは俺の手を放した。
「私とよく遊んでくれたのが、扶桑の流民だったからよ。……たしか、名を又兵衛と言っていた」
「そうか。国の名は」
「
異国の女は、初めて故国を明かした。
「えるはらあん……。源内が言っていた
「聞いた事がないな、そのような国も民も」
「繪琉波蘭はどこにある」
「知らん。……陽高、私はただ船が好きで乗って遊んでいた小娘だ。世の万物を知っているわけではない」
少し悲しそうな顔だ。
「
「多分そうだ。遠乗りのときに流されたから」
「お前は小舟で流されていた。そのような遠くから小舟では死ぬだろう」
「遠乗りと言ったであろう。流された初めは、もちろん大きな漁船だったのだ。……そのようなしみたれた話より、早く木花の事を教えよ。――帆の広さは」
奴隷は、また生き生きした顔に戻っている。腕を拡げて帆の姿を真似てみせた。
「おおよそで、一の帆で
「ふん……」
「これだけの帆を張るには、かなりの
「こちらに来い」
アサルの手を取ると、潮見の間に入った。狭い階段を下りる。
「ここが下の甲板か。……見たところ、ふた層甲板のようだな、この船は」
「ここは
「わかった。私達は今、木花板に立っているのだな」
「そうだ。そしてここだ」
舳先まで進む。小さな鳥居と本殿が備え付けられている。
「ここが忍野神社。木花を守る神がおわす、
「扶桑の神か……」
アサルが俺の顔を見る。
「その通りだ。木花は、忍野神社に祀らるる
「このはなさくやのひめ……」
「そう、女神だ。だから一の帆の二十四反帆といえども、ひとりかふたりで操れる。舵取りも普通の船にあり得ないほど軽い。この船型でもあまり揺れん」
「そのような
うっとりしている。
「ぜひ欲しい。陽高よ、この船を私に譲れ」
思わず笑ってしまった。
「やるわけにはいかない。お前は一文なしの奴隷ではないか」
「それはそうだが……」
笑われたので気分を害したのだろう。アサルはぷいと横を向いてしまった。
「それにこいつは、扶桑の船としては別格だ」
「他の船には加護がないのだな。土佐には、このような船はなかった」
なかなか頭の回りが速い。
「そうだ。扶桑の神域には、上つ世から
「かみきぶね……」
「木花の元となった神木は、相当に大きな樹だったと伝えられている。山より高かったとか。なんでも樹の上に、神木の民と呼ばれる一族が住んでいたらしい」
「樹の上に、人が」
「そうだ。神木の民は樹の上で鳥や獣を狩り、樹から水を得てそこに畑を作り、建てた家で暮らす。一生その樹から降りてこないのだという」
「ならば神木が枯れて、その民は困ったであろうな」
アサルが眉を寄せる。
「そうだな。樹から降りて散り散りになったというが……。とにかく大きな樹だったので、木花の他に、同じ枯れ木から、あと
「なんと。ではそちらの船でもいいぞ、私は」
船の話になったためか、夢中で願いを口にする。
「それは無理だ。どちらも行く方知れずになっている。
「そうか」
この世のものならぬ船の成り立ちを思い、アサルが神妙な顔になる。
「神木船には不思議の力がある。そして自ら船頭を選ぶ」
「自ら……」
「建造以来三百余年、木花は誰も船頭を受け付けなかった。海を知らぬ船だったからこそ傷む事なく、ただ一艘だけ生き残ったのだ。船頭を探そうとする努めは、とうの昔に捨て置かれた。もはや木花は海を知らぬ生娘のまま朽ちていくと、誰もが信じていた。しかしある日――」
「お前を選んだのだな」
「そうだ。まだ十五の餓鬼だった俺を選んだ。三十八年前の事だ」
■注
一尺幅 約三十センチ幅
滑り車 滑車。この場合は帆柱の上の滑車。帆張りに使う
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます