二之二 最後の神木船「木花」

「これが木花このはなか」


 もやい留められた木花の舷側を撫でて、アサルが呟く。船腹ふなばらは、一尺幅ほどの板材で密に組まれている。柿渋かきしぶと上薬で朽葉色くちはいろに仕上げられてはいるが、ところどころ鉄黒てつぐろに色変わりして傷んでいる。


 いかな神木船かみきぶねといえども、建造以来三百五十年。すでに見た目で古さが隠せない。


我玲央船がれいおぶねとは、だいぶ違うな。やはり扶桑ふそうの船の形か。……ただ、土佐の港で見た廻船かいせんとも、かなり異なっている」

「大きいだろう」

「そうだな。弁財船べざいぶねよりは」


 夢中といった声だ。


「ただかように細い船型で水押みよしもか弱いのでは、沖乗りはともかく、荒れた海での沖渡りまでは……。どうやらかなり傷みが進んでおるようだし。――長さはどのくらいだ」


 船を見上げたまま、確かめるように前後ろと眺めている。時を経た木の匂いと磯の香りが、強く船腹から漂ってくる。


十五間じゅうごけんだから、人二十人並べたほどだろう」

「それでこの船型では、揺れるだろう。たしかに速く進めはするだろうが」


 舷側から甲板に移ると、アサルも上げてやった。甲板の木材は、船腹より柔らかい部位を用いている。そのため長年船人に踏まれ続けて磨り減っており、木目の柔なところが削れている。まあ濡れても足が滑らないので、かえって具合が良いとも言えるが。


 甲板には、潮見の間が前のほうに設けられている。その屋根上が星見ほしみ潮見番しおみばんの持ち部署、星辰櫓せいしんろだ。ずっと前には、先帆さきほの帆柱が立っている。潮見の間の後ろには一の帆の帆柱が高くそそり立っている。さらに後ろに木花帆このはなほの小振りな帆柱が立つ。一の帆と先帆は、蒸栗色むしぐりいろ帆布ほぬのを持つ。他と異なり鮮やかな山吹色やまぶきいろの帆布が、木花帆の下に畳まれている。


「帆柱三本、帆が三枚か。上の帆桁ほげたはどうなっておる」

「普段は帆柱に固く嵌っているが、緩め綱を引くと外れ、いい塩梅あんばいまで動かせる」

「なるほど。その仕組みを持つ帆なら、向かい風に逆らっての斜め行きや間切りもできる。……だが、そのような手の込んだからくりは、すぐ壊れてしまうのではないか」

「そこが木花の不思議なところだ。壊れん」

「壊れんのか……」


 甲板に立つとさっそく譫言うわごとのようになにか呟きながら、奴隷は、前に後ろに仔犬のようにせわしなく駆け巡り始めた。古い甲板が軋んで音を立てている。


かじは跳ね上げ式か。これでは波に弱いのに」


 船の上まで揚げられた舵の羽板はいたをぽんぽん叩きながら、眉を寄せる。


とものこの穴は雪隠せっちんか」

「そうだ、海に落とす。手すりにしっかり掴まらないと、海に落ちて死ぬる。荒れたときは、部屋の虎子まるにせよ」


 女が頷く。


「なぜ三枚目の帆と帆柱が、こんなところに。……わからん」


 甲板の後ろに畳まれている木花帆の帆布を、確かめるようにこすっている。と思う間もなく今度は前に駆け出して、舳先へさきに鎮座する紅緋べにひの小さな鳥居を指差した。


「陽高よ、これはなんだ」

「それは忍野神社おしのじんじゃの鳥居だ」

「とりい……」


 聞いた事のない名に、アサルが眉を寄せた。


「神に加護された聖なる船であるという証だ」

「そうか。神に加護さるるは大事だ。加護されない船は、すぐに沈む。沈まないとしても、災いを港にもたらす」


 感じ入っているのか、あるいはなにかを値踏みしているのか、しゃがむと鳥居の天辺に耳を当てた。船の声でも聞こうとするかのように。


「アサル、お前はなぜこれほど船を知っている。俺より詳しいくらいではないか」

「なんだ、そんな事」


 破顔一笑して、アサルは俺の手を取った。ふざけるように。船に乗れて嬉しいのかもしれない。


「漁師村の生まれよ。扶桑とは漁の仕方もおそらく異なろう。それは船の形からもわかる。子供の頃から、漁師の話を聞き、ときには船にも乗った。ならばこそ、自ずと私も海や漁、船や海渡りに詳しくなったのだ」

「では漁に出ていて流されたのか」

「そのようなものだ、我が主様よ」


 からかうように言って俺と瞳を合わせ、指を絡める。


「扶桑の言葉をどこで覚えた」

「故国は、潮目が入り組んでおる。なんでも流れ着いてくるのだ。南蛮なんばんの難破船も、遥か扶桑の壊れた船も。難破した民は受け入れ、暮らさせる。だから皆、多くの国の言の葉がわかるぞ」


 俺は、奴隷の口上を反芻はんすうした。蛮族の言葉を多く知っているのなら、航海で役立つかもしれない。


「では、蛮族の通辞つうじを頼めるか」

「私にか」


 

俺が頷くと、アサルは束の間、天を見た。

「難しいだろうな。私が使えるのは、故国。それに扶桑。あと幾つかは挨拶くらいしか」

「なぜ特に扶桑なのだ」

「それは……」


 顔を曇らせると、アサルは俺の手を放した。


「私とよく遊んでくれたのが、扶桑の流民だったからよ。……たしか、名を又兵衛と言っていた」

「そうか。国の名は」

繪琉波蘭えるはらあん


 異国の女は、初めて故国を明かした。


「えるはらあん……。源内が言っていた粟特そぐとではないのか」

「聞いた事がないな、そのような国も民も」

「繪琉波蘭はどこにある」

「知らん。……陽高、私はただ船が好きで乗って遊んでいた小娘だ。世の万物を知っているわけではない」


 少し悲しそうな顔だ。


天竺てんじくよりは遠いのであろう」

「多分そうだ。遠乗りのときに流されたから」

「お前は小舟で流されていた。そのような遠くから小舟では死ぬだろう」

「遠乗りと言ったであろう。流された初めは、もちろん大きな漁船だったのだ。……そのようなしみたれた話より、早く木花の事を教えよ。――帆の広さは」


 奴隷は、また生き生きした顔に戻っている。腕を拡げて帆の姿を真似てみせた。


「おおよそで、一の帆で二百四十反たん。先帆が百反。木花帆が六十反というところだ。合わせると四百反を切って三百九十反帆になる」

「ふん……」


 反目たんめを知らないのだろう。アサルは目で測り、帆の広さを推し量っている。


「これだけの帆を張るには、かなりの人数ひとかずがいるぞ。陽高は平気だと言うが。滑り車にしても轆轤ろくろにしても、これほど小さいではないか」

「こちらに来い」


 アサルの手を取ると、潮見の間に入った。狭い階段を下りる。


「ここが下の甲板か。……見たところ、ふた層甲板のようだな、この船は」

「ここは木花板このはないたと呼べ」

「わかった。私達は今、木花板に立っているのだな」

「そうだ。そしてここだ」


 舳先まで進む。小さな鳥居と本殿が備え付けられている。


「ここが忍野神社。木花を守る神がおわす、神社かむやしろだ」

「扶桑の神か……」

 アサルが俺の顔を見る。

「その通りだ。木花は、忍野神社に祀らるる木花咲耶姫このはなさくやのひめに守護されている」

「このはなさくやのひめ……」

「そう、女神だ。だから一の帆の二十四反帆といえども、ひとりかふたりで操れる。舵取りも普通の船にあり得ないほど軽い。この船型でもあまり揺れん」

「そのようなひそか事が、扶桑の船に」


 うっとりしている。


「ぜひ欲しい。陽高よ、この船を私に譲れ」


 思わず笑ってしまった。


「やるわけにはいかない。お前は一文なしの奴隷ではないか」

「それはそうだが……」


 笑われたので気分を害したのだろう。アサルはぷいと横を向いてしまった。


「それにこいつは、扶桑の船としては別格だ」

「他の船には加護がないのだな。土佐には、このような船はなかった」


 なかなか頭の回りが速い。


「そうだ。扶桑の神域には、上つ世から神木かみき、つまり不思議の樹が存していた。世の乱れで神木はあらかた消え、今も若木は残るが育たない。三百五十年ほど前に戦で枯れた神木で、木花は作られた。木花は、神木船の生き残りだ」

「かみきぶね……」

「木花の元となった神木は、相当に大きな樹だったと伝えられている。山より高かったとか。なんでも樹の上に、神木の民と呼ばれる一族が住んでいたらしい」

「樹の上に、人が」

「そうだ。神木の民は樹の上で鳥や獣を狩り、樹から水を得てそこに畑を作り、建てた家で暮らす。一生その樹から降りてこないのだという」

「ならば神木が枯れて、その民は困ったであろうな」


 アサルが眉を寄せる。


「そうだな。樹から降りて散り散りになったというが……。とにかく大きな樹だったので、木花の他に、同じ枯れ木から、あと二艘にそうの神木船が造られた。それぞれが、木花咲耶姫とはまた別の神に護られていたと聞く」

「なんと。ではそちらの船でもいいぞ、私は」


 船の話になったためか、夢中で願いを口にする。


「それは無理だ。どちらも行く方知れずになっている。船頭ふながしらもろともな。見極めできる限り、木花が最後の一艘だ。神木は扶桑でしか育たない。しかも扶桑の神木は、戦で枯れ果てた。かつて多く作られていた神木船も、造られる事がなくなった。すでにあるものは古くなり、姿を消した。神木船は加護されており、人ひとりの命よりも長く使えるが、限りはある。この世には、木花以外、もう神木船は残っていない」

「そうか」


 この世のものならぬ船の成り立ちを思い、アサルが神妙な顔になる。


「神木船には不思議の力がある。そして自ら船頭を選ぶ」

「自ら……」

「建造以来三百余年、木花は誰も船頭を受け付けなかった。海を知らぬ船だったからこそ傷む事なく、ただ一艘だけ生き残ったのだ。船頭を探そうとする努めは、とうの昔に捨て置かれた。もはや木花は海を知らぬ生娘のまま朽ちていくと、誰もが信じていた。しかしある日――」

「お前を選んだのだな」

「そうだ。まだ十五の餓鬼だった俺を選んだ。三十八年前の事だ」




■注

一尺幅 約三十センチ幅

水押みよし 舳先へさき(船首)で波を切る先端の部分

十五間じゅうごけん 約二十七メートル。一間=六尺。一尺=約三十センチ

帆桁ほげた 帆柱の先に、横に渡した木。ここに帆を張る

かじ羽板はいた 舵の板状部分

とも 船尾

雪隠せっちん 便所・トイレ

虎子まる 携帯便器・おまる

忍野神社おしのじんじゃ 木花咲耶姫このはなさくやのひめを祀る神社

通辞つうじ 通訳

繪琉波蘭えるはらあん アサルが故国だと言う国

南蛮なんばん 南方の野蛮人。日本では東南アジアを指したが、江戸時代には欧州人も南蛮と呼ばれた。アサルがどちらの意味で使っているかは不明

二百四十反たん 三百平方メートル弱。一反=約〇・九五×三尺。一尺=約三十センチ

滑り車 滑車。この場合は帆柱の上の滑車。帆張りに使う

轆轤ろくろ 帆張りの機械。人力で作動させる

木花咲耶姫このはなさくやのひめ 一般には「このはなさくやひめ」とされることの多い女神

神木かみき 神秘的な力に満ちた神聖な樹木で、扶桑(日本)にしか生えない。戦乱で地の気が乱れ、すべて枯れたとされる

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