第二章 平賀源内
二之一 学修者、平賀源内
次の朝、アサルと並んで
「陽高よ、お前、疲れているのではないか。朝というに、顔の色がとても悪いぞ。一日働き切った後のようではないか。やはり私が
「黙って飯を食え」
奴隷は口を閉ざした。硬い乾物を、必死になって食い千切っている。朝餉が終わると、女にも塩で口を洗わせる。船人は歯と足先を大事にせねばならない。そこを傷めると、長い船旅では命取りになる。外から雀と目白の
アサルを連れて出た。今日は
源内は
もうかなりの歳だが未だに好奇心旺盛で、俺の船にも何度か乗っている。
城下から外れに向かい半刻ほど歩くと、あの男の工房がある。古い家屋を買い取って使っているものだ。安く広いが、ぼろぼろだ。俺は長らくご無沙汰だった。前より荒れて、壁もあちこち崩れかけている。
名立たる博士は、工房の机で、なにかの博物に取り付いていた。細い銅の箸のようなもので、
「源内殿、久方振りだな」
声を掛けたが、後ろを向いたまま、布を調べる手を休めない。
「その声は天津殿だな。そう、ちょうど二年と三月ぶりになる。どうした。なにか筋のわからぬ
「いや違う」
「ではなんぞ用か。儂は忙しい。それと、源内と呼べ。
布を下ろすと、別の切れ端を持ち上げる。今度の布は刺繍でなく、染物のようだ。染物としては見た事がないほど鮮やかな色をしている。
「遠くに征きたくはないか」
「遠くへ……」
ようやく振り返る。脇に控えるアサルを見て、拡げ眼鏡を取り落とした。
「やや、これはっ」
慌てて両眼鏡に掛け替えると、駆けるように寄ってくる。
「この女は
顔や髪、瞳や体つきを、舐めるように見極めていく。次に手を取って、爪をじろじろ調べる。
「女、裸になって儂に見せろ」
アサルは俺の後ろに隠れてしまった。背をぎゅっと掴む。
「まあ勘弁してやれ。この女は俺の船人だ」
「そうか、奴隷を買ったのか。遠くに征くのだものな……」
「天津殿、見ない間に、ずいぶんおやつれになった。やはり
俺の顔を撫でる。そう気遣う男のほうが、よっぽどやつれている。鷲鼻の肉が落ち、眼の下の隈は、歌舞伎役者の
「安心しろ……。それより、航海の話だ」
「そう、それよ。どこに征く」
「仙宝を探す
「波斯……」
呆然と口が開く。
「それは遠い。遠過ぎる。何年掛かるやら……」
しばし遠くに飛んでいたが、その目に力が戻ってきた。
「波斯とな……」
くるっと後ろを向くと、壁際の棚に突き進む。
「波斯、波斯……。そう、これだ」
分厚い書物を開くと、眼鏡をずらしたり戻したりしながら紙を繰った。
「波斯なら、素晴らしい玻璃の技があるはず。あと細密細工の
棚の前をうろうろし、別の書物を見つけ出した。
「ああ、これよこれ。
悔しそうに溜息をつく。
「そうか、波斯か……」
本を戻すと、俺達のところに、どたどた戻ってきた。
「儂になにを望む」
「医術と蛮語。それに聞いた事もない国や民から、兵糧や風説を得なくてはならん。民俗に通じたお前なら、掛け合いを助けられるだろう。暇な折は、博物収集や研究をしてもらっていい。できれば道々、
「なるほど木花の……」
頷いている。
「あと求めるのは、源内殿の命だ」
「お前と呼べ、天津殿。……ところで」
俺の体を強く掴むと、源内は瞳の奥を覗き込んできた。魂を探るかのように。
「命をしくじる旅なのだな」
小さな声で確認すると、手を離して一歩、距離を取る。
「まず成就はすまい」
「船出はいつだ」
「わからん。五葉の日までのどこか」
「儂はいつでもいい。儂の荷は、後九日で万端整えておく。それと、船はもちろん木花であろう。ああ神木船に乗るのはこれで三度目か……楽しみだ。木花に積む医術や掛け合いに使う諸々の品は、儂が決めて運ばせていいか」
「任せる。この証文を使え。……命は要らないのだな」
先ほどまで調べていた端切れを、源内は全て床に放り出した。書物を幾つか掴み出すと、机に拡げる。ひと時に何冊もあちこち繰り始めた。
「儂の命など、どうでもよい。波斯まで行く途上、そして帰りの路、どれほどの知識を得る事ができようか……」
後ろ向きで書物を繰りながら、うっとりした声で告げる。
「受け取れ。城主が約束した褒美の手形だ」
「どうでもよい」
「金子や召し抱え、仙宝下賜の文言が……」
「どうでもよいというに……待て、仙宝だと」
俺の手から手形を奪い取り、まじまじと見つめる。
「うむ。金子は学問の助けとなる。奉公はどうでも良いが、それでも小早川家の後ろ盾があれば、調べ物にも役立とう。そして仙宝よ。これは楽しみだ」
「生きて帰れたらの話だ」
「それもそうだな、天津殿。まあ死んでもうまく行っても、楽しみがあるという事だ」
鷲鼻の下の口が、裂けるように広くなり、笑みの形を取る。そのまま俺達に背を向けると、書物調べに戻った。
「源内殿ヘの支度金は、どこに送ればいい」
「源内と呼べ。儂はお前の下だ。それに知らん。長が考えて適当に済ませておけ」
もう俺達は眼中にないようだ。
「わかった。お前の弟子に訊いておく。では俺は帰る」
アサルの背を押し、引き上げかけた。
「あと、その奴隷もたしかに乗るのだな」
書物に手を置いたまま、振り返っている。
「木花の船人だと言ったはず」
「そうか、気風や習わしなど調べるのが楽しみだ」
ひと言発すると、また書物に戻ってしまった。
●
薄暗い工房から明るい外に出て風に当たると、アサルが深々と息を吐いた。
「陽高よ、あれは魂の病だ」
手を握ってきた。
「私は怖かった」
下を向いたまま、俺と並んで歩いている。
「大丈夫だ。嫌な奴ではない。ただ少し変わっている」
「少しどころではないぞ」
「なに、お前と同じくらいの変わり者だ」
上を向き、女はしばらく考えていた。
「うん、たしかにそうかもしれん」
ようやく笑顔を浮かべた。
「次は誰に会いに行く」
「いや、茶屋で飯にする。それから船を見に行こう」
「船かっ。木花とかいう
奴隷は、俺の手を引いて走るように進み出した。
★次話、
■注
拡げ眼鏡 拡大鏡(ルーペ)
人を狂わせる草 大麻(ハシシ)。ペルシャではハシシを統率洗脳に使った暗殺教団アサシンが、大きな影響力を持っていた
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