第二章 平賀源内

二之一 学修者、平賀源内

 次の朝、アサルと並んで朝餉あさげを前にした。乾物と水。俺がひと言も話さないので、アサルは心配そうだ。


「陽高よ、お前、疲れているのではないか。朝というに、顔の色がとても悪いぞ。一日働き切った後のようではないか。やはり私がとぎをしなかったから……」

「黙って飯を食え」


 奴隷は口を閉ざした。硬い乾物を、必死になって食い千切っている。朝餉が終わると、女にも塩で口を洗わせる。船人は歯と足先を大事にせねばならない。そこを傷めると、長い船旅では命取りになる。外から雀と目白の啼声なきごえが聞こえる。今日もいい天気だろう。


 アサルを連れて出た。今日は平賀源内ひらがげんないを、なんとしても口説くつもりだ。


 源内は安芸あきに近い、讃岐さぬきの生まれ。江戸で博物収集や殖産しょくさんに活躍したが誤って人を殺し、投獄された。死罪は扶桑ふそうの損失と憂いた杉田玄白すぎたげんぱくらが、獄死したと偽り密かに江戸抜けをさせ、故郷に近いここ安芸に落ち着かせた。故郷では目立ちすぎるからだ。


 もうかなりの歳だが未だに好奇心旺盛で、俺の船にも何度か乗っている。


 城下から外れに向かい半刻ほど歩くと、あの男の工房がある。古い家屋を買い取って使っているものだ。安く広いが、ぼろぼろだ。俺は長らくご無沙汰だった。前より荒れて、壁もあちこち崩れかけている。


 名立たる博士は、工房の机で、なにかの博物に取り付いていた。細い銅の箸のようなもので、豪奢ごうしゃ刺繍ししゅうが施された布切れを摘んで持ち上げ、眼にめた玻璃はりの拡げ眼鏡で細かく調べている。ぼろと言っていい着物を体に巻き付け、適当に巻いた兵児帯へこおびが足まで垂れている。髪は伸び放題で、絡まって肩まで掛かっていた。


「源内殿、久方振りだな」


 声を掛けたが、後ろを向いたまま、布を調べる手を休めない。


「その声は天津殿だな。そう、ちょうど二年と三月ぶりになる。どうした。なにか筋のわからぬ仙宝せんぽうでも持ち込んできたのか」

「いや違う」

「ではなんぞ用か。儂は忙しい。それと、源内と呼べ。船長ふなおさは、船人ふなびとに上下の示しを付けねばならんでな」


 布を下ろすと、別の切れ端を持ち上げる。今度の布は刺繍でなく、染物のようだ。染物としては見た事がないほど鮮やかな色をしている。


「遠くに征きたくはないか」

「遠くへ……」


 ようやく振り返る。脇に控えるアサルを見て、拡げ眼鏡を取り落とした。


「やや、これはっ」


 慌てて両眼鏡に掛け替えると、駆けるように寄ってくる。


「この女は韃靼だったんか。いや違う、粟特そぐとだろう。歳は十四くらいか。粟特はもう千年前に滅んだと聞くが……」


 顔や髪、瞳や体つきを、舐めるように見極めていく。次に手を取って、爪をじろじろ調べる。


「女、裸になって儂に見せろ」


 アサルは俺の後ろに隠れてしまった。背をぎゅっと掴む。


「まあ勘弁してやれ。この女は俺の船人だ」

「そうか、奴隷を買ったのか。遠くに征くのだものな……」


 譫言うわごとのように呟くと、ようやく俺の顔を見た。


「天津殿、見ない間に、ずいぶんおやつれになった。やはり木花このはなのせいか……。儂もあの後色々調べたが、いい方法は見つからなんだ。そうだ、蜜柑みかんを食べているか、きちんと」


 俺の顔を撫でる。そう気遣う男のほうが、よっぽどやつれている。鷲鼻の肉が落ち、眼の下の隈は、歌舞伎役者の隈取くまどりのように拡がっている。学問にいそしむ余り、例によってどうせ飯もろくに食べていないのだろう。


「安心しろ……。それより、航海の話だ」

「そう、それよ。どこに征く」

「仙宝を探す斥候せっこうのようなものだ。征き先は波斯はし

「波斯……」


 呆然と口が開く。


「それは遠い。遠過ぎる。何年掛かるやら……」


 しばし遠くに飛んでいたが、その目に力が戻ってきた。


「波斯とな……」


 くるっと後ろを向くと、壁際の棚に突き進む。


「波斯、波斯……。そう、これだ」


 分厚い書物を開くと、眼鏡をずらしたり戻したりしながら紙を繰った。


「波斯なら、素晴らしい玻璃の技があるはず。あと細密細工の琵琶びわと。人を狂わせるという草と。それに仙宝。そう仙宝よ。あれはどこだったか……」


 棚の前をうろうろし、別の書物を見つけ出した。


「ああ、これよこれ。霧流きりる文字だが読み下してみせよう。『波斯の水欠くる処、万物蘇りの仙宝あり。百年に一度現る魔物、を伝う。曰く、仙宝の力に依りて、女、にえとしてこれを受く。ただ、贄を避けて伝う秘術、奇跡として──』……ここから虫が食っており、読めん」


 悔しそうに溜息をつく。


「そうか、波斯か……」


 本を戻すと、俺達のところに、どたどた戻ってきた。


「儂になにを望む」

「医術と蛮語。それに聞いた事もない国や民から、兵糧や風説を得なくてはならん。民俗に通じたお前なら、掛け合いを助けられるだろう。暇な折は、博物収集や研究をしてもらっていい。できれば道々、闇寝やみねの仙宝など探してもらえると、俺が助かる」

「なるほど木花の……」


 頷いている。


「あと求めるのは、源内殿の命だ」

「お前と呼べ、天津殿。……ところで」


 俺の体を強く掴むと、源内は瞳の奥を覗き込んできた。魂を探るかのように。


「命をしくじる旅なのだな」


 小さな声で確認すると、手を離して一歩、距離を取る。


「まず成就はすまい」

「船出はいつだ」

「わからん。五葉の日までのどこか」

「儂はいつでもいい。儂の荷は、後九日で万端整えておく。それと、船はもちろん木花であろう。ああ神木船に乗るのはこれで三度目か……楽しみだ。木花に積む医術や掛け合いに使う諸々の品は、儂が決めて運ばせていいか」

「任せる。この証文を使え。……命は要らないのだな」


 先ほどまで調べていた端切れを、源内は全て床に放り出した。書物を幾つか掴み出すと、机に拡げる。ひと時に何冊もあちこち繰り始めた。


「儂の命など、どうでもよい。波斯まで行く途上、そして帰りの路、どれほどの知識を得る事ができようか……」


 後ろ向きで書物を繰りながら、うっとりした声で告げる。


「受け取れ。城主が約束した褒美の手形だ」

「どうでもよい」

「金子や召し抱え、仙宝下賜の文言が……」

「どうでもよいというに……待て、仙宝だと」


 俺の手から手形を奪い取り、まじまじと見つめる。


「うむ。金子は学問の助けとなる。奉公はどうでも良いが、それでも小早川家の後ろ盾があれば、調べ物にも役立とう。そして仙宝よ。これは楽しみだ」

「生きて帰れたらの話だ」

「それもそうだな、天津殿。まあ死んでもうまく行っても、楽しみがあるという事だ」


 鷲鼻の下の口が、裂けるように広くなり、笑みの形を取る。そのまま俺達に背を向けると、書物調べに戻った。


「源内殿ヘの支度金は、どこに送ればいい」

「源内と呼べ。儂はお前の下だ。それに知らん。長が考えて適当に済ませておけ」


 もう俺達は眼中にないようだ。


「わかった。お前の弟子に訊いておく。では俺は帰る」


 アサルの背を押し、引き上げかけた。


「あと、その奴隷もたしかに乗るのだな」


 書物に手を置いたまま、振り返っている。


「木花の船人だと言ったはず」

「そうか、気風や習わしなど調べるのが楽しみだ」


 ひと言発すると、また書物に戻ってしまった。


          ●


 薄暗い工房から明るい外に出て風に当たると、アサルが深々と息を吐いた。


「陽高よ、あれは魂の病だ」


 手を握ってきた。


「私は怖かった」


 下を向いたまま、俺と並んで歩いている。


「大丈夫だ。嫌な奴ではない。ただ少し変わっている」

「少しどころではないぞ」

「なに、お前と同じくらいの変わり者だ」


 上を向き、女はしばらく考えていた。


「うん、たしかにそうかもしれん」


 ようやく笑顔を浮かべた。


「次は誰に会いに行く」

「いや、茶屋で飯にする。それから船を見に行こう」

「船かっ。木花とかいう我玲央船がれいおぶねだな。それは楽しみだ。早く行こう、ほら」


 奴隷は、俺の手を引いて走るように進み出した。




★次話、神木船木花かみきぶねこのはなの秘密が明らかに!


■注

讃岐さぬき 今の香川県

殖産しょくさん 産業興隆

杉田玄白すぎたげんぱく 蘭学医。日本初の解剖学書「解体新書」を刊行

玻璃はり ガラス

拡げ眼鏡 拡大鏡(ルーペ)

兵児帯へこおび 男性普段着用の帯

韃靼だったん シベリアからリトアニアに掛けて広く活動したモンゴル系民族。タタール人とも。話は脱線するがドイツでハンバーグの原形となったタルタルステーキは、タタール人のレシピ。つまりタタールステーキってわけ

粟特そぐと 現在のウズベキスタン/タジキスタンに居住していたペルシャ(イラン)系民族。十二世紀には民族的特質を失い、歴史の闇に消えた

人を狂わせる草 大麻(ハシシ)。ペルシャではハシシを統率洗脳に使った暗殺教団アサシンが、大きな影響力を持っていた

霧流きりる文字 スラブ系民族が使う文字。現代でも使われるロシア文字がその一種

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