一之五 闇寝

 アサルが酒に当たり眠ってしまった事もあり、屋敷に戻ったのは、ずいぶん夜も更けてからになった。下賜かしされた俺の屋敷はずいぶん広いが、下働きは誰もいない。財物は陸揚げしてすぐ召し上げられるから、屋敷に押し入る賊もいない。長い海渡りが多いので、誰か奉公させるのも難しい。それに夜更けの「あれ」がある。


 軋む門扉を開け、室内に入って油に火を灯す。奴隷はすぐ、この屋敷を覆う荒れた気に気づいたようだ。なんとも言えない顔で、あたりを見回している。


嫁御よめごはおらんのか、陽高」

「いない」

「奉公人は」

「おらん」

側女そばめは――」

「もういいだろう。俺は疲れた。飯にする」

「……わかった」


 座敷にふたり並んで座り、乾物かんぶつと水で夕餉ゆうげにした。小娘はいろいろ語り掛けてきたが、俺からは特に話はない。女の口が軽いのは、奴隷商人の許で隙を見せないよう口を閉じ自分をいましめてきた、その揺り戻しだろう。


 いずれにしろ船出までに、この女の性根を知らねばならない。それによって船でどう使うか考えないと。あるいはこの女を源内の弟子にでも預け解き放ち、他に手当てしなくてはならないかも。いずれにしろ好きなように語らせたほうが、話が早い。


 切れ間なく続くアサルの問わず語りを聞いているうちに、ときが過ぎた。


「ずっと奴隷小屋暮らしで、気が悪かったであろう。土間で湯を沸かし、湯浴ゆあみをしろ。体を洗う灰も布も、そこらに置いてある。俺は隣でもう横になる。お前の寝所しんじょは、さらにひとつ奥だ。布団を出して勝手に寝ろ。いいな」

「あ、ああ」


 驚いたように女が答える。奴隷を追い出し粗末な布団を引っ張り出すと、暗い行灯あんどんをひとつ灯したまま横になった。


 しかし眠りたくはない。また夜だから。


 夜を遠ざけるためにも、海渡りを万にひとつの成就じょうじゅに導く手立てを考えなくてはならない。それは俺がこなさないとならない、俺だけの務めだ。


 込み入った袋小路を歩いて行くような算段を回しているうちに、それなりに刻が経ったようだ。とんとんと廊下を歩く音が聞こえたかと思うと、ふすまが開いてアサルが顔を出した。


「陽高、起きているのか」

「……起きている」


 寝所に入ってきて、俺の頭の脇で胡座あぐらを組んだ。短い襦袢じゅばんの奥が丸見えになる。


「湯浴みをしてきた」

「そうか」


 しばらく押し黙っている。俺が横たわって天井を見たまま動かないのを見届けると、続けた。


「陽高、私は伽をしなくてもいいのか」

「なんだ、夜伽よとぎをしたいのか」

「いや、したくはない。……しかし私は、お前に買われた身だ」

「したくないなら、しないでもいい」


 女は深い溜息を漏らした。


「なにか気懸かりがあるのか。体は綺麗きれいにしておいたが……」

「戻って寝ろ」

「わかった。陽高が言うなら、そうする」


 そっと襖を閉じ、静かな足音が遠ざかっていく。


 また、恐ろしい夜が来る。夢での解放感も、暗闇の安寧あんねいもない。黒より黒い闇の苦しみの。眠りが忍び寄る気を感じると、おののきが俺を包む。しかし眠りの入口から戻れる路はない。三十八年の間、試し続け、一度たりとも成功した事がない。


 俺は、闇へと引きずり込まれていった。




■注

下賜かし 高位者からの贈与

側女そばめ 家事をする下働き、またはめかけ

行灯あんどん 小型の照明。油を用いる



★雑談:

陽高がアサルと出会ったこの日が、設定上は天保十年(西暦1839年)三月九日。幕末が始まる十五年ほど前、天保の大飢饉から日本が立ち直りつつある時代です。もちろん「もうひとつの江戸時代」ファンタジーなので、世相はガチ史実通りではないです。なんせ日本なのに宦官がいる世界線だし。


★次話から新章。平賀源内登場!

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