一之四 大綿
門を潜ると、餓鬼どもが奇妙な異人を
引き戸を開けると勝手にそのまま土間を抜け、大広間に踏み込んだ。大広間は、幾つもの部屋の襖を開け放って造作したものだ。
中ほどに
体を厳しく使うので、安芸竹原の船乗りは昼餉を取るのが習わしだ。横におかみの
広間の先に進むと、庭を背に、大綿に向かう。
六尺三寸の大男だ。薄っぺらく磨り減った
「酒だ」
それだけ口にした。俺と奴隷の前に膳を並べ酒盃を置いて、玉依さんが酒を注いでくれる。俺は黙って猪口を捧げ、一気にあおった。アサルも俺の真似をしてあおったが、たちまちむせて真っ赤な顔になる。
「そこに座られると、庭の猫が見えんが」
顎の無精髭を、ざりざりとさすっている。
「すまん」
謝りながらも、俺は動かない。
「……船出はいつだ。いつ乗ればいい」
「まだなにも言ってはおらんぞ」
「お前が来たではないか」
小魚をまるごと口に放り込むと、大綿は腕を組んだ。
「お前は、俺の暮らしを大事にしてくれる。それでも来るのは、どうしても俺に頼りたいときだ。厳しい海渡りだからに決まっている。潮見や風見、星見の見立て、そして采配に優れた船人が必要なのだろう。それに――」
顎をしゃくって奴隷を示す。
「そこな異国女。船に積むのに買ったのだろう。港で
「旅立ちの日はまだわからん。
眉の脇を掻く。
「五葉……。長い船旅で、それまでに備えを終えるのは厳しい」
庭から上がってきた白い仔猫を招き寄せ、魚の頭を投げて撫でている。
「往き先はどこだ」
「
猫を撫でる手が止まった。
「波斯……だと。海路の図も地図もないぞ。そもそも辿り着けた者すらいない」
大綿は、嫁と子供を下がらせる。明るく陽が射す広間に、三人だけが取り残された。
「そうか、俺に死ねという事だな。そしてお前も死ぬ。そこの女も。全ての船人も」
「お前の
「ふん……」
大綿は上を向いて考えている。
「噂は聞いていた。
「断ってもいいぞ」
「馬鹿を言うな。お前が呼べば、俺は行く。俺達はそうではないか。たとえ地獄でもな。……それに、その女も味わってみたいし」
好色そうに、にやりと笑う。大綿は、
「
「気に入ったか、アサルだ」
「まだわからん」
奴隷を連れて来たのは、
「アサル、お前、船は大丈夫なのか。揺れるぞ」
質を見定めたいのだろう。大綿が女に呼び掛けた。
「だ……大丈夫だ。私は船など……」
酒に当たったのか、アサルが少しふらふらしながら答える。
「小舟の地乗りではないぞ。大きな
「へ、平気だというに……それに陽高に護ってもらう」
そのままぐったりと俺にもたれかかり、倒れて寝てしまう。
「なんだこれは。船には強いが酒には弱いか」
大声で笑い出した。
「うん陽高よ、俺の見立てだと悪くない、船の女として」
「この小娘は、少し変わっている」
「そうか。陽高も気に入っているのだな」
大綿は目を細めた。
「大綿。お前と知り合って、もう三十年。俺は老けた。この女の強い瞳に惹かれた」
「ふん……。陽高、波斯でなにをする」
「人を探せと」
「人を……」
「神木蘇りに力を持つ者だそうだ。それを連れ帰れと」
「……そうか、それで」
大綿には、なにか心当たりがあるようだ。豪放な気の
「女だろう」
「そう聞いた。
「……となると、帰りの旅も、とてつもなく
また顎の下を撫でている。猫はすっかり膳の
俺は黙って頷いた。雨風などの「読めない」天の配剤を除けば、おおむね帰りは楽になる。一度波路を試した後だからだ。沖乗り
しかしそこに、船旅の心得もないような弱い女が紛れるとどうか。なにしろ狙いはその女を安芸まで無事連れ帰る事だ。弱って死んでしまっては不始末となる。辛さで魂と胆が壊れてしまっても、し損じだ。荒れた航路は避け、穏やかな海を通らざるを得ないかもしれない。もちろんそこには海賊どもが待ち構えている。
「この航海で、俺達は必ず死ぬ。
「それが
にやりと笑う。
「生きて帰った折には、これだ……」
城主の
わずかの間、目を通したが、大綿はすぐに脇に放り投げてしまう。
「金に宝に位か。まあ値千金の申し出と言えるな。ただし生きて戻れたらの話だ」
また髭を掻いている。
「そうだ」
「今さら堅苦しい
「俺もそう思う。戻ったときには、なんだかんだと難癖を付けられそうだ。だから旅立ちまでに、そこはうまく
「ふん」
大綿は、まだなにか考えている。
「陽高よ、誰を選ぶ、船人に」
「源内殿がいいと思う」
「平賀源内か……。もう歳だがな」
「あの男は
「ああ。源内なら医術と蛮語を任せられる。それに星見や漁労にも使える。良いだろう」
「残りを迷っている」
「異国の港で、ぎりぎりの掛け合いをする事になる。胆が太く相手を読める奴が、どうしても入り用だ。下手に掛け合いして船に多くの金銀宝玉があると知られ、しかもこちらの手勢わずかと悟られてしまうと、女以外は皆殺されてしまうだろう」
「もちろんだ」
「かといって、波斯となると長き沖渡りがあるだろうから、多勢で向かうのは、とても危うい。それに生きて戻れるかわからん旅行きに、人が多く集まるとも思えん」
「その通りだ。だから少ない船人で済ませたい」
「当たり前だが、舵取りに優れた男がいる。戦になった折に貢のある働きをする男も」
「いずれにしろ少ない手勢だけに、ひとり死んでも残りの船人で埋め合わせられるよう、船人は多くの器量を持っている事が望ましい」
「陽高の望みはわかる。だがひとつの技量に秀で、なおかつ他の天分もとなると、人は限られる。適した船人を選ぶのは難しいだろう」
「しかも、そりの合うかがある。少ない船人での長い波路で誰かがいがみ合えば、皆の命が危うくなる」
大綿は頭を掻き毟った。
「陽高よ。考えれば考えるほど、やはりこの航海は駄目だ。成就どころか、旅立ちまで辿り着けまい。安芸を捨て、逃げてはどうだ。そこな奴隷と共に。俺の女のところに隠れろ。船で送ってやる。木花は諦めろ。神木船では目立ち過ぎる」
「申し出有難いが、それはできん……」
襟を開き、
「なんだそれは……。いや、知っているぞ俺は」
眉を寄せ目を細めたまま、腕を組んで袖に入れてしまった。
「……そうか。命を捨て地獄に飛び込み、嫁すら取らず四十年近くも安芸を支え伸ばすにこれほど
「大綿よ、万事考えておいてくれ。俺は
残忍な勾玉を見た憤りが消えないのか、大綿は黙って首を縦に振った。
「もう帰るぞ、アサル」
まだ眠っている奴隷を揺り起こした。
「な……なんだ、どこに帰る。もう権之助のところは嫌じゃ。飯もまずい」
「俺の屋敷だ」
「陽高のか。いよいよ
俺の腕を抱えて、また寝てしまう。
「……なに言ってるんだ、こいつ」
大綿は大声で笑い出した。
「いや、この奴隷は傑作だ。たしかにこの女なら、八方塞がりのお前ですら癒せるかもしれん……。水を持ってこさせよう。半刻ほど寝かせていくといい」
「助かる」
「こやつに伽をさせるのが、待ち遠しくてならん。なんならこのまましばらく俺に預けておけ」
「それは無理だ」
「わかっている。
女が白猫と一緒に丸まって寝ている横で一刻ほど、さまざまな準備について、さらにふたりで細かく詰めていった。
■注
末法の世 仏法が衰えた悲惨な時代。「世も末」の意
伽・
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