一之四 大綿

 大綿おおわたの屋敷の門は、夜も昼も、いつでも開け放たれている。前庭が広いので、近所の餓鬼がきが幾人も走り回ってたわむれていた。


 門を潜ると、餓鬼どもが奇妙な異人を目敏めざとく見つけた。駆け寄りはするが側には来ず、遠巻きに見守る。アサルが手を振ると、わっとばかりに散った。赤松の大きな樹の陰から、こちらをちらちらと見ている。


 引き戸を開けると勝手にそのまま土間を抜け、大広間に踏み込んだ。大広間は、幾つもの部屋の襖を開け放って造作したものだ。


 中ほどに胡座あぐらを組み、大綿は、昼餉ひるげの膳を前にしていた。


 体を厳しく使うので、安芸竹原の船乗りは昼餉を取るのが習わしだ。横におかみの玉依たまえさんが控え酌をし、五人の子は広間をごろごろ転がりながら遊んでいる。


 広間の先に進むと、庭を背に、大綿に向かう。


 六尺三寸の大男だ。薄っぺらく磨り減った紗綾形さやがたひとえから、分厚い胸板が覗いている。傷跡だらけの太い腕に、似合わないほど小さな猪口を持っている。俺が座ると大きな目がぎょろっと動く。傍らのアサルには見向きもしない。


「酒だ」


 それだけ口にした。俺と奴隷の前に膳を並べ酒盃を置いて、玉依さんが酒を注いでくれる。俺は黙って猪口を捧げ、一気にあおった。アサルも俺の真似をしてあおったが、たちまちむせて真っ赤な顔になる。


「そこに座られると、庭の猫が見えんが」


 顎の無精髭を、ざりざりとさすっている。


「すまん」


 謝りながらも、俺は動かない。


「……船出はいつだ。いつ乗ればいい」

「まだなにも言ってはおらんぞ」

「お前が来たではないか」


 小魚をまるごと口に放り込むと、大綿は腕を組んだ。


「お前は、俺の暮らしを大事にしてくれる。それでも来るのは、どうしても俺に頼りたいときだ。厳しい海渡りだからに決まっている。潮見や風見、星見の見立て、そして采配に優れた船人が必要なのだろう。それに――」


 顎をしゃくって奴隷を示す。


「そこな異国女。船に積むのに買ったのだろう。港で女郎じょろうを買うだけでは賄い切れない、遠い波路という事だ」

「旅立ちの日はまだわからん。五葉ごようの日までだ」


 眉の脇を掻く。


「五葉……。長い船旅で、それまでに備えを終えるのは厳しい」


 庭から上がってきた白い仔猫を招き寄せ、魚の頭を投げて撫でている。


「往き先はどこだ」

波斯はしだ」

 猫を撫でる手が止まった。豪放磊落ごうほうらいらくな大綿が、珍しく唖然あぜんとして俺を見る。これ幸いと、膳の上の酒肴を猫が漁り始めた。


「波斯……だと。海路の図も地図もないぞ。そもそも辿り着けた者すらいない」


 大綿は、嫁と子供を下がらせる。明るく陽が射す広間に、三人だけが取り残された。


「そうか、俺に死ねという事だな。そしてお前も死ぬ。そこの女も。全ての船人も」

「お前の嫁御よめごや子供衆、そして女達には悪いと思う」

「ふん……」


 大綿は上を向いて考えている。


「噂は聞いていた。腰巾着こしぎんちゃくのクズ役人どもが、とんでもない厄介やっかい木花このはなに吹っ掛けるとな。お前を見た刹那せつなその話だとは思ったが。よりにもよって天竺てんじくの、さらに先などと……」

「断ってもいいぞ」

「馬鹿を言うな。お前が呼べば、俺は行く。俺達はそうではないか。たとえ地獄でもな。……それに、その女も味わってみたいし」


 好色そうに、にやりと笑う。大綿は、扶桑ふそうのあちこちに女と子供がいる。木花で厳しい旅を重ね、もう十分な蓄えを積んで、半隠居として、もっぱら自分の船で女どもを訪ね歩いている。


陽高ひだかよ、お前はずるいぞ、俺のところに女を連れて来るなどと。断れなくする魂胆で」

「気に入ったか、アサルだ」

「まだわからん」


 奴隷を連れて来たのは、要石かなめいしたる大綿に会わせたかったからだ。


「アサル、お前、船は大丈夫なのか。揺れるぞ」


 質を見定めたいのだろう。大綿が女に呼び掛けた。


「だ……大丈夫だ。私は船など……」


 酒に当たったのか、アサルが少しふらふらしながら答える。


「小舟の地乗りではないぞ。大きな廻船かいせんで延々沖渡りする恐ろしさを知らんだろう」

「へ、平気だというに……それに陽高に護ってもらう」


 そのままぐったりと俺にもたれかかり、倒れて寝てしまう。


「なんだこれは。船には強いが酒には弱いか」


 大声で笑い出した。


「うん陽高よ、俺の見立てだと悪くない、船の女として」

「この小娘は、少し変わっている」

「そうか。陽高も気に入っているのだな」


 大綿は目を細めた。


「大綿。お前と知り合って、もう三十年。俺は老けた。この女の強い瞳に惹かれた」

「ふん……。陽高、波斯でなにをする」

「人を探せと」

「人を……」

「神木蘇りに力を持つ者だそうだ。それを連れ帰れと」

「……そうか、それで」


 大綿には、なにか心当たりがあるようだ。豪放な気のたちだが、風説ふうせつにもさとく、正しい判断を導く力がある。そこがこの男の優れたところだ。


「女だろう」

「そう聞いた。にえとなるべき豊穣ほうじょう生娘きむすめとか」

「……となると、帰りの旅も、とてつもなく厄介やっかいとなる。いやむしろ、往きの道行きより危ういかも」


 また顎の下を撫でている。猫はすっかり膳の酒肴しゅこうを平らげてしまい、前脚で顔を洗っている。


 俺は黙って頷いた。雨風などの「読めない」天の配剤を除けば、おおむね帰りは楽になる。一度波路を試した後だからだ。沖乗り船人ふなびとの勘は鋭い。一度見聞きするだけで、潮や風、陸の形など多くの智慧を得、次に同じ海を通るときにそれを生かす。


 しかしそこに、船旅の心得もないような弱い女が紛れるとどうか。なにしろ狙いはその女を安芸まで無事連れ帰る事だ。弱って死んでしまっては不始末となる。辛さで魂と胆が壊れてしまっても、し損じだ。荒れた航路は避け、穏やかな海を通らざるを得ないかもしれない。もちろんそこには海賊どもが待ち構えている。


「この航海で、俺達は必ず死ぬ。安芸あきに四百年近く君臨した神木船かみきぶね木花このはなも、ついに滅びる。しかし万にひとつ生きて帰れるすべを、命を懸けて探し出してみせる」

「それがおさの仕事だ。言い伝えでは、神木船は滅びるときに護り神が人型として顕現けんげんし、船頭ふながしらに別れを告げるという。木花なら、姫が見られるわけだな。これは楽しみだ」


 にやりと笑う。


「生きて帰った折には、これだ……」


 城主の花押かおうが入った手形を一枚、大綿に渡した。


 わずかの間、目を通したが、大綿はすぐに脇に放り投げてしまう。


「金に宝に位か。まあ値千金の申し出と言えるな。ただし生きて戻れたらの話だ」


 また髭を掻いている。


「そうだ」

「今さら堅苦しいおかでの奉公など、嫌なこった。俺が行くのは、お前が長として俺を求めたからだ。たしかに金は嬉しいが、どうせ戻れまいと思っての空手形だろう、これは。だからこその大判振る舞いだ」

「俺もそう思う。戻ったときには、なんだかんだと難癖を付けられそうだ。だから旅立ちまでに、そこはうまく差配さはいする」

「ふん」


 大綿は、まだなにか考えている。


「陽高よ、誰を選ぶ、船人に」

「源内殿がいいと思う」

「平賀源内か……。もう歳だがな」

「あの男は学修がくしゅうに命を懸けている。この世の真の理を掴めるなら、自身は滅してもいいと。ならばこそ、この波斯征きも、二度とは訪れぬ良き折と思えるはずだ」

「ああ。源内なら医術と蛮語を任せられる。それに星見や漁労にも使える。良いだろう」

「残りを迷っている」

「異国の港で、ぎりぎりの掛け合いをする事になる。胆が太く相手を読める奴が、どうしても入り用だ。下手に掛け合いして船に多くの金銀宝玉があると知られ、しかもこちらの手勢わずかと悟られてしまうと、女以外は皆殺されてしまうだろう」

「もちろんだ」

「かといって、波斯となると長き沖渡りがあるだろうから、多勢で向かうのは、とても危うい。それに生きて戻れるかわからん旅行きに、人が多く集まるとも思えん」

「その通りだ。だから少ない船人で済ませたい」

「当たり前だが、舵取りに優れた男がいる。戦になった折に貢のある働きをする男も」

「いずれにしろ少ない手勢だけに、ひとり死んでも残りの船人で埋め合わせられるよう、船人は多くの器量を持っている事が望ましい」

「陽高の望みはわかる。だがひとつの技量に秀で、なおかつ他の天分もとなると、人は限られる。適した船人を選ぶのは難しいだろう」

「しかも、そりの合うかがある。少ない船人での長い波路で誰かがいがみ合えば、皆の命が危うくなる」


 大綿は頭を掻き毟った。


「陽高よ。考えれば考えるほど、やはりこの航海は駄目だ。成就どころか、旅立ちまで辿り着けまい。安芸を捨て、逃げてはどうだ。そこな奴隷と共に。俺の女のところに隠れろ。船で送ってやる。木花は諦めろ。神木船では目立ち過ぎる」

「申し出有難いが、それはできん……」


 襟を開き、勾玉まがたまを見せた。


「なんだそれは……。いや、知っているぞ俺は」


 眉を寄せ目を細めたまま、腕を組んで袖に入れてしまった。


「……そうか。命を捨て地獄に飛び込み、嫁すら取らず四十年近くも安芸を支え伸ばすにこれほどした男に対し、この仕打ちか。正に末法まっぽうの世……」

「大綿よ、万事考えておいてくれ。俺は兵糧ひょうろうや掛け合いに使う博物はくぶつ仕入れなど、できるところから進めておく。人選びは、また摺り合わせよう」


 残忍な勾玉を見た憤りが消えないのか、大綿は黙って首を縦に振った。


「もう帰るぞ、アサル」


 まだ眠っている奴隷を揺り起こした。


「な……なんだ、どこに帰る。もう権之助のところは嫌じゃ。飯もまずい」

「俺の屋敷だ」

「陽高のか。いよいよとぎをさせるつもりだな。この助平めっ」


 俺の腕を抱えて、また寝てしまう。


「……なに言ってるんだ、こいつ」


 大綿は大声で笑い出した。


「いや、この奴隷は傑作だ。たしかにこの女なら、八方塞がりのお前ですら癒せるかもしれん……。水を持ってこさせよう。半刻ほど寝かせていくといい」

「助かる」

「こやつに伽をさせるのが、待ち遠しくてならん。なんならこのまましばらく俺に預けておけ」

「それは無理だ」

「わかっている。たわむれだ。お前はこの小娘に関して仕事があるだろうしな」


 女が白猫と一緒に丸まって寝ている横で一刻ほど、さまざまな準備について、さらにふたりで細かく詰めていった。




■注

昼餉ひるげ 昼食。江戸時代では一般的に昼食は食べない

紗綾形さやがた 着物の模様の一種

ひとえ 裏地のない夏向きの着物。単衣とも

六尺三寸ろくしゃく・さんずん 約百九十センチ

女郎じょろう 売春婦

五葉ごよう この世界の二十四節(季節)のひとつ

豪放磊落ごうほうらいらく 細かいことを気にせず太っ腹

腰巾着こしぎんちゃく 権力者に媚を売る小者の悪人

地乗じのり 陸からさほど離れず、地形で判断しながら航路を決める航海手法。必然的に沿海航路しか取れない

風説ふうせつ 噂

末法の世 仏法が衰えた悲惨な時代。「世も末」の意

伽・夜伽よとぎ 寝所で女が男の相手をすること

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