一之二 奴隷商人
閉まった門を背に、少しの間、考えていた。目の前に広がる城下、その向こうの海から、優しい風が吹いてきて、顔と頭を冷やしていく。この匂いだと、明日は嫌な
俺を巡ってきな臭い動きがある事を、前から察してはいた。四十五年に及ぶ
これまでも政で
土俵の際まで追い込まれ命が危うくなったときでも、それを持ち出し新たな
深く息を吐いて力を抜くと、歩き出した。
扶桑の誰もが知らぬほど長く、しかも厄介な海渡りとなる。それなのに、旅立ちまでの縛りがきつく切られている。潮目があるからだ。俺が持つ全ての
城から城下へと山を下っていくに従って、
どのようなところから手を着けるべきか、ぼんやり考えながら歩き続けた。
やはり、まず人の手当てだろう。
木花が海を進むと、瀬戸内の多くの船は波路を空け、船頭は手を合わせて自らの船の息災を祈る。木花が特に計らいを受けているわけではない。扶桑で唯ひとつ生き残っている
神木船は、多くの不思議な力を持つ。大きな
もちろん長い旅になるので、船人の
この度も、大洋を渡る沖乗りは避けられない。
船人を多く積んでの海渡りともなれば、
ならばこそ、人は絞っておきたい。わずかな船人で舵取りできる神木船なれば。それに貯えの件が片付いたとしても、務めの難しさを考えると、おそらく戻っては来れまい。船人は皆、死ぬ事となる。それでもついてくる剛の者を集めなければならない。追い詰められたときの仲間割れを考えると、船人を増やして気心知れない輩まで乗せるのも
この旅の縛りを全て織り込むとなると、船人を束ねる
俺は溜息を漏らした。
しかし……
「
段取りについて深く
「なんですか、そんな鳩が豆鉄砲を食らったような顔で。この権之助をお忘れで」
寄ってきたのは、奴隷を商う男だ。
奴隷商いは相手が
俺が黙っていると、大きな目がすっと狭まった。
「おやおや、今度は暗い顔ですね。……ははあ、あれですか。例の噂のお務めを、とうとう押し付けられたってわけですか」
権之助は、奴隷や遊女の
「試しのないほど長い
珍しく、素で語る顔をする。信じられるかは別だが。
「お前には関わりない事だ」
通ろうとすると、ぐいっと腕を掴まれた。
「嫌ですよお、そんなに怒られては。あっしと旦那の仲じゃないですか。いつだって質の良い奴隷をあてがってまいった、この権之助の
「悪いが急いでいる」
俺の腕を放すと天を見て、少し考えた。
「かなり急かされておられるのですね、天津様。ご城主は、潮目が悪くなる前、次の
大黑屋に導こうとする。
「女がいりましょう、長きに渡る海渡りともなれば。とっておきの奴隷をお譲りします。ささ、こちらへ……」
あえて権之助の誘いに乗る事にした。いずれにしろ女は入り用だ。ついでに風説に聡いこの男から
男の商いは、安芸のような国にしては手広く、大店だ。大黑屋には、奴隷を収めた柵が乱れなく配されている。店の一番奥に、権之助は俺を導いた。途中幾つもの柵があり、
風も通らぬ奥にあるからか、湿り気が強く感じられる。明るい辻から急に暗い陰に入ったので、目がついていかない。中に誰かいるようだが隅に立っており、姿は闇に紛れている。
「へえ、こいつで」
目が暗がりに慣れるのを待った。慣れると見えてきた。天井まで続く木の柵に囲まれていたのは、異国の女。
これは
胡人を前に、俺は束の間、
しかし
だが俺の船は遠くまで
ひとりより多く載せる事は、よほどでなければしないよう決めている。狭い船で女と女がいがみ合うとどうなるか。たったそれだけで務めを損じ、しかも人死にを多く出した船も知っている。
ふたり載せるとすれば、その
長い辺境征きの航海が終われば銭をたんまり持たせ、奴隷の身分から解放する。辺境往きは命懸け。得られる宝も特別だから、報奨も大きい。女も俺の船人だ。金は全員に公平に渡す。誰にも文句は言わせない。
「どこの国から来た」
胡人は黙っている。
「権之助、こいつは話せないのか」
「いえ話せますよ旦那。ただ
弱いところを突かれたようで、権之助の揉み手が激しくなる。
「本当に話せるのだろうな」
口の
「へ、へえ、確かで……。ほらお前、なにか話してさしあげろ、また飯を抜かれたいか」
「お前どもに
初めて口を開いた。並外れた色白で、薄銅色の髪が長く垂れている。
「旦那に向かって、なんて口を利くんだこのアマ。お前を買って下さる得難い方だぞ」
「お前に買われる気もない。帰れ」
俺を睨む。どうやら型通りの奴隷ではなさそうだ。暗い柵に閉じ込められさんざん脅されるうちに、どんな女も御しやすく仕立て上げられていくものなのに。
「どこで仕入れた」
「へえ。安芸の漁師が土佐を抜けた折、小舟で潮を流されていたこいつを拾って、あっしに持ち込んだ次第でして」
「異国の女が、なぜ話せる。お前が教えたのか」
「いえあっしも不思議なんですが、最初から話せてまして。……いくら脅しても訳を言いやがらないんでこのアマ。おそらくどこぞで奴隷にされていて、主を殺して逃げたのでしょうな。……いえいえ、今はもう人を殺すなどできもしないほど大人しい奴で」
口を滑らした権之助が汗をかいている。女は、俺と権之助を睨み続けている。
「ふん……。これがまっすぐないい女なのか。お前が言うように」
「へ、へへえ、こりゃまいった……」
話が流れそうだと悟り、権之助は、困ったような怒ったような色を瞳に浮かべた。
「こいつは駄目だ。これまで扶桑の誰も行った試しのない、西への長い
「お前、船の頭か」
胡人の女だ。ずっと離れていたのに、今は俺に近づき、柵を握っている。
「だったらどうした。俺が船の長だ」
「西に往くのか」
瞳が輝いている。
「そうだ」
「
「ずっと先、伝え聞く
「そうか……」
今初めて見るかのように、俺の顔をまじまじと見つめた。そして口を開く。
「お前、私を買え」
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