第4話 君の名前
「あっ、泥棒!」
一瞬遅れて気づいた曇曜が叫んだ。が、その時には既に少女は行動に移っていた。
左手を豪快に振って手に持っている物を泥棒に向かって投げつける。そして次の瞬間には今度は右手を豪快に振って右手に持っていた細長い物を投げた。
二本の細い剣は平城の埃っぽい風を切り裂くようにして真っ直ぐ飛び、一本は泥棒の左の膝の裏、もう一本は右の膝の裏に突き刺さった。
「うあっ!」
突然両足に攻撃を受けて、短く悲鳴を挙げた泥棒は思わず足がもつれて地面にうつ伏せに倒れてしまった。その拍子に槍を手放してしまう。
「警備兵さん! 泥棒です!」
曇曜が大声を挙げる。その頃には少女が倒れた泥棒の腕を後ろ手に捻り上げていた。周囲の人々が騒動に気づき始めてざわめく。
人通りの多い往来なので、当然ながら治安維持のための警邏兵が騒ぎを聞きつけてほどなくして駆けつけた。
警備兵に引っ立てられた泥棒は「召集令状が来たので武器を用意しなければならなかったけど、貧しくて買えないので、つい盗んでしまった」とその場で供述していた。
「結局、戦争が大元の原因ですか。世が泰平になればこのような犯罪は減るはずなのに。だからこそ、仏の教えが重要だということですか」
自分に言い聞かせるように、曇曜は呟いた。
「それはそうと、さっきは何を投げたんですか?」
「これだよ。お坊さんが自分の用事で買い物に行っている間に武器屋で買っておいたんだ」
少女が得意げに見せたのは、数本の極めて細長い剣だった。長い針、と言った方が近いかもしれない。
「これを、籠手の内側に仕込んでおくことにしたんだ。早速役に立つとは思わなかったけどね」
取り戻した槍を満足そうに撫でながら、少女は針を籠手の内側に収納した。
「しかし見事な技でした。右手と左手で投げていましたよね。それに相手の腕を後ろ手に捻り上げるところといい、惚れ惚れするような動きの鮮やかさ。とても怪我人とは思えませんでした」
「僕は左右両利きなんだよ。普段はこれで石を投げて兎を狩っているからね」
曇曜は素直に感心した。この少女、戦闘力が高く、見た目よりは遥かに逞しく生きることができるのだ。
正午頃から市場巡りを始めて、途中で無駄足もあったため時間を食ってしまい、もう夕方近くになってきた。日が傾いて少女の背中を斜めに照らしていた。
曇曜の目に、少女の姿が輝いて見えた。彼女に惹かれている、という気持ちが曇曜の中で栴檀の双葉のように瑞々しく芽生えていることを認識していた。あるいは都全体に漂う木蘭の甘い香りに酔わされているのかもしれない。
「そんなことより、馬を買わなくちゃ。でも、高いんだよなあ。そもそも馬具も買うことを考えると、残りの予算が少なすぎて肝心の馬が買えそうにないよ」
「暗器の針なんか買って無駄遣いしたからですよ」
とは言ったものの、曇曜は同情を禁じ得なかった。恐らく少女は、家にあるありったけの蓄えを持ってきているはずだ。そうでなければ裕福でもない庶民が、高価な武器や防具などを纏めて買えたりはしない。
先ほどの泥棒のように、他人の武器を盗んで調達しようとしていないだけ、少女の家庭はまだ大分マシな方なのだ。
なんとか、彼女の助けになってあげたい。僧侶としての慈悲の心を逸脱した感情の干渉があることを自覚しながらも、曇曜は策を考えた。
「そうだ。馬なら、ウチのお寺の近所の人が年老いた馬を飼っていて、寿命で死んでしまう前に手放そうかなって言っていたから、そこで買ったらどうでしょうか? 自分からも話しておきますよ」
曇曜は自分の寺と、近所で老馬を飼っている人の名前と場所を告げた。
「年寄りの馬? 戦争に行くのにそれじゃ不安だなあ」
「別に今すぐぽっくり死んだりはしないと思います。それに、良い馬が欲しいのなら、戦場に行ってから調達すれば良いのではありませんか? 相手は馬に乗った騎馬民族なのでしょう? だったら相手の兵を倒して、乗っている馬を奪えば良いのです」
少女は呆れたような笑顔を浮かべた。
「お坊さんが、そんな、相手を殺して奪うことを提唱していいのかよ」
「勿論本来はダメですが。でも、戦争に行くってことは、それくらいのことをしなければ、自分が生き残れないと思います。相手を殺さなければ自分が殺される。そういう場所でしょう。あなたのお父さんには、生き残ってほしいのです」
少女の表情が微かに動いたことを、曇曜は見逃さなかった。
「そういえば槍を買った時から気になっていました。戦争に行くのは誰ですか? 本当はお父さんじゃないですよね?」
「さすがお坊さん。ご明察だね。そうだよ、僕が男のフリをして行くんだ。お父さんは病気で戦争に行けないから」
だから少女は父のためではなく、自分の使いやすい槍を買い、自分の体の大きさに合った防具を買い、自分が使い易い針を買った。
「そうですか」
曇曜の声が沈んだ。先刻の槍の置き引きもそうだが、そういうことが起こる殺伐とした世を変えたい。だからこそ自分が仏の教えを深めなければならないのだ。
東の空が闇に覆われ始め、北東の白登山の木々の緑が色濃く黒く染まり、日は暮れようとしている。寺の使いで買い物に来た曇曜としては、時間を食いすぎてしまった。日没の前までに戻らなければならない。
「さて、今日はもう帰らなくちゃなりませんね」
「お坊さん今日は色々ありがとう。一緒に居てくれて頼もしかったよ。僕、お坊さんのこと、好きになっちゃいそうだな」
少女の顔が赤らんで見えるのは、夕陽のせいだけだろうか。
「また、お坊さんに会えるかな?」
「……あなたが戦争に行くまでなら、どこかで顔を合わせることもあるかもしれませんが。でも、戦争に行った後は……生きて帰って来ないことには、再び会うことも叶わないでしょうね」
仏教らしい価値観の物言いだった。そしてそれは、曇曜自身が彼女に対しての未練を断ち切るための斧だった。
「そうか。生きてこの平城の都に帰ってくることができたら、またお坊さんにも会えるんだね。それなら大丈夫だよ。僕はこう見えて結構戦いは強いし、運にも恵まれているんだ」
「そういえば、君の、名前は?」
二人が出会った時、最初に曇曜は名乗ったけれど、少年のフリをした少女は全く名乗っていなかったのを思い出した。
「木蘭、だよ。花木蘭っていうんだ」
「なんだ、女の子らしい、きれいな名前じゃないですか。私は僧侶ですから女人に触れるのは禁止されていますが、あなたのことは、嫌いではなかったですよ」
更に陽が傾き、地面に落ちる二人の影が薄くなり、長くなった。影は別々の方向へ別れて行った。
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