第五章〈トリスタン敗北〉編

19話 トリスタンと母(1)

 すでに述べたように、トリスタンはシノンに着く前に姿を消していた。

 オリヴィエはあれから一度もトリスタンを見ていなかったが、特に心配も驚きもしなかった。トリスタンの性格に慣れていたから、いつものように狩りに行ったか、周辺を探索しているのだろうと考えていた。何より、若き伯爵はカルナック軍を率いる責任者だから、従者ひとりを気にしてばかりいられない。


 それに、オリヴィエの心は、故郷を旅立ってから見たものすべてに刺激を受けて夢中になっていた。


 予言の通りに、偉大な祖先と異教徒が眠る墓の石が700年ぶりに持ち上げられたこと、祖先のレオン・ド・カルナックと交わした会話、老伯爵が言い残した不思議な啓示、墓から消えたサラセン人、さらにジャンヌとの出会いと目撃した奇跡の数々——これらすべてがオリヴィエの興奮と思索をさらに深めさせた。


 手紙を通して、母親と婚約者のアリスにも報告した。

 しかし、オリヴィエはすべてを伝えたわけではなかった。


「レとカルナックが血縁的に混ざり合うようなことが、トリスタンの人生に起こったのだろうか。なぜトリスタンは予言を成就させる執行者になったのか」


 深刻に悩んでいることだけは誰にも話さず、心の中で自問自答を繰り返していた。

 オリヴィエは、予言と事実について納得できる理屈を探していた。予言詩の一文「レとカルナックの血が混ざる」と、トリスタンが予言を成就した事実である。


 オリヴィエは、予言と事実について納得できる理屈を求めていた。

 予言の一文にある「レとカルナックの血が混ざる」と、トリスタンが予言を成就した事実である。


「予言と事実には、おそらく相関関係があるはずだ。トリスタンの出生にまつわる重大な何かが……」


 しかし、この時のオリヴィエには全貌はまだ見えず、進むべき道も結論も見出せなかった。結局、母親に宛てた最後の手紙で「この件について知っていることがあれば教えてほしい」と書き添えた。


 不確かな「予言」が、オリヴィエを真剣に悩ませたとしても驚くことはない。

 この物語が描こうとしている時代は、神秘や魔術といったディテールに満ちていて、こういうオカルティックな話がまじめに受け入れられていた。


 「神と悪魔の戦い」という思想が消えていくのは15世紀以降である。


 それ以前の人々は、善と悪の二つの力が世界の支配をめぐって争っていると本気で信じていた。神や天使、悪魔の存在を信じ、望みを叶えるためにその力を利用したり頼ろうとする人間がいた。


 冷静で聡明な教養人も例外ではなかった。


 神や悪魔を恐れる思想と、人々の願いと欲望を利用して、呪術や薬物を使って利益を得たり、精神を狂わせる者もいた。悪魔の力だと信じた人はますます真剣に研究し、新しい方法を思いつくたびに人間世界に広めたが、現在、まともに検証可能な効果はほとんどない。


 例えるなら、子供のころは幽霊をあれほど恐れていたのに、成長するにつれて笑い話になるようなものだろう。


 しかし、15世紀当時はこういう信仰と思想が根付いていた。

 誰もが受け入れ、無知で野心的で唯物論的な精神によって利用された。

 現世の利益を求める者や、死後に訪れる「永遠」を信じられない者は、みずからの魂と引き換えに望みを叶えようとした。悪魔との契約では、根拠のない「魂」を取引材料にして、一方的に「もらう」ことを望んだ。





 ジャンヌを見つけた後、トリスタンはカルナック軍一行が来た道を引き返した。疲れ知らずの黒馬バアルは、稲妻と風のような速さで平原を横断した。

 ポワティエの荒れた平野では、再び封印したばかりの墓石のそばを通り過ぎたが、トリスタンは何の感慨もなく、止まるどころか一瞥もしなかった。


 トリスタンは、カルナック城にのみ立ち寄った。

 オリヴィエが出発して以来、城内は平穏でとても静かだったので、バアルが中庭に駆け込んでくると、城内に残っていた者たちが何事かと集まってきた。


「この騒ぎは何事です? オリヴィエからの使者かしら」


 伯爵夫人が様子を見に行こうすると、一歩を踏み出す前にトリスタンが現れた。異様に青ざめていて普通ではない雰囲気に、伯爵夫人は悲鳴を上げた。


「オリヴィエに何かあったの!」


 息子の不幸を察した母親の第一声だった。


「まだです」


 トリスタンは暗澹たる表情で答えた。


「まだ何も起きていませんよ」

「では、なぜトリスタンは帰ってきたの?」

「理由はもうすぐわかりますよ、奥様」


 伯爵夫人は、ひとまずオリヴィエについて安堵したが、次にトリスタンの様子を心配し始めた。


「大丈夫? ひどい顔色だわ。何かあったのね」

「ここにいるのは俺たちだけですか?」


 伯爵夫人はうなずいた。


「誰にも聞かれませんか?」


「誰もいないわ。なぜ、そんなことを聞くの?」


「奥様への敬意ゆえに。俺がこれから話すことは、現時点ではあなただけにしか話せない内容ですが、すぐにみんなも知ることになります」


 トリスタンは「座ってください」と椅子を勧め、伯爵夫人は従った。


「一体、どうしたの?」


「単刀直入に申し上げます。奥様もご存知の通り、この城には予言があります。俺が知っている予言の意味は『レとカルナックの血が混ざった誰かがポワティエにある墓の封印を解き放つ』だったはずです」


「ええ、そうだったわね」


 伯爵夫人は得体の知れない恐怖を感じてやや仰け反りながらも、トリスタンの鋭い視線から目を離さなかった。


「予言の意味することは『これ』でしょうか?」


 胸に手を置き、暗に「自分」を示した。


「もしかしてトリスタンは……」


 伯爵夫人は小刻みに震えながらも、続きを話すようにと促した。


「奥様は、この話の続きを聞きたいとお望みなのですね」


 トリスタンは皮肉と敬意を込めて言った。


「城を出てから、俺たちはポワティエの平野を横断しました。誰もあの墓の石を持ち上げようとしなかったので、俺が持ち上げました。墓の中で、二人の男が今も戦っているのを見つけました」


「今も戦っている……ですって?」


「ええ、レオン・ド・カルナックとサラセン人は墓の中で生きていました」


 伯爵夫人は悲鳴をあげて立ち上がり、トリスタンは念を押すように繰り返した。


「封印を解かれたサラセン人が俺にすべてを教えてくれました。オリヴィエのルーツがあの墓に眠る英霊カルナック伯爵だとしたら、俺のルーツは異教徒の悪霊サラセンです」


「何を言っているの?」

「俺はサタンの息子であり、罪人の息子なんです」


 トリスタンは腕組みをしながらじりじりと伯爵夫人に迫った。


「俺は魔術師マーリンに予言された者です」


 そう告げると、伯爵夫人は自然に後ずさりした。


「ねえ、奥様。なぜ有力な貴族と貴婦人の息子である俺が、そのどちらの名前も持たないのでしょう。理由を聞かせてもらえませんか」


 この質問は、伯爵夫人に混乱と驚きを引き起こした。

 トリスタンの言葉の真意が浸透するにつれて脱力し、視線を落とした。


「ねえ、母上。答えてくださいよ」


「……トリスタンはすべてを知っているのに、わたくしに何を言わせたいのかしら」


「母上は俺が何を望み、何を要求しているかを理解しなければならない」


「何が望みなの?」


「俺はあなたの息子であると宣言して欲しい。みんなの前で『トリスタンは私の息子だ、オリヴィエと同じ名前と身分を持つ権利がある、名前と称号を与えよう』と大きな声で言って欲しい」


「では、トリスタンはすべてを知っている訳ではないのね」


 伯爵夫人は、妙に優しい声で言った。


「もし知っていたら、今言ったようなことは言わないでしょうし、あなたが求めていることは不可能だと理解できるはずです」


「不可能? ああ、そんなことを言ってはいけませんよ」


「いいえ、不可能よ」


 伯爵夫人は念を押すように繰り返した。


「なぜなら、トリスタン。あなたは聖なる結合の子であるオリヴィエとは違う。冒涜的な犯罪の子なのですから」






【追記】


本作を電子書籍/ペーパーバック化するにあたり、規約の都合上、非公開にしました。見本代わりに、本編冒頭〜主人公が登場するまで、各章1話目と登場人物紹介を残しています。

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