第四話 ル・モン・ルルの目抜き通り

 閉鎖都市に、青空などない。

 ここにあるのは閉じて汚れた煤煙ばいえんの暗雲だけ。

 それすらも知らないというのは……いくら世間知らずでも有り得ない。


 この国が閉じてから、約百五十年。

 一度も青空が見えた試しなどないのだから。


 記憶喪失というのは、常識にさえ影響を与えるのだろうか?

 そんな疑義ぎぎを、少年は「絵本に憧れて」という一言で解消してみせた。

 ユアを助けたとき、大切そうに抱きかかえていた、あの煤だらけの絵本だった。

 どうやら国が閉じる以前に描かれたものらしく、そこには確かに、蒼い空が描写されていたのだ。


「私は一つ、妙案を思いついたぞ」

「奇遇だなエウセスカ。まさか同レベルの発想をおまえが出来るとは思わなかった」


 飛んでくる裏拳。

 スウェーでかわす。

 目を丸くする少年に、俺はウインクを飛ばす。

 途端に、彼の顔がバラ色に染まった。

 細い両腕が、胸の中の絵本をぎゅっと抱きしめる。


 絵本の内容は、ありきたりな創世神話を子ども向けにしたものだ。


 世界には初め、空と海だけがありました。

 カミサマが人間を作りましたが、住む場所がありませんでした。

 人間を憐れに思った天使が舞い降りて、人々は大地を手に入れました。

 大地からは空がとても遠くて。

 なので人々は、神様に会うため、塔を建てることにしました。

 空の色は澄み切った青で――と、まあ、そういうやつだ。


「さて。この絵本は、骨董品の可能性が高い」


 ジルに言えば、そこからユアの素性を割り出してくれる可能性もある。

 その程度には、稀少なもののはずだ。


「貴様の記憶にはないのか。こと対人において、レイジの記憶容量はずば抜けていると思っていたが?」

「……それがないから妙だと思っているんだよ。似たような本は知ってるけど、この内容は心当たりがない。国が閉じる前に描かれたものだとしても、流通していたなら俺は覚えているはずだし。だとしたら、アレカの支所という可能性も捨てきれないが……いや、それよりもいまは、ユアをこのままにしておけない」

「このまま、とは?」


 このままはこのままだよ。

 怪我が治ったってのに、子どもを狭い部屋に押し込めておくものじゃないさ。


「なあ、ユア。がっかりするかも知れないけど、本当に空が見たいか?」


 俺の問い掛けにベッドの上の少年は。


「……うん。青い空が、見たい」


 強情なまでに、そう言った。



§§



「うわぁ……人がいっぱいだ……!」


 空の色が灰色であることにぐずっていた子どもは、いまや感激に目をきらめかせていた。

 ル・モン・ルル目抜き通りがい

 文字通り、この国で最も人通りが多い場所だ。


 舗装されていない道はぬかるんでおり、歩くたびに足を取られる。

 俺と相棒は、少年の両側に立って、万が一の時は手を差し伸べられるようにしながら進んでいく。

 ちなみに相棒は、日中なので愛用のこうもり傘を射していた。

 この程度の陽光で吸血鬼は死なないが、それでも日の光は好みではないらしい。


「ねぇ、みんなふたりをみてるよ?」

「エウセスカを見てるんだ」

「レイジに見蕩みとれているのだろう」

「「…………」」


 同じ意味合いの言葉を吐き出したことに居心地の悪さを覚え、俺たちは同時にそっぽを向く。

 それがおかしかったのか、少年はコロコロと笑った。


「みて、すごい! 布がたくさん……」

「あれは洗濯物だよ」


 少年が見上げた先にあったのは、建築物の間に渡された何本ものロープと、そこに引っかけられ、風にたなびく無数の白い布だった。

 狭い面積に圧し合うようにして集合住宅が存在するので、こうやって空間のデッドスペースを活用しないと、洗濯物一つ満足に干すことが出来ないのだ。

 しかし、ユアの疑問は別のところにあったらしい。


「……洗濯? こんなにも曇ってるのに?」

「これでも、晴れてるほうなのさ」


 三人で見上げた空は、青とはほど遠い鈍色にびいろをしている。

 失望するだろうと踏んでいたが、彼の榛色の瞳には少し違う感情が浮かんでいるようだった。

 少年は「ふぅん……」と不満げに声を漏らし、視線を空から地へと戻す。


「あ」


 そこで、ユアはまた目を輝かせる。

 見ていて飽きない活発さだ。


「レイジさん、あれ! あれはなにっ?」


 彼が指差した先には、いくつもの屋台が建ち並んでいた。

 宝飾品から食べ物、ガラクタと見分けの付かない骨董品……まるでのみいちの如く盛況だ。

 目抜き通りを行き交う人々は、気軽に店に立ち寄り――あるいは無視し――皆好き好きにやっている。


 横を通り過ぎると、ひとびとはうっとりとこちらを見詰め。

 それから我に返って軽く頭を下げたり、手を振ってくれたりする。


「レイジだ!」

「レイジー!」

「お馬さんの真似やってー」


 遠くから俺の頭の色をめざとく見つけた子ども達が、大人たちよりはよほど正直な感情を剥き出しにして駆け寄ってくる。

 数人の子ども達に集られよじ登られ、顔やら髪の毛やらを引っ張られて無茶苦茶にされる。


「ひとりずつ! ひとりずつだ!」


 俺は四つん這いになって、子ども達を乗せて走り回ってみせる。

 周りの大人たちは失笑したり苦笑したりするが、不快さやあざけりを浮かべるものはいなかった。

 気のいいものたちが、圧倒的に多数なのだ。


「やあ、やあ、遠からぬものは音に聞け、近くは寄って目にも見よ! われは〝めておーる公爵の姫〟なるぞー」

「ははー」


 俺に取った子どもの見栄に、他の子ども達がひれ伏してみせる。

 似ていないが、ジルの真似だ。


 エウセスカが、興味を失ったように小さくあくび。

 ユアはまた驚いている。

 俺は泥だらけだが、気にしない。

 子ども達も気にせず、笑顔で去って行った。


「意外……もっっとレイジさんって、気取ってる人かと思った」

「どうしてだよ」

「だって、かっこいいし……すごく素敵で」

「こやつは格好をつけると失敗するように出来ている。ゆえに取り繕うことをやめて久しい」


 相棒の言葉はもっともだった。

 見得を切る場面なんて、軽口を叩くときだけでいい。


「レイジさんは、何歳なの?」

「どうしてそんなことを聞くんだ?」

「だって、子どもに交ざって、泥だらけになるなんて」


 大人っぽくはない、か。

 そのあたりの常識みたいなものは、どうやら残っているらしいな。


「そうだな」


 俺は少し悩んで、横目で相棒の様子を窺う。

 彼は自分の知ったことではないと、血色の瞳を、無関係な方向へと向けた。


「見た目よりは、年食ってるんだぜ、俺って」

「じゃあ、家族とかいるの?」


 家族。

 家族、ね。


「いるよ。双子の兄がいる」

「大切な人?」

「……ああ」

「ぼくにも、いるのかな、家族って?」


 そりゃあ、いるだろうさ。

 いないわけがない。


「そっか……」


 なにやら納得した様子で頷く少年。

 その心の内を読み取るのは、なかなかに難しい。

 多感な時期だからと言うことは別で、どうにもこちらからの干渉を弾く手応えがある。


 彼はそれからも、しばらく周囲をキョロキョロと見回していたが。

 やがて。


「レイジさん」

「呼び捨てでいいって。俺はさん付けされるような偉い人間じゃないんだ」

「……なら、レイジ。あのひとたちは、なに?」


 雑踏を、少年は指差した。

 ユアの眼差しと言葉は、酷くまっすぐだった。

 まっすぐな、違和いわ差別さべつにじんでいた。

 少年が示したのは、いま行き合った子どもたちと、周囲を歩く人々。

 その中に、少しだけ紛れた〝異質〟の存在。


 たとえば、あるモノは虎の頭をしていた。

 たとえば、あるモノは鱗に覆われた尻尾を持っていた。

 たとえば、あるモノは足跡が燃えていた。

 たとえば、あるモノは全身が金属だった。


 彼らは〝変質者トランス〟。

 百五十年前の大災害によって全てを奪われ、変質してしまったものたち。

 異能力者。


 俺のレイジィ・ブレードや、エウセスカの吸血鬼としての権能も同じものだ。

 日常に生きる当たり前の人間たちニュートラルとは明確に異なる、一種の超常的な力を持った異物。

 それがトランス。


 彼らの数は、人口の三割にもおよぶ。

 閉ざされた国の中では助け合うことこそが正しい。

 けれど……人間は必ず正しいことが出来るわけではない。


 閉鎖環境だからこそ、自分は他人に劣りはしないのだと、無条件で殴りつけてもいい相手がいるはずだと考える。サンドバッグを探す。

 健常者にとって、トランスはそのそれだった。

 だけど――


「力を持つものが、いつまでも無抵抗であるとは限らない」

「どういうこと? えっと……」

「エウセスカでいい」


 相棒が、少年へと視線を向けることもなく、続ける。


「迫害されることをよしとしないのなら、道ばたに落ちた石を拾い、投げ返す。結果、それがどんな災害に変異するかなど、本人たちにも解らぬのだ」


 ……それこそが、俺たちの掃討するべき相手。

 テロリスト集団〝四騎士の使徒〟なのだから。


「まったく。先ほどの子供らのように友誼ゆうぎを結べれば、それがなによりなのだろうがな」


 トランスとなる以前から少数民族マイノリティだった吸血鬼の言葉は。

 とても、とても重たいものであり。


 俺の祈りと、相似形をしていた――

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