第三話 記憶喪失の美少年
「はじめに言っておくが――〝彼〟の身元は不明だ。このわたしの〝
疲労の
すなわち、町を破壊しようとするテロリスト――〝四騎士の使徒〟から、民草を守る役目にである。
昨日の一件でも、死傷者はゼロではない。
随分と突き上げを喰らっているだろうに、あの顔だ。
……あとで、ブランデーをたらした紅茶でも差し入れしよう。
などと考えつつ、〝彼〟が休んでいるという部屋へと向かう。
重要参考人であり、記憶喪失という事情から、暫定的に公爵家で二番目に警護が堅い一室へと案内されていたのだ。
ちなみに一番目は
付き添ってくれているエウセスカを
世の全てを
ため息を一つ。
こいつもまだまだ、見守っていた方が良さそうだ。
かすれた声を了承と受け取って、俺たちは入室する。
ベッドの上に、線の細い少年が横たわっていた。
窓から入るかそけき光が、彼を照らし出し、受難を描く宗教画のように、痛ましさをまざまざと見せつけている。
チリチリと焦げた頭髪。
息苦しそうに上下する薄い
四肢にも胸にも巻かれた包帯は、リンパ液と脂汗が
ただ整った幼い
「レイジ」
エウセスカが後ろ手にドアを閉め、俺の耳元へと黒いルージュの惹かれた口元を寄せた。
「これは認めにくいことだが、私は貴様に恩義がある。借り、と言い換えてもいい」
貸したつもりなどないけれど。
視線だけでそう答えても、気高き吸血鬼は譲らなかった。
「クリュゥード族は恩義に
「…………」
問いかけへの答えを、俺は形にすることを嫌った。
言葉にすれば、それが現実となることが解っていたからだ。
これから起きることを、俺は可能性という形で認識している。
この選択は、きっと厄ネタをひとつ招き寄せるようなものだろう。
それでも、苦しむ少年をみていられなくて。
俺は、ふにゃりと微笑んだ。
相棒の青白い額に、哲学者が浮かべるような深い
吸血鬼の口元から漏れるのは、官能とはほど遠い、しかし熱を帯びた吐息だった。
俺は、これが悪事だと知りながら、頭を下げる。
「お願いするよ、エウセスカ。未来ってやつは、きっと決まってないんだ」
「……いいだろう。共犯者として、片棒を担いでやる」
俺の決断を受けて。
彼は少年へと歩み寄ると――自らの手首を躊躇なく乱ぐい歯で噛み千切った。
途端、あふれ出す真紅の血液。
ボタボタとしたたり落ちる霊薬が、少年の全身を満たし。
やがて。
「――え?」
彼は、小さな驚きの声を上げた。
あれだけ酷かった火傷が、完治していたからだ。
クリュゥード・メ・エウセスカ。
吸血鬼の〝トランス〟を持つ存在。
百年を生きる彼の
「……きずが、治って……?」
混乱している様子の少年。
俺はその、ふわふわになった頭髪を撫でながら、視線を合わせて訊ねる。
「君、名前は?」
「…………」
ぽーっと俺を見上げている少年。
その頬は、バラ色に染まっていた。
健康そうでなによりだが、話が進まないのは困る。
「ゴホン。名前だよ。君は、周りからどう呼ばれていたのかな?」
「……ぼく? 名前?」
そう、名前だ。
それすらも、覚えていないのか?
きみは、君を知らないのかい?
「……ユア」
なに?
「ぼくのなまえ。たぶん、〝ユア・ピューピィ〟だよ。そう感じたんだ」
なるほど。
他に覚えていることは?
問い掛けると、少年はしばらく考えて、ゆっくりとかぶりを振った。
それから、
「あなたは、天使サマ?」
と、訊ねてきた。
思わず相棒を見ると「それみたことか」という顔で嘲笑される。
いい加減慣れているが、コイツのこの顔は腹が立つ。
しょうもない感情を噛み殺しながら、できるだけ優しい声で少年の問いかけを否定。
「違うよ。俺はレイジ。こっちの無駄に背が高い、衣装掛けに良さそうなのが相棒のエウセスカ。人々を守る、掃除屋という仕事をしているんだ」
「掃除屋さん……」
おっと。そこで首をかしげるか。
メテオール公爵令嬢の掃除屋といえば、この国で知らないものなどいない。
少年の反応からして嘘を吐いているようには思えないし、記憶喪失というのもどうやら本当らしい。
まいったな。
事情を聞けないとなると、どうにもならないぞ?
「故障は直せばいいだろう」
「簡単に言うよな、エウセスカは……確かにおまえの血なら――いや。そうか、イ=ゴールは精神に作用しない」
「うむ」
だったら、対症療法といくしかない。
ユア、きみは何かしたいことがあるかい?
「したいこと?」
「ああ、やりたいこと。視たいこと、感じたいこと。なんでもいい」
記憶喪失から回復する最も手っ取り早い手段は、刺激を与えることだ。
「刺激ならば任せろ」
「斜め四十五度で殴って治るのは高級家電だけだ。こら、拳を振りかぶるな。黙っていなさい暴力
「……たしかに、
ぐっと唇を噛んで引き下がる相棒。まさしく
トランス以前に、誇り高き少数民族であるエウセスカに取ってみれば、俺の言葉はほとんど侮辱であるのだが、ここは意図を汲んでくれたらしい。
よし、いつもどり脱線しているな!
話を戻そう。
「脳に刺激を与える方法は幾つかある。一番は、その目で見て、肌で感じること。つまり、こんな部屋に閉じこもってちゃ、ろくなコトにはならないってわけさ」
だから――やりたいこと、ないかな?
「きれいな、あお……」
少年。
ユアは、俺の瞳をまっすぐに見詰め、うっとりとした様子で、つぶやく。
「青い空が、見たい」
――と。
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