DEAD OR FAKE

白神天稀

DEAD OR FAKE

 会社から帰ると、俺の住んでいるアパートの住民達が死んでいた。

 築二十五年、家賃六万円、二階建ての木造ボロアパート。そのベランダの下では、飛び降りをしたであろう住民達の死体が転がっていた。どの遺体も顔から地面に落ち、首の骨が折れて死んでいる。異様な死に様、赤黒い血溜まり、鼻を突くような腐敗臭。

 その光景の衝撃は俺の許容量を超え、気が付いた時には胃の中のもの全てを吐き戻した。唾液が糸を引くまで嘔吐し、嗚咽することで体から汚濁を排除しようと試みる。

 不快感に包まれた状況下で事態を整理しようと勇気を出して死体の方に目を向けようとした時、俺の瞳に飛び込んで来た。


『DEAD OR FAKE(死か偽りか)』。地面に記されたその文字はこの集団自殺の異常性を物語っていた。


 ある疑問が頭の中を巡っていた。何故これほど強烈な腐敗臭がするのか。

 朝部屋を出た際には勿論死体なんてなかった。つまり彼らが飛び降り自殺を図ったのは今日ということになる。だがそれにしては腐敗が早過ぎる。死後一日も経過せず、ましてや冬場の今にこんな腐り方をするなんて有り得ない。

 だが一つだけ、この不可解な状況に説明をつけられるとしたら


「こいつらもしかして、もう何日も前に死んで……」


「DEAD OR FAKE」


 呼吸が止まった。生まれてから一度も体感したことのなかった、殺されるという感覚がその気配から感じ取れた。アパートの裏側から何者かが近づいてくるのを視界の端で捉えた。

 顔を上げてまず目についたのは黒い縄だった。黒い液体をポタポタと垂らすロープ、それを握り締める擦り傷だらけの手。そして俺を見てニタニタと気味悪く笑う男の顔。

 常軌を逸したその人間を前に、俺は恐怖に耐えかね失禁した。足腰に力が入らず、尻餅をついたまま後ずさりで距離を取る。


「っ……ぁぁ、うあああああ!」


 俺が叫ぶと同時に男がこっちに走って来るのが見えた。このままでは確実に殺されると実感が追いついたことで、俺の脚力が復活した。

 振り返りたくない、男がどこまで迫ってきているのか知りたくない。だからひたすら夜の街を駆け抜けた。脇が破れるスーツ、乱れる呼吸、摩擦熱を帯びる革靴、心音の鳴り響く鼓膜、解けるネクタイ、ひりつく肺、何かが焦げる臭い、チカチカ点滅する視界。

 酸欠で意識が飛ぶ寸前まで疾走した。その間は時間が何十分にも、何時間にも長く感じるほどだった。しかしそのお陰で先の男はもう追いかけて来ていなかった。


 息を整え安心していたのも束の間、点滅が収まった俺の視界に燃えている街の姿が映った。


「なん、だよこれ」


 民家や建物など至る所から火の手が上がっていた。耳鳴りが止んで聞こえてくるのは夜の喧騒ではなく、何かの爆発音や謎の破壊音ばかり。ついさっき通った道や通勤に使っている駅、行きつけのスーパー。見知った街の光景が一変して地獄絵図を描いている。


「先輩、あそこ!」


「そこのアンタ、大丈夫か!?」


 茫然としていた俺の横から、二人の警察官が近寄ってきた。白髪交じりで初老の警察官と、その補佐であろう若く長身の警官。彼らはやってきて即座に、俺を保護した。


「お、おまわっ……」


「アンタ、見たんだな。アイツらを」


 人を見て安心してしまったせいで、思うように声が出なかった。すすり泣いて警察官の手を掴み、言葉にならない声でただ頷いた。


「今から署まで同行してくれ。事情聴取という名目で、君を保護する」


「ありがとう。ありがとう……」


 俺は重要参考人として、警察署の方へ避難させてくれる運びとなった。パトカーの中で後部座席に座る俺の横で、初老の警官は顔を拭くためのハンカチを俺に渡した。


「一体、今何が起きてるんですか?」


「テロだ。それもあちこちでゲリラ的にだ」


「色々な人達が無差別殺人を行っているようで、その目的や規模などは私達も一切把握出来ていません」


 事態は相当深刻なところまで来ていたようだ。これが本当ならば未曽有のテロ、過去最悪の事件に他ならない。


「これは俺の勘だが、恐らく新興宗教か何かがこの件に嚙んでる気がする。俗にいう、カルト集団って部類のやつだな。俺も一度若い時にその類いの事件を担当してたから分かる」


 実際にそういった犯罪と向き合って来た人間の言うことには信憑性があった。むしろ彼の言う通りであって欲しいとさえ思う。こんな狂ったテロ行為に黒幕がいると思った方が、責任や怒りをぶつけられて精神的に楽だ。


「それで、貴方は何を見たんですか?」


「俺は、自分のアパートに帰ったら、住民達が飛び降り自殺してました。でも腐乱臭がキツかったから、もしかしたら彼らは何日も前に殺されてたかもしれない」


 あの悪夢の記憶が押し寄せて、恐怖と吐き気を呼び覚ます。悍ましい光景をあまり思い出さぬよう慎重に、なるべく端的に情報を伝える。


「そしてその後、アパート裏から男が一人出てきました。その男は俺を見ると不気味な笑顔で」


「DEAD OR FAKE」


 俺が話すより先に、初老の警官がその言葉を口にした。先に言われたこともそうだったが、俺はその警察官の声色が急に変わったことに違和感を持った。


「……へっ?」


 俺はパニックになっていて、先は何も状況が見えていなかったのだと、この瞬間になって理解した。彼らの着ている警察官の制服が胸部や腹部を中心に、黒ずんだ汚れがこびりついていることに。

 警察官の装いをした男達は俺の方を向いて、奇妙な笑みを浮かべていた。アパートの前で見た、あの男のように。


「「DEAD OR FAKE」」


「う、うわあああああああ」


 逃げなければ、殺される。

 絶叫と共に俺はドアを開き、走行中のパトカーから飛び出した。車が大したスピードを出していなかったことが幸いし、打撲と擦り剥き傷程度でなんとか済んだ。


 どれだけ走っても速さで車には敵わない。それを考慮して俺は民家の庭やビルとビルの隙間道を抜けて逃走した。火災からも遠ざかるよう道を進み、下町の風俗街に出た。


「やめて、誰か……やめてくれええええええええええ」


 道に出たと同時に、若い男の叫び声が耳に入った。


「DEAD OR FAKE」


 通りの方で金髪の若い男が何者かに襲われていた。男は既に血まみれで、尻餅をついて叫ぶしか出来ていなかった。一方で、布の袋を頭に被った覆面の者がナイフを片手に男へ迫っていた。男か女か分からない体型のソイツはただ何度もその悪魔の言葉を繰り返していた。


 自分以外を気に掛ける余裕なんてある筈もなかったが、俺の身体は何故か次の瞬間には動いていた。

 その時運良く歩道に転がっていた角材を拾い、男の元へと走る。


「おああああああああ!」


 遠心力と全体重を乗せ振り回した角材でソイツの後頭部を打ち砕いた。不意打ちを食らったソイツは前のめりに倒れ、角材は折れて元の長さの三分の一になってしまった。

 気絶したのか、ソイツは倒れてそのまま痙攣している。


 一時の感情に任せてしまえば、殺人なんて容易いものなのだとこの瞬間に分かった。


「死ね、死ね、死ね、死んでしまえ、死んでしまえ! 今すぐ、死に失せろ!」


 ここまで俺の生命を脅かしてきた者達への怒り、悔しみ、恨み、恐怖のそれら全てが燃え滾る殺意に俺の中で変貌した。

 折れた代わりに断面から細く鋭利な棘が何本も突起した角材を天に上げ、何度も振り下ろす。何回も、何回も、叩きつける。時折踵を落としながら、絶え間なく頭部へ打撃を加える。

 そして気が済んだ頃には、ソイツの頭蓋は潰れていた。


「あ、あんた……」


「大丈夫だ、俺はコイツらの仲間じゃない。まあこの状況だと、この言葉もすぐ信じられないだろうけど」


「ホントか。良かった、助かった」


 男は安堵したと共に力が抜けて、血と泥で汚れた頬に涙を流した。警戒はしたが、様子と先の状況から察するに心配はいらなそうだった。むしろ同じ立場の人間と会えたことで、徐々に冷静さを取り戻しつつあった。

 ただ脅威が去った訳ではない。俺は殺したソイツの手からナイフを奪い取り、泣きじゃくる金髪男の腕を引っ張った。


「安心するのはまだ早い、逃げるぞ」


「ど、どこに?」


「そこの路地裏だ。急げ」


 暗く死角になりそうな路地裏へ駆け込み、通りから身を隠せそうな大きなゴミ箱の裏に回った。片膝をつき、周囲を警戒したまま一時の休息を取る。


「ここで隠れよう。下手に屋内に入れば逃げ場を失う」


「でも見つかったら」


「ナイフ持っとけ。俺も怖いけどよ、お前がアイツらとは違うと信じて渡す」


 当然、万が一裏切られても良いように対策はした。今ゴミ箱から漁って手に入れた漫画雑誌を服の中に入れ、小さいカッターも袖に忍ばせた。刺す速度でこの男に負けることはないだろう。

 ひとまずこれで俺達は自衛の術は手に入れた。


「これだけのテロだが、数日の辛抱だと思う。それだけ待てば、警察なり自衛隊なり……」


「はは、今更どうしろって言うんだよ」


「あ?」


 彼は力ない声で呟くと、掠れた声で突然身の上を語り始めた。


「俺は昔から落ちこぼれでさ、その上出来の良い弟がいたもんだから親に見放されててさ。家出してこっちまで来たのよ」


「お前、こんな時に……」


「生活は貧しかったけど、仕事先の親方は優しかったし、俺を支えてくれる可愛い彼女もできたんだ」


「おい、静かにしてないと見つかるぞ」


「それをよ、目の前で殺されたんだ。二人とも、灯油をぶっかけられて燃やされた。俺、怖くなって道のど真ん中で固まったまま漏らしちまってよ。焼き殺されてく二人を、見てることしか出来なかったんだ」


 これ以上はもう、話を止めさせようとは出来なかった。あの恐怖だけでなく、大切な人達を目の前で殺された悲しみと絶望を味わった者に止めろと俺は言えなかった。

 その辛さを知らない者が、味わった者に何かを言うなんて。慰めすら今は軽々と言ってやれない。


「もう俺には、俺を大切にしてくれる人も帰る場所もなくなっちまった。けど怖えよ、あんなイカれた奴らに殺されて死ぬなんてさ」


 男の金髪を濡らしていたのは彼の血なのか、返り血なのかは分からない。ただ彼の悲しみは嘘偽りないものであると確信は得た。そして出来る限りは、彼を助けようと覚悟を決める。


 そんなやり取りと決意をしている間も、災厄はその手を緩めなかった。聞こえて来たのだ、あの死神の囁きが。DEAD OR FAKE という悪夢の言葉が。

 通りの方から、ゆっくりと迫ってきている。


「おい、もっと奥に逃げるぞ。ここも危ない」


「君の役に立ちたいから、この道は塞いでおくよ」


「何言って、ッ!」


 言いかけた時にはもう遅かった。男は俺が手渡したナイフで、自らの首を切って自決した。

 それは愛する者達を失った絶望か、それとも殺される恐怖に耐えかねての行動か。一切の躊躇いもなく男は刃を鮮血で染め、最期の言葉通りに倒れて路地裏の道を塞ぐように転がった。


「お前、こんな……こんなのねえって」


 男だったものの目から、一筋の涙が零れ落ちる。その涙は地面に流れると、首から溢れ出る血と混ざって見えなくなった。


 この一瞬での戸惑いがまずかった。金髪男の死に動揺していた俺はその場から逃げ遅れ、通りを歩いていた男に姿を見られてしまった。


「DEAD OR FAKE」


 狂気の笑みを俺に向ける男の手には、エンジンのかかったチェーンソーが握られていた。この距離、武器の殺傷力、残された俺の体力、どう考えても勝つどころか逃げることすら出来ない状況だった。


 その刹那のこと。防衛本能というやつだろうか、俺の頭の中へ瞬間的にある考えが降りて来た。


「……DEAD OR FAKE」


 心の限界なんてとうに超えていた。ただなんとか生き残るために騙し騙し、精神の正常を装っていただけなんだ。俺の心はこの瞬間に、瓦解する。

 腹の底から笑いが込み上げて来た。こんな状況だからこそ、こんな状況から目を背けたいからこそ、笑いが出てくるのだ。喜びも悲しみも存在しない、ただの反射的な異常行動。


「……」


 俺のこの様を見てどう反応するかと伺っていたが、ヤツは急に興味を無くしたようにそっぽを向いてまた大通りを歩き始めた。


 ああ、そうか。コイツらの仲間だと思い込ませれば、俺は殺されずに済むのか。


「……へへ、ふひひひ、あはははは」


 騙せた。かわせた、隠せた、免れた、逃れられた、装えた、騙し通せた、生き残った。良かった、良かった、これで良いんだ。簡単なことだった。こうすれば誰にも分からない。相手に悟らせないまま不意を突いて殺せる。

 これが生き残る方法なんだ。アイツらの脅威から逃れられる唯一の手段なんだ。


「こっちだ走れ! ここにはまだ来てない筈だ」


「噓だろ、そこら中死体と殺人鬼だらけだぞ」


 路地の奥から若い男女の声が聞こえてきた。俺達が入ってきた方とは反対から、こっちに向かって来る。


 ああ、まずい。まだ近くにはアイツがいるのに。こっちに来るのは二人、いや三人だ。このままだと俺が仲間じゃないとバレて殺される。


「お前らがあんな悪戯なんてしなけりゃ」


「何よそれ、自分は関係ないっていうの!?」


「待て、誰かいる……」


 よし、この三人は殺そう。俺が殺されない為に。俺がまともだとバレないように。


 血でべったり汚れたナイフを構え、俺は偽りの笑顔を張り付けて彼らの前へ姿を現した。


逃れるDEAD OR 己を偽るかFAKE

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