最終話〜③

     *   *



 その東の空の下。

 荷を積んだ小船が行き交う運河を、石橋の欄干に身を預けて眺める少女がいる。


 初夏の終わりの熱を帯び始めた空気も、運河を嘗める川風が爽やかな薫風に変え、時折、日傘の下の栗の実色の髪を弄んで去って行く。

 少女の蝶の耳飾りも風に揺らめき、運河の水光を受けてキラキラと輝いていた。


 不意に背後から強めの風が吹き、日傘は少女の手から逃げてしまった。

 咄嗟に伸ばした指先を擦り抜け、日傘は欄干の向こうに飛んで行く。

 思わず浮き彫り模様に靴の先を引っ掛けて身を乗り出した時、背後から伸びた手が小柄な身体を押し戻した。

 吃驚している間に、その手は風に遊ばれてくるくると回る日傘の露先を、難なく捉えた。

 そうして、日傘は運河に落ちる事なく少女の目の前に戻って来る。


「気を付けろ、コール。今度は助けてやれないぞ」

 そう言って日傘を差し出したのは、背の高い黒髪の青年だ。

 カレル・ヴィルヘルム・ローフォークは、濃紺の瞳の上の眉を顰めて、お叱り半分、呆れ半分の表情で少女を見下ろした。

 エリザベスはきょとんと目を丸めた。

 ややあって、くすくすと笑いだす。

「何故、笑う」


 一ヶ月前、ローフォークが負った傷は、常人であれば死んでいてもおかしくない重症だった。

 目の前で背筋を伸ばし堂々と振る舞う姿から、まるでその様な素振りは見られないが、シャツの下は今でも包帯は外せず、立ち続けるのも辛いのだという事を知っていた。

 エリザベスは、眉間の皺をさらに寄せるローフォークに答える。

「それでも、少佐は私を助けようとしてくれると思ったのです」

 そして、踏み留まる事が出来ずに、今度は一緒に運河に落っこちてしまうのだろう。

 そう言うと、「そう思うのなら少しは自重しろ。そもそも婦女子が一人で出歩くな!」と、ローフォークは心底不快そうに舌打ちをした。


「ふふふ。タリアン大尉の部隊がしっかりと街を守ってくれているから大丈夫です。少佐、ありがとうございました。ところで、いつビウスに御着きになられたのですか? てっきり明日になるだろうと思っていたので、吃驚しました」

「ついさっきだ」

「ここには、少佐お一人でいらしたのですか? 皆さんは?」

 ローフォークの旅には同行者がいた。

 グラッブベルグ公爵家の母子とオーレリーだ。


 ビウスの押し込み強盗から一年が経つ。

 彼等は領主一家としての責任を感じ、ローフォークと共にコール家の追悼の祈りに参じたいと願い、エリザベスはこれを受け入れたのだ。

「お前の屋敷にいる。今、フランツ達が応接している。ここには俺一人で来た。お前が散歩に出たと聞いて、そのままこっちに来た。多分、ここに居るだろうと」

「ドンフォン中尉は、やっぱり王都でお留守番ですか?」

「ああ。文句を言っていたがな」

 可愛げのない部下の顔を思い出したのか、ローフォークは口元をへの字に曲げた。


 ドンフォンが、兄である近衛警備隊長にローフォークの情報を流していたと知ったのは、つい先日のことだ。

 侯爵家の生まれながら七男という何ともし難い立場にあるドンフォンは、王都の仕立て屋の二階に間借りをして暮らしている。

 士官学校出身の中尉の給金というものは思いの外低く、ドンフォンはローフォークの様子を訊かれるたびに、ペラペラと御喋りをして小遣いを貰っていたらしい。

 フィリップ十四世がローフォークの状況を把握していたのには、そういった裏があったのだ。


 有難いと思うべきなのか、どうにも複雑な気持ちになったローフォークは、取り敢えず一発腹を殴っておいた。後でフランツにも殴られたようだ。

 ビウスに来たがっていたが、今頃はロシェットや他の副官達の監視下で、フランツに命じられた資料庫の整理をしている事だろう。


 溜息を吐き出して、ローフォークは気を取り直した。

「明日の追悼の前に、お前に話しておきたい事がある」

「話しておきたいこと、ですか?」

 小首を傾げたエリザベスの前で、ローフォークは上着の内から細長い小箱を取り出した。

「これを、返す」


 小箱を受け取り、促されて蓋を開けてみると、そこには記憶にある小さな花のチャームが付いたペンダントがあった。

「あの日、お前の部屋から奪って行った物だ。あの後、破損する事があって、修繕に出した。だから、以前のままと言うわけではないが……」

 言われて、エリザベスは改めてペンダントを眺めた。

 確かに、花弁を彩る宝石のカットの仕方に違いがある。

 王都の職人の技術なのか、より緻密に加工され、一層美しく光を反射していた。花弁型の台も新しく作り直したようだ。

 エリザベスは早速、ペンダントを身に付けた。

 また風が吹き、耳元の蝶の耳飾りが、まるで一輪の花の周りを舞っているかのように揺れた。


「ありがとうございます、少佐。このペンダントは、去年の誕生日に父がくれた物だったのです」

「すまなかった」

「いいえ。壊れてしまったのは、事情があったのでしょうから気にしていません。それよりもわざわざ直していただいて、私の方こそ……」

「それもあるが……」

 ローフォークは苦笑いを浮かべていた。

 だが、すぐに真剣な面持ちに変わり、真っ直ぐにエリザベスを見る。


「俺は、お前の家族を殺した」

 あっ、とエリザベスの口から小さく声が漏れた。

「お前の両親を奪い、家族も同然の者達を奪った。グラッブベルグ公爵にお前を捧げて、慰み物にしようとした。お前の幸せを、俺は根刮ぎ奪い取った」


 謝って赦されるものではないと、分かっている。

 だからこそ、これまで、ただの一度もエリザベスに謝罪をしようとは思わなかった。


 どれほど懺悔を口にしても、犯罪に手を染めないと心に誓っても、グラッブベルグ公爵の下から離れられないうちは、薄っぺらで簡単に踏み破く事のできる薄氷のようなものだったからだ。

 意味も、価値も無い、ただの単語の羅列でしかない。

 それでも、発したからには重みを持つ。

 ローフォークは、もう嘘を吐きたくはなかったのだ。

 誰の事も、欺きたくはなかった。


「怖くはなかったのですか?」

 罪が白日に曝されることが。

「腹を括ってしまえば、不思議とな」

 これまでしてきた事の報いを受けるまでだ。

 そう思い至るまでに、随分と時間が掛かってしまったが。


「お前には、礼も言わなければならない」

 初めて人の命を絶ってから、ローフォークは失う恐怖と奪う罪悪感に苛まれてきた。

 時折、どちらが自分にとって大事であるかを天秤にかけ、その都度失う恐怖が勝り、失わない為に奪う事を選んだ。

 あの日も、そうやって感情を押し込め、エリザベスの家族をその手にかけたのだ。


 これまでどれだけの命を奪い、どれだけの人を騙し、どれだけの耐え難い惨痛さんつうを生み出してきたか、分からない。

 そんな自分を助けようとしてくれる者は大勢いた。

 シュトルーヴェ家や父の友人達。ドンフォンも第二連隊の面々も、人知れず陰で支えてくれていた。

 それでも公爵の下から逃げ出す術が分からずにいた。

 罪の意識と同じく、彼等に報いる事が出来ずにいるのが苦しかった。

 そんな時に、ビウスでの事件があった。


 あの絶望的な状況で、誰が目の前の男の一物を蹴り飛ばし、逃げ出す娘がいるだなんて思うだろう。

 誰が、三階の窓から飛び降りて平然と駆け去って行く娘が、この世に存在すると思うのか。


 胸がすく思いがした。

 屋敷を飛び出して逃げて行くその姿が、自分にしるべを示しているように思えてならなかった。


 こっちに進め、と。

 死ぬ気で飛び降りてみろ、と。


 だが、ローフォークは公爵の手中に在る母を捨てる事が出来なかった。

 せめて、エリザベスに逃げ切って欲しい、そう願うだけだった。


「まさか、俺の従卒になるとは思わなかったが」

 一瞬、渋い顔に戻ったローフォークは、エリザベス入隊直後の第二連隊の騒々しさを思い出しているのだろうか。

 それとも、国軍競技会後に怪我から復帰したエリザベスへの、隊員達からの贈り物が大隊長執務室を埋め尽くしてしまった日のことか。


「あの時、お前は目の前の禍いに抗う勇気を持った。例え、それが奔流の中に投じられた小石のようにちっぽけな抵抗であったとしても、激流に翻弄されて、ただ転がっていただけだと思っていたのだとしても、お前の存在は間違いなく周囲の流れを変えた。俺に、踏み出す切っ掛けをくれた」


 一つ一つの事象に、エリザベスが絡まりだした。

 望まずとも巻き込まれ、それらはいつもエリザベスを苦しませた。だが、その苦難の中に、グラッブベルグ公爵を追い詰める転機が隠れていた。

 まるで、自分が自由になる代償として、エリザベスが苦しまなければならないようで複雑な思いもしたが、エリザベスはどんな時でも屈しなかった。

 その姿が、ローフォークに覚悟を決めさせた。


「お前がいなければ、きっと現状は変わらなかった。俺は今でもグラッブベルグ公爵につくばい、自分がしてきた事から目を逸らし、せぐくまり続けていただろう。そして、いずれは自分を助けてくれた人々さえ裏切ることになっていた。お前が全てを変えてくれたんだ。

 ありがとう、コール。そして、すまなかった」

「いいえ。それは違います」

 エリザベスは横に首を振った。


「あの時、本当に小石を投じたのは少佐です。少佐は飛び降りる前に私を捕まえることが出来たはずですもの。私はあの時、少佐が見逃してくれたのだと思っています。きっと、フランツ様が駆け付けると信じていらっしゃったのでしょう?」

「あれは……」

 言い掛けて、ローフォークはハッとする。


 何故か真っ赤になって目を逸らしたローフォークに、エリザベスはその顔を覗き込むように小首を傾げた。

「少佐? どうなさったのですか?」

「……何でもない。ああ、風が強くなってきたな。もう帰るぞ。アリシアがお前を心配していた。アレの小言は何かとキツいし、面倒だ」

 一人で出歩いたのがエリザベスだったとしても、文句を言われるのはローフォークなのだ。

 剛毅な伯爵令嬢の前で項垂れながら説教をされるローフォークの姿は、きっとフランツとそっくり同じなのだろうと想像し、エリザベスはくすくすと笑って頷いた。


 そして、不意に思い出す。

「そう言えば、ローフォーク家の御屋敷が燃えてしまった時に、アリシア様が慌てていたのです。『私じゃないわよ!』って。あれ、どういう意味だったんでしょう」

「……さあな」


 ローフォークは苦笑いを浮かべ、さっさと繁華な通りへ向かって歩き出した。

 その背中を慌てて追うものの、行き交う馬車に二人は隔たれてしまう。

 そのまま置いて行かれると思っていたが、ローフォークは通りの向こうでエリザベスが追い付くのを待っていた。

 ローフォークは馬車が通り過ぎるのを見計らい、こちらに向かって手を伸ばす。


「早く来い」

 ぶっきらぼうな言い方だ。

 だが、ローフォークらしくもある。


 エリザベスは駆け出した。

 今度こそ、その背を見失わないように。

 彼の結末を、見届ける為に。



     *   *


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る