第十二話〜⑫

 鳩尾に軍靴の踵がめり込んだ。

 ローフォークは咳き込み、噴いた血がマートンの靴を汚す。


「侘しいねえ、カレルちゃん。何の為に、今まで生きてきたんだろうなぁ。お前はグラッブベルグ公爵と一緒に断頭台行きか、良いとこ生涯監獄生活だ。例えシュトルーヴェでも、庇いきれない悪行を積んできたんだからな。それならいっそ、俺と一緒に王家にやり返してみねえか?

 アイツ等が高貴な御顔にみっともない愛想笑いを浮かべて、必死に命乞いをして泣きへばり付く姿を見たいと思わないか? 首輪を着けて、市民の前に引き摺り出して、石で打ち殺されるのを眺めても良い。なあ、どうだカレル。吹っ切っちまえよ。そうすりゃ、世の中楽しくなるぜ!」

「…‥俺を……」

「あ?」


 微かに届いた声に、マートンは地べたに転がる黒髪を鷲掴んだ。

 強引に持ち上げられたローフォークの顔は血に塗れていた。

 だが、黒髪の下の濃紺の瞳は、真っ直ぐにマートンを見据える。

「俺を、誰だと思っている。オーベール一世陛下より『王家の守護者』を賜った一族だ。どんな理不尽な目に遭ったとしても、それが与えられた役目ならば、命を賭して果たすまで。王家への忠誠は失わない。舐めてくれるな……!」

 鋭く睨み上げる濃紺の瞳は、壮烈に燃え上がっていた。


「お前も大概狂ってんのな」

 マートンの口元が、これでもかというほど左右に細く伸びた。


 ナイフの柄尻で殴られる。

 背中を預ける格好で木の根元に倒れた。

 抉られた傷は深く、鉄紺色の上着から止めどなく流れる鮮血が白いトラウザーズを赤く染め、地面に血溜まりを作って行く。

 息は荒く、その一呼吸は不安定に揺らぎ、長い。

 身体は重く、さすがに、もう動けない。

 このまま放置していても、いずれ自分は死ぬだろう。

 だが、ローフォークはマートンにその気が無い事を知っていた。


「泣き虫カレルちゃん。お前とは良い友達になれると思ったんだけどなぁ」

 マートンの手には、叩き落とされたはずの拳銃が握られていた。

「こっちに来る気が無いんなら、残念、サヨナラだ」

 ローフォークの額に、銃口が当てられた。

 金属のひんやりとした感触が奇妙に心地好くて、この状況下で考える事では無いだろう、と場違いな感想に自分で呆れた。


『ああ、もう充分だ』

 ローフォークは思った。


 周囲を覆っていた白煙は消え去り、遠くまで見通せる。

 マートンの指が激鉄にかけられる。

『もう充分……』

 安全装置ハーフコックが解除され、コックポジションとなる。


 やれる事はやった。

 結局、最後まで独力でマートンに勝てなかったのが悔しいが、のだと、何処かやり遂げた思いがある。

 血を流し過ぎて、視界は徐々に霞みが掛かり始めていた。そんな状態で両目が捉えているのは、眼前のマートンではなかった。

 ローフォークの口元に笑みが浮かんだ。


「あばよ、カレル」

 引き金が引かれる。

 燧石フリント火蓋フリズンを擦って弾き、火花が火皿パンの上の点火薬に着火した。

 橙色の火が白煙と同時に噴き上がる。

 ローフォークは静かに目蓋を閉じた。


 乾いた音が耳を劈いた。

 放たれた弾丸は肉を貫いて骨を砕き、ローフォークの上着や地面に血肉を撒き散らす。


 ローフォークはゆっくりと目蓋を開いた。

 そこには、利き手を抱え込んで蹲るマートンの姿があった。

 親指と人差し指を喪って、出血を抑えている左手諸共、腕が血だらけになっている。

 マートンが放ったはずの弾丸は、ローフォークの側頭部を翳め、背後の木立ちに弾痕を刻んでいた。


「てめえぇぇぇっ! どういう事だ! どこから撃ってきやがったっ! この暗がりで、どうやって!」

 マートンは、想定外の射撃に明らかに動揺していた。木に凭れ掛かる血塗れた左手でローフォークの襟首を掴み、罵声を浴びせる。

 答えようもない話だったが、これだけははっきりと言えた。

「死にたくなければ頭を下げていろ。奴は躊躇いなくお前を撃つ」

 言った側から、襟首を掴んでいた左手の前腕部が被弾した。


 マートンは再び地面に倒れた。

 左腕に空いた穴を抑えて血を止めようとしているが、その右手も指を喪った箇所から血が溢れている。被弾位置から、骨が砕けているだろうことも察せられた。

 どっぷりとした汗がマートンを浸していた。

「気でも狂ってんのか……。手前ぇもすぐ傍にいるんだぞ……!」


 低い唸り声に、ローフォークは小さく笑う。

「トビアスでお前の捕縛作戦を行った時、俺は奴に言ってある。『お前以外に誰が出来る』と」

 さらに、

「『自信が無ければ、俺ごと撃て』ともな」

 そう告げた時、それまで戸惑っていた少年は息を飲んで、上官であるローフォークを睨み上げた。

 その瞬間に、少年の中の迷いは消えたのだ。


「シェースラーは天才だ」

「糞野郎がっ!」

 悪態を吐き、マートンはローフォークを置き去りにして走り出した。

 その脚が撃たれ、負傷した両手で身を守る術も無く、顔面から地に落ちた。

「チクショウッ‼︎」

 顔を血塗れにした朱殷色の獣時間が経った血の様な朱色が吼えた。


 その咆哮を聞きながら、ローフォークは己れの現状を静観していた。

 視界は霞み、目蓋は重い。

 反面、不思議と身体は軽く、春の夜の肌寒さも感じなくなっていた。

 傍らで這いずってでも逃げようとするマートンに内心で感心しながら、「もう、目を閉じてしまおうか」と考えた。

 その時だ。

 遠くから、自分を呼ぶ聞き慣れた声がした。



     *   *



 正面に金色の頭が見えた。

 フランツが木々の合間を、下草を割って走っている。

 踏み出すたびに明るい金髪が跳ねて輝き、空に羽撃く鳥の翼に見えた。

 気付けば、辺りは薄明に満ち始めている。

 夜が明けるのだ。


 フランツを追い越して、子犬の様な身軽さでドンフォンが低木を飛び越えた。ローフォークの姿を見て青褪めるが、逡巡は僅かにして、マートンに飛び掛かり身柄を取り押さえた。

「気を、付けろ……。まだ何をやらかすか、分からない……」

「分かってますから、喋らないで下さい!」

 ドンフォンに注意を促すと逆に叱られた。


 フランツが目の前に膝を着き、弾帯の一つから包帯を取り出して、腹部の手当てを始める。

「全く、無茶を。どうして適度な処で退かなかった。マートンの方が上手うわてだと、お前が一番分かっていただろう!」

 フランツの声が揺れている。

 自分で思っていた以上に、腹の傷は深そうだ。

 止血の為に傷口に布地を押し込まれて、激痛に目が醒める。


 ふと、フランツの背後に立つ山吹色の髪の少年兵に気が付いた。

 顔を真っ赤に染めて、これは怒っているのだろうが、幼さの残る顔立ちと内面の善良さが前面に出ていて、どうにも怖くない。

 いや、怖い思いをしているのは少年の方なのだろうか。小銃を握る手が震えていた。

 ローフォークは木の根元に身を預けて、短く息を吐いた。


「シェースラー」

「……なんですか」

 ぶっきらぼうに応じるジェズは、やはり怒っている様だ。

「先程の射撃は素晴らしかった」

 ジェズは目を丸めた。

 この言葉を、本当はトビアスの時に言いたかった。

 素晴らしい働きをした部下は惜しみ無く評価する。それはローフォークが絶対に曲げない信条だ。


「俺ごと撃っても構わなかったのだが」

「ふざけんなっ」

 突如、火花が弾けたようにジェズが怒鳴った。

 フランツとドンフォンが、吃驚した顔でジェズを返り見る。

「あの時も思ったけど、アンタ本当はもう死にたいんだろ。もう何もかもから逃げたいんだ!」

 今度は、ローフォークが驚きで目を丸めた。


「いいか、よく聞け! 僕が銃の腕を研くのは、エリザベスを泣かせない為だ。エリザベスはあの日から、誰かが死ぬのを物凄く怖がる。ほんの少し関わっただけだったとしても、その人が傷付いて死ぬのが怖いんだ! それが例えアンタでも、そこにいるマートンやグラッブベルグ公爵でもだ! そうじゃなかったら、僕は迷わず撃ってた! コール家のみんなの仇だ。これまでだって、アンタを殺したくて仕方なかったんだ。でも、エリザベスが怖がるから、エリザベスが泣くから、僕はずっと思い留まって来た!

 僕の射撃は、エリザベスを泣かせない為にある。アンタがこの世から逃げる為のものじゃない。死にたかったら、悪事に加担してしまったと分かった時に、さっさと一人で死ねば良かったんだ。アンタが居なければ、伯爵だってすぐにアイツの悪事を暴いて逮捕してたに決まってる。そうすれば、ブラッシュさんもエレーヌさんもコール家のみんなも死なずに済んだ。エリザベスも泣かずにいられたかもしれないんだ!

 それなのに、ここまで来て、何人も不幸に巻き込んでおいて、今更『撃っても良かった』なんて僕達を馬鹿にした事を言うな! 僕がアンタを撃ったら、エリザベスがどれだけ悲しむか、もうアンタだって分かってるだろ! 僕はエリザベスに泣いて欲しくない。ずっと笑っていて欲しい! だから僕は──、アンタが生きる事でエリザベスが泣かずにいられるなら、僕は──。これからだって、アンタを守る為に銃を撃つんだ!」


 ローフォークに向かい叫び切ったジェズは、顔中を涙と洟水で汚していた。

 それをゴワつく野戦服の袖で乱暴に拭い払う。

「それに、アンタを裁くのは僕の役目じゃない。ちゃんと生きて、法の裁きを受けて欲しい」

 ズズッ、と洟を啜り上げ、ジェズは言った。


 ローフォークは目を細めて口元に笑みを浮かべた。

「お前は……、つくづくお人好しだな……」

 傍らで、フランツも苦笑も溢している。少し離れたところでマートンに猿轡を噛ませているドンフォンは、眉尻を下げて複雑な表情だ。

 ジェズはおちょくられたと思ったのだろう。

 顔を真っ赤に染めて何かを言い掛けた。

 だが、怒った顔は一瞬驚いた顔に変わり、すぐに青褪めた。


 どうしたのか、と思ううちに視界が急速に暗転してゆく。

 ああ、もう限界か……。

 自分を呼ぶ声が少しずつ遠退いて行く。


 静かで、小さな夜が、再びローフォークに訪れた。




                            第十二話 終わり

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