第十二話〜⑩

     *   *


 一瞬早く、マートンの足が木柵を蹴り、突き上げた剣は喉笛を捉え損ねた。

 ローフォークの舌打ちと、掠める剣先をマートンが嘲笑うのは同時だった。


 人工滝の高さは二階建て程も無く、滝壺自体も大人の背丈の深さしか無い。滝壺に飛沫をあげて落下したマートンを追い、木柵を飛び越えて川岸の砂利に着地した。

 その時にはすでに、マートンの姿は対岸にあった。


 滝壺を回り込み、浅瀬を走って対岸へと渡る。

 一度、姿を認めてからの追跡は容易だ。

 枝を払い、下草を踏み散らす音を追って行けば、その先に必ず標的はいる。

 音が止めば、それは……、

 気配を殺して潜んでいる証拠だ。


「!」

 突如、真横から刃物が突き出された。

 咄嗟に身を翻したローフォークの目に、薄ら笑いを貼り付けたマートンの顔が映る。


 ローフォークはすかさず頸部を狙って刺突を放つが、半身はんみで躱され、突きで伸び切った肘に真下からの強かな掌底を喰らった。

 利き腕に奔る激痛に表情を歪める隙も無く、肘がこめかみに打ち込まれる。

 一瞬の眩暈にを踏んだものの、続く右脇腹を狙った蹴撃をどうにか受け止めた。

 そのままマートンの脚を絡め取り、ローフォークは軸足の右膝を思い切り蹴り上げた。


「ぐあっ」

 マートンの表情が苦悶に歪む。

 それでも、背中から落ちる直前に身を捻って受け身を取ったのは、流石と言うべきか。


 二人は互いに距離を取る。

 ローフォークは剣を構え、マートンは大振りのナイフを構えた。

「右」

「……」

 ローフォークは、隠すように右脚を引いて構えているマートンに言った。

「トビアスでシェースラーに撃たれた脚は、まだ痛むようだな。アニエス様を別邸に残して行ったのも、ベルナール様の誘拐にカラマン大使を利用したのも、その脚が理由か? 痛みが走って、思うように動けない時があるのだろう」


 忍び込み、気配を殺して背後から襲撃することは出来る。

 だが、嫌がる子供を誰にも知られずに、生かしたまま連れ去るのは難しかったのだろう。だから最初に大人しいアニエスを拐い、次にアニエスをネタに言葉巧みにベルナールを拐ったのだ。

「……手前ぇのところの下っ端に文句が言いてえ。どうせならもっと綺麗に撃ち抜け、ってよ」

 マートンは腹立たし気に唾を吐き棄てた。


「まあ、お陰様で別行動が許されたけどな。皮肉なもんだ。これまで散々女を喰い散らかしてきた公爵様が、自分の大事な一人娘を拐われちまった。あの商家のお嬢ちゃんがそうだったように、今度は自分の娘が傷物と嘲笑される立場になったんだからな。因果って巡るもんだなぁ」

「そんな事にはならない」

 ローフォークは言い切った。


 いやらしい笑いを溢していたマートンは、スッと真顔になり首を傾げた。

「俺達がお護りするから、って?」

 眇めて見る両目には、軽蔑さえ見てとれた。


「分かんねぇんだよなぁ。昔から、お前のそういうところが。本気で思ってんのかよ。忠誠心? 責任感? お貴族様の矜持ってヤツか?」

「守るべきものを持たない貴様には、理解出来ないものだ」

 ローフォークの答えに、マートンは驚きの表情を見せた。

 直後、満面に嗤笑ししょうが浮かぶ。


 身を震わせながら、マートンは腹を抱えて笑った。

 剣を突き付けられていることすら忘れているようだ。

「ああ、そうだったな。お前は、そういう奴だった!」

 マートンの手が閃き、つぶてが飛んだ。


 礫を避けて、ローフォークは地面を蹴り一気に距離を詰める。

 突くと見せかけて剣を返し、頭上からマートンの左頸部を狙う。

 マートンはローフォークの懐に飛び込んでこれを躱し、顎を狙ってナイフを突き上げた。反射的に上体を反らせることが出来たのは運だ。

 互いの立ち位置が替わった時、ローフォークの頬には浅い切り傷が出来ていた。


「マートン、お前の目的は何だ!」

 剣を打ち込みローフォークは質した。

「レステンクールの復讐!」

 マートンは剣を薙ぎ、答える。

 大振りのナイフが、剣身を擦り上げて火花を散らし、ローフォークの顔面に迫った。


「嘘を吐け!」

 紙一重で白刃を躱し、腕を捕まえて足を払った。

 体勢を崩したマートンを、今度こそ地面に叩き落とす。

 背中を強打したマートンは、だが、留まることなく地を転がり、突き下ろした剣から逃れた。


「じゃあ、忠誠心!」

 起き上がると同時に投じられた細身の短剣を、ローフォークは弾き落とす。

「貴様に最も欠けた物だ」

「どうかな? 他人を欺く話術、脱獄の知恵、抜き足の訓練、暗殺の技、毒の知識。どれもこれも、レステンクール王家の為に叩き込まれた技術だ。忠誠心が無きゃ、やり遂げられないだろう? 俺にそれを教えた奴は、真っ先に王家を見捨てて逃げたがな!」

 突き、薙ぎ、弾き、斬りながら、マートンはカラカラと笑った。


「面白いことを教えてやろうか⁉︎ カラマン皇妃側に潜伏している間諜からの情報だ」

「要らん」

「皇帝は死んだ!」

 一瞬の動揺を見抜かれ、ローフォークは利き腕の肩を突かれた。

「くっ……!」

 危うく取り落としかけた剣を握り直し、追撃を躱して距離を取る。


「カラマンはこれから内戦に突入する。それを回避するには玉璽を先に確保するしかない。まずは皇帝の居室と執政室、それと誰が葬儀を主導するかも重要になるから、今頃は遺体の争奪戦だ。だが、第一皇子も皇妃も玉璽を手に入れる事は出来ない!」

「どういう意味だ」

「玉璽はとっくに第三者の手に渡ってるって事だよ」

「まさか、貴様等が!」

 刃が激しくぶつかった。


「惜しい! 確かに、皇帝に毒を盛ったのは潜入していたレステンクール人だ。卒中に見えるように毒を調合したのは俺。けど、毒殺を企んだのは俺達じゃぁ無い。かつて、そうやって毒を盛られて皇位継承から脱落した御仁が、カラマンにはいた。玉璽はその御仁の手元にある。誰だか分かるか?」

「……メロヴィング公爵!」

 ナイフを弾き、間合いを取った。


 メロヴィング公爵はジュール四世の叔父で、若い頃に病で不自由な身体となったと言われていたが、実は皇位継承争いで現皇帝の生母に毒殺されかかったとの噂もあった。

 充分に動かない身体の為に長い間独身だったが、政治的な理由でレステンクール王国のルイーズ王女を押し付けられた。

 そのルイーズ王女は、何年も前の冬のある日に、階段から落ちて腹の子と供に死んでいる。この事故は、グルンステインの前王太子妃アリンダが関わっていると噂され、後に『レステンクール包囲戦争』の切っ掛けとなった。


「そして、十二年前の王太子夫妻暗殺事件の引き金になった王女だ」

 マートンは、ローフォークの反応を窺うように付け足した。


「『王太子夫妻暗殺事件』。当時の王太子とその妃が無惨に殺害された事件だ。シャルル王子も死にかけたな。犯人は捕まった。レステンクールの残党だ。だが、どうやって侵入した? 犯人の一人が侍女官を騙して侵入したとされた。ところが、その侍女官の父親であるロイソンは、それを信じなかった。娘がそんな真似をするはずが無いってな。ロイソンは密かに事件の真相を調べ始めた。海軍の艦隊司令官の地位を捨ててまで。父親と兄を信じ切れずに小悪党に弄ばれて、腐ってた奴とは大違いだ。結局、ロイソンもその小悪党の言いなりになっちまうが」

 マートンはクククッと笑いを堪える。


「んで、俺も興味が湧いて調べた。ロイソンよりも自由が利いたからな、存外、早い段階で当時の護衛官に辿り着いた。家族を痛め付けて吐かせた話は、面白かったぜ」


 夫妻は、互いに殺し合ったのだ。

 王太子妃は嫉妬深い女だった。熱烈な狂愛を夫に向けていた王太子妃は、夫に近付く女は、幼い実の娘でも許さなかった。仮に一方的であったとしても、夫と結婚の話が出た事があるルイーズ王女に、偏執で強烈な憎悪を抱いていた。

 ルイーズ王女を階段から突き落とし、殺害したのは王太子妃だ。

 王太子妃の心には、自身の愛情の重さで罅が入っていた。些細な切っ掛けで壊れる寸前まで来ていたのだ。

 偶然とは言え、ルイーズ王女の所縁ゆかりの地での会話が、心の崩壊の最後の一押しとなってしまったのだ。


 心の限界を迎えた王太子妃は、夫と子供達に襲い掛かった。

 その揉み合いの中で、ロイソンの娘はシャルルを庇って死に、親衛隊長だったローフォークの兄は王太子妃の手で滅多刺しにされた。

 事態を知った王家は、国内の混乱の鎮静化と外国との折衝の為にレステンクール人を犠牲にし、護身の役目を果たせなかったとしてローフォーク家を国家の生贄としたのだ。


「ローフォーク家は立派に役目を果たしたわけだ。それなのに、遺されたお前ら母子おやこは不当な扱いを受けた。フィリップ十四世といい、カラマン皇帝といい、絶対権力者ってのは理不尽なもんだな。俺にこの話をしてくれた元護衛官も、怯えていたぜ」


 マートンは、これは絶対の機密なのだ、と家族を人質に取られて洗いざらい喋り震える元護衛官を、全員を一息で殺してやった。


「俺はカラマンにいた仲間の伝手で、メロヴィング公爵に接触した。メロヴィング公爵には、何もかも壊してくれと頼まれた。カラマンも、グルンステインも、レステンクールの同胞共も、全部。公爵は自分が毒を盛られたことは、どうでも良いんだと。命を拾って、資産は保証された状態で面倒臭い政争から引き離されて、自由にならない身体のお陰でせっつかれる事もなく、のんびり暮らせて満足していた。だが、妻子のことは別だった」


 押し付けられた妻だが、気が合った。

 気弱ではあったが、控えめで優しく、細やかな気配りの出来る妻を、メロヴィング公爵は愛した。

 妻の妊娠は予想外だったが、間違いなく自分の子であった。

 忘れられた最端さいはしの離宮は、きっとこれから賑やかになる。

 そんな喜ばしい期待は、嫉妬に狂った愚かな女によって壊されてしまった。


「もう無駄に生きたくないんだと。だが、ただ死に去るのは口惜しい。妻と子を殺した二つの国が、妻を苦しめ続けたレステンクール人が、無惨に破滅する様を見てから死にたいってな。手段は問わない。好きにして良い。何もかもを滅茶苦茶にしてくれ、と。だから、俺は願いを叶えてやることにしたんだ。戦争を誘発することでな。なあ、カレル。これはルイーズ王女の仇討ちだ」


 立派なレステンクールの復讐だろ?

 そう言って、マートンはクククッと、癖のある笑いを溢した。


「……納得出来ねえって顔だなぁ。まあ、そうか。それは結局オマケだからな」

 マートンは、首を僅かに傾げて言った。

 ローフォークの首筋に冷たい汗が流れた。


「俺は、混沌がたいんだ」

「……」

「呻いて、這いずって、哭いて、裂けて、千切れて、引き出されて、飛び散って、辺りは血霧に染まって……。十二年前の大虐殺は最高だった。まだ暗いうちに街に出て、昇った朝陽が惨状を暴く瞬間は、そりゃあ綺麗だった……。俺は今でも、あの時のことを思い出すとゾクゾクする。忘れられねぇ景色だ」


 咽せ返る血の臭い。

 鼻を衝く腐臭。

『何か』だった、赤黒い物体。

 そして、それに集る蟲の群れ。


「俺は、それを、またたい。今度こそ、その世界に入り浸りたい」

 マートンはうっとりと両目を細めた。

 恍惚としたその表情は、愛しい者を想い、煩っているようにさえ見えた。


気狂きちがいが……!」

 ローフォークが吐き出した言葉に、苦しげに胸を抑えていたマートンは口の両端を大きく引き上げた。

「最高の褒め言葉だ」

 兇猛な笑みに、ローフォークの肌は総毛立った。

 目の前のは、自分が知っている人間の範疇を超えている。


 血に飢えた獣とも違う。

 まるで人の形をした魔物だ。


 マートンは、ゆるりとした動きで懐から皮袋を取り出した。

 放られ地面に落ちた袋から、黒い粉がこぼれて散乱する。同時にマートンは背を向けて走り出した。

 ローフォークが追い掛けようとした時、マートンの手が新たな小袋を放り投げていた。

 緩んだ袋の口から、陶器の容器が投げ出される。

 さらにその容器から飛んで出たのは、空気に触れて赤く輝く石炭だ。

「しまっ……!」

 失敗を悟った瞬間、真っ赤に灼けた石炭は、足元の黒色火薬の上に容器の破砕音と共に落下した。

 ジジッと短い引火の音がした直後、白色の閃光と共に、一帯に爆音が轟いた。


「フランツ様!」

 ジェズが、夜鳥が羽ばたき立った夜空を指して叫ぶ。

 閃光と振動はすでに収まり、樹々の向こう空に、沈みかけた月明かりに照らされて、白煙が僅かに視認出来るばかりだ。

 フランツは翠の瞳を鋭く細めた。

「急ぐぞ」

 ジェズとドンフォンは返事と同時に駆け出した。



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