第十二話〜⑨

     *   *



 上空から差し込む月明かりは進む先を照らし、ローフォークを導いた。

 追跡を振り払う為にマートンが何処に向かうのか。自分がそこに居た痕跡を消しつつ、どう逃げ切るつもりなのか、考えた。


 恐らく、まだ遠くへは行けていない。

 その確信がローフォークにはあった。それと同時に、ベルナールの誘拐に失敗した時点で、マートンは王宮庭園での潜伏を選ばないだろう、とも。


 そもそも、潜伏先である郊外の公爵邸に、アニエスを残して行ったことが疑問だった。

 マートンの動きは、レステンクール人の残党達の思惑とは、恐らく違う。

 カラマン皇妃に加担して、マリー殺害の目的の為にアニエスを誘拐したのなら、せっかくの人質を手離す道理は無い。グラッブベルグ公爵を脅迫した後に、さっさと潜伏先から人質を連れて逃げてしまえば良かったのだ。

 

 そうすれば、わざわざベルナールを誘拐する為に王宮庭園に侵入する危険を冒さずに、グラッブベルグ公爵共々、フィリップ十四世をも脅迫し続けることが出来たはずなのだ。

 勿論、ローフォークが駆け付けると想定して、あの悪趣味な細工を施したのだろうが、アレはアニエスを囮に自分の逃走の時間を稼ぐ為の細工でもあった。


 マートンには、人質を連れて歩くことが出来ない理由があったのだ。

 その理由は恐らく、カラマン大使と共にベルナールを誘拐した理由にも繋がっている。


『後で、シェースラーを褒めてやろう』

 昇級の推薦をしても良い。

 その為にも、必ず奴を捕まえる必要があった。


 林の中を真っ直ぐに突き進み、やがて、ローフォークは散策路に辿り着いた。

 頭上では、足下の散策路に沿うように星の川が延びている。

 星座の位置とおおよその時間帯から方角を見極め耳を澄ませると、柔らかい風に揺れるささやかな樹々の葉擦れの音に混じって、夜鳥や獣の鳴き声以外の何かも耳に届く。

 自分の遠い後方から聞こえてくるのはフランツ達の声だ。

 後を追って来たのだろう。

 そして、比較的近くに水の流れる音がした。


 そのまま散策路を走っていると、馬車が一台通れる程の手摺りの無い石橋が現れた。

 橋の手前から、小川の筋に沿って遊歩道が整備されている。

 記憶が確かであれば遊歩道は途中で途切れ、行き止まりの開けた場所に休憩用の東屋ガゼボが設置されていたはずだ。

 人の手の入った小川も一旦そこで終わり、人工の小さな滝となって人の目を楽しませたのちに、自然のままの流れを取り戻し、さらに下流へと流れる。

 その流れは、王宮庭園を囲う城壁の侵入者防止の格子を擦り抜け、潜り、やがて王都を支える大運河を形成する大河の一本へと流れ込んだ。


 ローフォークは遊歩道を下流域に向かい走った。

 広場に近付くにつれて爆声が大きくなってくる。

 それと同時に周囲の葉擦れの音も獣達の鳴き声も遠退き、整備された石畳を走る自分の靴音が辛うじて耳に届く程度だ。


 走り続けていたローフォークは、ふと口元を引き上げて、手にしていた剣を握り直した。

 これまでこなしてきた役目柄、夜目が利くのが有り難い。

 ローフォークの濃紺の瞳は、今まさに人工滝を眺望出来る東屋ガゼボの奥で、転落防止の木柵を乗り越えようとする男の姿を捉えていた。


 朱殷色しゅあんいろの髪の男はローフォークに気付き、ニッと笑みを浮かべる。

「マートン!」

 下から振り上げた剣先は、マートンの喉笛に真っ直ぐに吸い込まれていった。



     *   *



「エリザベス」

 声を掛けられて、エリザベスは顔を上げた。

 からのポットを手に歩いていた廊下の先に、正宮殿にいるはずのシュトルーヴェ伯爵がいた。


「伯爵様、少佐と国王陛下の謁見は終わったのですか?」

「いいや。少し事情が変わったのだよ。カレルはまだ王宮には来ていない。途中でベルナール様を誘拐した犯人と出会して、救出行動に移ったのだ」

 ベルナールの誘拐と聞いて、エリザベスは驚いた。

 その様子に気付かされたのだろう。伯爵はややバツが悪そうな顔をした。


「そう言えば、伝えていなかったな」

 ぽりぽりと頬を掻くと、伯爵は周囲を見回して腰を曲げ、エリザベスに小声で言った。

「アデレード様が心配するからと、陛下に口止めされていたのだった。実はね……」


 伯爵の秘書官が周囲に目を光らせている中で、ベルナールの誘拐があった事。

 幸運にも王宮に出向く途中のローフォーク達の馬車と擦れ違い、ベルナールの救出に成功した事。

 誘拐にはカラマン大使も関与しており、大使はすでに妻共々逮捕されている事。

 ローフォーク達は、主犯と思われる男の追跡を行っている事を教えてもらった。

「ベルナール様は今、宮廷に居られる。あちこちぶつけたり切り傷だらけだが、当人は至って元気だよ」


 安堵したエリザベスだったが、すぐに眉尻を下げた。

「謁見はどうなるのでしょう。国王陛下との御約束を破ってしまって、少佐は罰を受けたりするのでしょうか」

「いいや」

 伯爵は翠の瞳を細めて短く答えた。


「フランツとジェズ、ドンフォン中尉が、カレルと共に犯人を追跡している。宮廷でもデュバリーの第一連隊が現場に急行した。カレルが犯人を捕まえて御前に現れるのを、陛下は待っておられる。心配は要らないよ。ところで、マリー様の御容態は?」

 エリザベスは、さらに眉尻を下げて横に首を振った。


 破水が起こってから、すでに二時間以上が経過している。

 時刻は日を跨ぎ、間もなく午前三時を迎えようとしていた。

 頭は見え始めていて、宮廷医の話では無難な時間らしいのだが、とにかくマリーの体力が限界に近い。


「私、出産のお手伝いなんて初めてで、何が良くて何が良くない状態なのかが分かりません。ですが、皇女様は衰弱なさっていて……」

「……そうか」


 出産が原因で死亡する産婦は多い。

 あまり身体を動かさない貴族や富裕層の夫人などが、初産で命を落とすことは珍しくも無かった。

 特にマリーの出産は、精神的・肉体的な負担も大きい長旅から間もなくのことだ。

 最初から危険な出産であったのだ。


「カレルがまだ登城出来ない事を、殿下に告げるわけにはいかないか……」

 眉間に皺を寄せて伯爵は考え込んだ。

 何にしても、伯爵はこれ以上産室には踏み込めない。マルティーヌに頼るしかないだろう。

 マルティーヌを呼んできて欲しいと頼まれたエリザベスは、すぐに踵を返して廊下を駆けた。


 産室前に到着してドアノブに手を伸ばしたエリザベスは、同時に廊下に飛び出して来たアリシアの豊満な胸に弾き飛ばされた。

「きゃあ、リリー!」

 アリシアは慌てて、廊下にひっくり返ったエリザベスを助け起こした。

「ごめんなさい、リリー。怪我は無い?」


「だ、大丈夫です、アリシア様。急に飛び出されて、どうなさったのですか?」

 開け放たれた扉の向こうでは、アデレードやアンが罅割れた声で必死にマリーの名を呼んでいるのが聞こえる。

 事態が悪化したのだと分かって、エリザベスは青褪めた。


「マリー様に限界が来てしまって、気を失ってしまわれたのよ。私、貴女を呼びに行こうとしていたの」

「私を、ですか?」

 アリシアは頷いて、エリザベスを産室内へと促した。


 産室では寝台の傍らで、宮廷医達が鋏のようでいて鋏ではない、金属の器具を卓上に並べている。大きなスプーンにも見えた。

「お医者様が、あの器具で赤ん坊の頭を掴んで引っ張り出すのですって。それで、貴女は私達の中で一番身体が軽いでしょう? マリー様の負担も少ないということで、貴女にも手を貸して貰いたいの」

「⁇」

 言われたことの意味が分からず、戸惑った。


「マリー様に跨がって、お医者様が赤ん坊を引っ張るのに合わせて、お腹を押すのよ」

 寸の間、キョトンとしたエリザベスは、次の瞬間ギョッとしてアリシアを見上げたのだった。



     *   *

 

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