第十二話〜⑥
* *
シャルルは噤み、国王の政務室は静けさを取り戻した。
「何故、妃殿下はそのような凶行に及んだのでしょうか」
誰もが言葉を紡げずにいる中で、伯爵が重い沈黙を破った。
フィリップ十四世はくしゃみでも我慢しているような、奇妙な顔になる。
「アリンダを追い詰めたのは、些細な一言であった」
事件が起こった古城は、かつてその地にあった小国の王が、王妃の為に建てた城だ。
広大な森の中、比較的標高の高い場所にある湖の上の古城は、秋が深まる季節には森が鮮やかに色付き、城の尖塔から眺望出来る景色は溜息が出るほど美しい。晴れた日には湖の輝きも加わって、その風景はさながら色とりどりの宝石を敷き詰めたかのようだった。
『レステンクール包囲戦争』で獲得したこの土地は、第二子の出産祝いとしてジュール四世が妹アリンダに贈った土地だ。
それ故に、フィリップ十四世も将来的にはアリンダの所有地として下賜するつもりであった。
ただ、この城はフィリップ十四世の叔母が、レステンクールの宮廷を追われてから晩年を過ごした場所でもあった。
叔母の墓は城下の村にある小さな教会に建てられていて、あまりにも小さい村だった為に、戦争の最中でも殆ど略奪に遭うことはなかった。
不遇の晩年を送った叔母を父が気に掛けていたことを知っていたエドゥアールは、自身にとって大叔母にあたる彼女の墓参りがしたいとアリンダに相談し、アリンダは快く受け入れた。
家族で訪れた小さな教会の墓地は、こざっぱりとしていた。
この土地の領民にとっては自分達を苦しめ、国を滅ぼした王を生んだ憎い女であったはずだが、私財を投じて土地の整備を行い、暮らしを改善しようとしていた叔母は村人から好かれていたのだ。
エドゥアールにとって、ただの一度も会った事のない大叔母だが、墓守り達は日々欠かさずに手入れをしてくれていた。
それを嬉しく思っていた時、墓守りの発した言葉が空気を変えた。
「ルイーズ王女様も、帝国にお輿入れされるまで毎日のように墓参なさっておられました。王女様は王太后様を大変慕っておいででしたから」
墓守りに罪は無い。
グルンステイン王国の宮廷内での醜聞は、近衛連隊が懸命に隠し続けていたのだから。
遠い地の小さな教会の墓守りごときが、王太子妃の逆鱗が何かを知るわけがないのだ。
震える唇は固く結ばれ、鮮やかな青空の瞳には忽ち雨が滲んだ。
平民達の前で泣き喚かなかったのは、アリンダのカラマン皇族としての矜持だったのか。
その日の予定は全て中止となり、家族は湖の上の古城へと帰った。
事件は、その夜に起こったのだ。
「アリンダは、ずっとエドゥアールとルイーズ王女の関係を疑っていた」
「しかし、王女は事件の五年も前に亡くなっておられます。それだけの間が開いていて、一体何を疑うと仰るのです」
戸惑うソレルにフィリップ十四世は言った。
「死した者との思い出は、その者の心の中にある。それはどんなに足掻いても、他者には穢しようが無いのだ」
カラマン帝国でのルイーズの待遇は良いものでは無かった。
ルイーズの輿入れは、妹を守りたいジュール四世が、レステンクール王を黙らせる為に思い付いただけの物だったからだ。
ルイーズの伴侶として選ばれたメロヴィング公爵は、ジュール四世の叔父にあたる。
ルイーズとは親子ほど歳が離れていた。
当時の皇位の継承順位は三番目だったが、若い時分に病が原因で身体が不自由となっており、宮廷の隅に追いやられたきり、誰からも忘れられた名ばかりの皇族公爵だった。
身分はあっても夜会に招待される事もない。
そのような立場であったのだ。
カラマンに利益を齎すことのない外国の王女には、都合の良い相手だった。
それでもレステンクール王は、子供が生まれれば皇位継承争いに喰い込めると思っていたようだが。
「エドゥアールは、ルイーズ王女がカラマンで安寧に暮らしているか、いつも気に掛けていた」
何処までも性根の腐った父王に振り回される、憐れな王女への思い遣りは、一度ならず接した事のある相手だったからだろう。
かつて、グルンステインとレステンクールの間で起こった『継承戦争』の休戦期、ルイーズは兄王子と共に天然痘を患ったアデレードを見舞った事がある。
傷だらけのアデレードを悪し様に侮辱した兄王子とは正反対に、彼女はアデレードの快癒を願い労ってくれた。
和睦が決裂した後には、進軍中のグルンステインの宿営地に使節として送り込まれ、兄王子や父王の代わりにエドゥアールと直接、停戦の交渉を行った事もある。
敵陣営でありながら、ルイーズに付き従っていたのは女ばかりであった。
その裏に隠されたレステンクール王の卑猥な真意を読み取ったエドゥアールは激怒し、ルイーズ王女を怒鳴り付け高圧的な条件を突き付けた。
それきり会う事の無かった王女に対し、感情的に怒りをぶつけてしまったことをエドゥアールは恥じていた。
女性の地位が著しく低いレステンクールにあって、不利な条件を持ち帰った王女が、その後どのような扱いを受けているのかを、ずっと気に掛けていたのだ。
それは恋情ではなく、同情のようなものだった。
しかし、実の娘にさえ嫉妬を顕すアリンダには、そのような理屈など通用するはずもなかった。
「ルイーズ王女が亡くなってしまったからこそ、なのかも知れぬ」
フィリップ十四世は傷ましく首を振った。
エドゥアールの中にあるルイーズを悼む心は、結局、アリンダの執拗な愛情では消し去ることは出来なかったのだ。
或いは、アリンダのそういった思い込みは、夫を愛するあまりに自らにかけた呪縛のようなものだったのかも知れない。
「城に戻ったアリンダは、ひたすらにエドゥアールの不貞を責め続けた。エドゥアールにとっても亡きルイーズ王女にとっても、それは冤罪でしかない。しかし、アリンダはもう後には引けなくなっていたのだ。何故なら、アリンダはマリーを身籠ったと分かった冬、故郷の祭祀の期間中に、夫を奪われまいと人を一人殺してしまっていたのだから」
「カラマンの祭祀の期間……、それは、まさか……」
緊張した面持ちで呟いたソレルは、そこから先を口にすることが出来なかった。
フィリップ十四世は頷いた。
「ルイーズ王女は、石階段で足を滑らせたのではない。アリンダによって突き落とされたのだ」
二人目の妊娠。
夫と離れ離れになってしまった事による、漠然とした焦り。
それが原因で長引く悪阻による体調不良。
日々、大きくなってゆく腹に「今度こそ夫に似た子を」と願う反面、「今度もまた」という不安。
そんな時に、アリンダの耳にルイーズの懐妊の噂が届いた。
カラマンに於いても、根拠のない噂話は枚挙にいとまがない。
真偽などどうでも良く、その噂が誰かの名誉を貶めるものであれば、より一層楽しく広がって行くものだ。
アリンダとエドゥアール、そしてルイーズの関わりを知っている者達は、面白おかしく吹聴していった。
『メロヴィング公爵夫人ルイーズの腹の子は、グルンステイン王太子エドゥアールの子ではないか?』
それは
だが、この品の無い悪質な誹謗中傷は、他でもないアリンダの
石階段の踊り場で顔を合わせたのは偶然だ。
帝国皇女に丁寧に御辞儀をするルイーズに、アリンダに付き従っていた取り巻き達がいつものように因縁をつけた。
誰かが
勿論、ルイーズは不義を否定した。
お腹の中の子は、間違いなく夫メロヴィング公爵の子である。
それでも取り巻き達は、以前ルイーズとエドゥアールがアリンダの目を盗んで会っていたのを見た、と出鱈目を言った。
とても楽しそうに話していたと言ったところで、アリンダの限界が訪れた。
取り巻き達の間から伸びた二本の手が、ルイーズの両肩を押した。
体勢を崩したルイーズは石階段を踏み外し、そのまま最下段まで転がり落ちた。
ルイーズを追いかけて、近くにいた紳士から杖を奪い、叫びながら、激情のままに撲る。
一方的な苛めを遠巻きに眺めて、せせら笑っていた者達全員が、その出来事の目撃者だった。
しかし、アリンダがしでかした事、その狂気性、そしてアリンダの背後のジュール四世の存在に対する恐怖に、誰一人としてアリンダを止め、ルイーズを助けようとする者はいなかった。
ルイーズは、カラマンの人々に見殺しにされたのだ。
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