第十二話〜⑤

 シャルルが二歳になった年の盛夏、アリンダが二人目を身籠った。


 妊娠が分かった時、夫婦はアリンダの里帰りも兼ねてカラマン帝国に訪れていた。

 当初は帝国の秋の祭禮までの滞在予定だったが、アリンダの体調が優れないことを理由に、ジュール四世が第二子の出産をカラマンで迎えることを提案した。

 王太子としてグルンステインの年末年始の行事に参列せねばならないエドゥアールは、これを有り難く受け入れた。

 アリンダは泣いて嫌がったものの、最終的に兄皇帝の決定に従った。

 のちに、妻を残して先に帰国したことを、エドゥアールは心底悔いることになる。

 メロヴィング公爵夫人ルイーズが死んだのだ。


 粉雪の降る昼下がり、散歩に出ていた宮殿の庭で石階段から足を滑らせて転落した。

 ルイーズだけならば、命は助かったかもしれない。

 しかし、彼女の腹には夫であるメロヴィング公爵の子が宿っていた。腹部や腰を強く打った彼女は、腹の子と共に儚くなってしまった。


 ルイーズの死を受けて、アリンダは急遽グルンステインに帰国した。

 事故の際、現場の石階段にアリンダと彼女の友人達がいたことから、レステンクール側はアリンダと取り巻き達による殺人だと決め付けたのだ。


 三月の半ばに、アリンダは王女マリーを出産した。

 その間にも、カラマンとレステンクールは関係を悪化させて行き、とうとう周辺国を巻き込んだ戦争に発展した。

 後の事は、知っての通りだ。

 連合軍を組んだカラマン帝国に、レステンクール王国は蹂躙された。

 利益を独占していた門閥貴族は国民の手にかかり、国王一家は農民に半殺しの目に遭ってからカラマンへと引き渡された。


『グルンステイン継承戦争』に引き続き行うことになった出兵に、フィリップ十四世はエドゥアールを総司令官として送り出すつもりであった。しかし、三月の出産でも望んだような子を生めなかったアリンダの精神は、一層不安定になっていた。

 夫が自分の側から離れるのを極端に嫌がり、エドゥアールは出陣を断念せざるを得なかった。

 そんな夫の悔しさなど知る由もなく、アリンダは以前にも増してエドゥアールに執着するようになった。

 誰に強要されたわけでもない。

 それなのに、夫に似た子を生めない事で夫の愛が離れてしまうという思い込みは、アリンダに焦燥感を生み、心に深く根を張った。


 焦りから、侍女官や女中への横暴な振る舞いに拍車がかかり、ある時は夫が子守の女官に子供達の様子を訊ねただけで激昂した。シャルル達の前でその女官を酷く打ち、エドゥアールと言い争いになったこともある。

 マリーに対しては、女であることも相俟って憎しみさえ抱いているようだった。

 家臣達の『自分に似た女児であるならば愛着も生まれよう』という期待も虚しく、我が子であっても自分以外の女に夫の愛が向くのが許せなかったのだ。

 マリーも、シャルル同様にアリンダの宮から引き離された。

 そしてエドゥアールは、嫉妬に狂う妻の目を盗んで我が子に会いに行かざるを得なくなった。


「父は、限られた時間の中でも沢山の愛情を注いでくれました。私達を守るために、出来る限り自己を犠牲にして母に尽くしていたのです」

 そう言うシャルルは、悲しげに視線を伏せた。


 そのような折り、フィリップ十四世はエドゥアールへ新領地の視察を命じた。

 エドゥアール達家族に下賜する予定であった『グルンステイン継承戦争』『レステンクール包囲戦争』で獲得した土地を視察しながら、家族の時間を過ごしてもらおうと考えたのだ。

 この旅行が、家族の仲を多少なりと良い方向へ導いてくれればとの期待もあった。


「だが、それは誤ちであった」

 フィリップ十四世は話し疲れた様子で、長く息を吐き出した。



     *   *



「あの夜のことは、十二年を経た今でも鮮明に思い出すことが出来ます」

 フィリップ十四世の語りを引き継ぐように、シャルルは口を開いた。


 あの日、甲高い奇声に叩き起こされたシャルルは、激しい動悸に苛まれながらも寝台から飛び降りた。

 妹のいる続きの間へと駆け込むと、案の定、妹は侍女官にしがみ付き、大き過ぎる寝台の上で震えていた。


「マリー」

「お兄様」

「大丈夫だよ、マリー。私がいるよ。大丈夫。いつもの事だから。すぐに終わるから。兄様と御喋りをしていよう。本でも読んであげようか」

 シャルルの姿を見て、安堵して泣き出す妹を慰めるのも日々のことだ。

 目配せをすると、妹の侍女官は心得て本棚に向かった。


「お兄様、どうしていつもお母様は怒ってばかりいらっしゃるの? お母様はお父様がお嫌いなの?」

 今なら「違う」と返せる問いに、この時のシャルルは答えることが出来なかった。

 八歳の子供に、母の愛情の形を理解することは難しかったのだ。


 妹の侍女官が手灯りを頼りに一冊の本を選んで振り返った時、隣室が急に騒がしくなった。

 マリーの身体がびくりと跳ね、シャルル自身も心臓が飛び出そうなほど驚いた。

 けたたましい金切り声が、シャルル名を呼んでいる。


「ロイソン子爵令嬢」

 侍女官の名を呼ぶと彼女は素早く妹を抱き上げて、直接廊下に出られる扉へと走った。

 その時だ。

 続きの間の扉が開き、母が駆け込んで来た。


 今まさに脱出しようとしていたシャルル達を見付けた母は、一歩遅れたシャルルの後ろ襟を掴んで床に引き倒した。

「お前があの人に似ていたら!」

 暗闇の中で、その表情は分からない。

 シャルルに分かったのは、母が高く掲げた裁ち鋏に、色硝子の燭台の光が反射して煌めいたことと、空色の瞳から幾つもの雫が溢れ落ちて、顔を濡らしたことだけだ。


「お前達は生きているだけでわたくしを苦しめるのよ!」

 振り下ろされた鋏が寝間着を突き破り、シャルルの腹に深々と刺さった。

 悲鳴が響き渡った。

 妹の声だ。

 シャルルは叫ぶことすら出来なかった。

 鋏が引き抜かれ、身体の中から溢れ出た熱い血は、寝間着を濡らしてたちどころに冷えてゆく。


 鋏は、もう一度シャルル目掛けて振り下ろされた。

 しかし、ロイソン子爵令嬢が母を突き飛ばし、二人は一緒に床に倒れた。

 母は一瞬何が起こったのか分からずに驚いた顔をしていたが、すぐに凄まじい形相で子爵令嬢の頬を叩き、彼女は床に打ち倒された。


 子爵令嬢は自分がしたことに恐れを抱いていた様子だ。

 それでも、立ち上がった母の足元に跪き、声を震わせながら必死に思い留まるように懇願する。

 だが、鋏は無慈悲に子爵令嬢の華奢な首に深々と突き立った。

 ネジ部まで刺さった鋏が引き抜かれると傷口から血が噴き、令嬢の身体はそのまま床に突っ伏して動かなくなる。


 マリーはへたり込んだ。

 慕う侍女官の名を呼びながら床を這い、倒れたきり動かない彼女に取り縋って身体を揺すった。

 そんなマリーの髪を、母がおもむろに鷲掴む。

 妹の短い悲鳴に、シャルルは腹の痛みも忘れて跳ね起きた。

 母の腕に掴み掛かり、その手に力一杯噛み付く。マリーは投げ出され、シャルルも床に倒れ落ちた。


 噛み痕の付いた手からは血が出ている。

 母はわなわなと震えて、これ以上にないほどの憎悪を込めて、言葉にならない罵声でシャルルを罵った。

 握り直された鋏が、マリーを庇うシャルルを襲う。

 両目を瞑って覚悟をした時、強い力に全身が包み込まれた。来るはずの痛みが来ないことに恐る恐る目を開く。

 すると、そこには父の親衛隊長の顔があった。


 彼はシャルルと目が合うと、いつものように強く優しい眼差しで微笑んだ。

 彼の背後では、母が奇声を発しながら何度も何度も鋏を振り下ろしている。その都度、唇を引き結び堪える彼は、決してシャルル達の前で苦痛の呻きを漏らしたりはしなかった。


 何度目かに鋏が振り下ろされた時、刃が折れた。

 それに気付いた母は、親衛隊長の腰に提げられた剣に手を伸ばし、察した彼の手が素早くヒルトを抑え込んだ。激昂した母は拳で叩き、髪を掴み、側卓にあった色硝子の燭台で彼の後頭部を殴った。

 破片が辺りに飛散し、部屋には廊下からの僅かな光源が届くのみとなった。


 ぬるりとしたものがシャルルの頬に流れた。

 親衛隊長は頭部から出血し、それがシャルルに伝って流れたのだ。それでも、彼は片手で柄を抑え、もう片方の手で二人をしっかりと庇い続けてくれた。

 やがて、母はこちらに背を向けた。

 疲れ果て諦めたのかと思ったが、今度は引き出しの上の花瓶を掴んで頭上高く掲げた。

 花瓶を親衛隊長に投げ付けようというのだ。


 だが、その花瓶は母の手から転がり落ちて割れた。

 背後から伸びた手が、花瓶をはたき落としたのだ。


 続きの間の扉口に、父が立っていた。

 廊下からの淡い灯りに薄ぼんやりと見えた父は、すでに血塗れだった。

 頭から滲む血は、手当ての布では抑えきれずに絶えず広がっていて、父の顔の真ん中を伝い襟から胸元、腹部までを濡らしている。

 父は肩で呼吸を繰り返していた。


 母が訳の分からない言葉で父を罵った。

 その母を悲しそうな顔で見下ろす父の手には、一振りの剣が握られていた。

「クレール、動けるか」

「はい」

「では、子供達を連れて此処から離れろ」

 親衛隊長は唇をきつく結んだ。

 怒っているようにも泣いているようにも見えた彼は、すぐにシャルルとマリーを抱えて立ち上がった。


 廊下に出る直前、彼の肩越しに父の剣が母の胸を貫くのが見えた。

 マリーがひきつけに似た悲鳴を上げて、それきりグッタリと動かなくなる。


 抱えられたまま進んだ廊下の先には、他の近衛連隊員や侍官達がいた。

 シャルル達を彼等に預けた直後、親衛隊長は廊下に膝を着いた。後頭部から背中、白い長ズボントラウザーズまでが真っ赤な血で染め上げられていて、重症を負っているのが分かった。


「クレール、クレール……!」

 随従の宮廷医のもとへ運ばれるシャルルは、物心つく前から傍らにいてくれた献臣の名を呼んだ。


 彼は、ゆるゆると顔を上げた。

 廊下に点在する灯りの中で、遠去かるシャルル達に向かって笑う。

 いつもの力強く優しい、夜の帳のような濃紺の眼差しで笑いかけてくれたのだ。


 廊下の角を曲がってすぐに、後方から彼の名を呼ぶ部下達の声が聞こえる。

 その意味を理解したシャルルは、気絶している妹の手を握り、泣くことしか出来なかった。


 そしてシャルルも、痛哭つうこくの中で気を失うのである。

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