第十二話

第十二話〜①

 強く握り締めたハンカチから水気がこぼれ、滴が袖口を濡らした。

 エリザベスは戸惑い、救いを求めてアリシアを見た。だが、剛毅な伯爵令嬢も、今、耳にしたことをどう受け止めるべきなのか判断がつかない様子だ。


 マリーの言葉が本当ならば、ローフォークの兄は誰に命を奪われたと言うのだろうか。王太子エドゥアールが妻と子供達を手に掛けようとして、それをローフォークの兄とロイソンの娘が身を挺して守ったということなのか?


 主君に刃を向けるわけにはいかない。

 その主君が子を害そうとするならば、幼いシャルル達を連れて逃げるか、身を盾にして守るしかないではないか。


 王太子は妻アリンダもその手にかけた。

 エドゥアールが妻を殺害した理由は? 

 そして、エドゥアールも死んでいるのは、一体どういう事なのだろう。


 そこまで考えて、エリザベスは思考を妨げられる。

 マリーが、苦痛の呻きを上げ始めたからだ。再び陣痛の波が押し寄せて来たのだ。

 

 マリーはシャルルの袖を掴んだまま寝台に身を沈めた。

 同時に、宮廷医がアッと声を上げた。

 破水だ。

 いよいよ本格的な娩出が始まり、マリーは一際大きな悲鳴を発した。


 重苦しい沈黙が満ちた産室が、再び熱気を持って慌ただしく動き出す。

 マルティーヌはエリザベスに産室の暖炉の火を確かめさせた。

 季節は四月の上旬。

 陽が落ちた瞬間から、空気はみるみると冷えゆく季節だ。生まれてくる赤ん坊が急激な冷えでショックを起こしてはならない。


「殿下、御自身の身体が御子を押し出す時に合わせて、のです。無闇矢鱈むやみやたらではいけません。御子が出たいと思った時に合わせるのです。まだ、まだですよ」

 宮廷医の言葉に、苦悶に顔を歪めるマリーは頷いた。


 マリーは、激痛の最中にも懸命に祖父王に話し掛ける。

「お祖父様……。この事は、夫も、お義兄様も、御存知です」

 フィリップ十四世は身を震わせ、孫娘を見遣った。


「悪夢に魘される私を、二人は、本当に本当に、大事にしてくれました。誰にも言ってはいけない、と。これを知られたら、カラマンとグルンステインは戦争になってしまう、と。皇帝陛下の本質を理解していた二人はそう言って、私達はずっと、三人だけの秘密にしてきたのです。お義兄様も夫も、これを知った上で、あの条件を提示してきたの……。だから、だから、もう……ゔ、ゔぅーっ!」


 陣痛の間隔は確実に短くなっている。

 だが、やはり収縮が弱い様子だ。

 宮廷医の弟子が、寝台の柱に縛ったを助ける紐を握らせようとするが、今のマリーにはシャルルの手を離せるだけの余裕は無かった。


 シャルルが困惑していると、アンが空いていた側の手を取り、袖を掴むマリーの手に添えた。そのシャルルの手を、さらにアンが包み込む。

「殿下」

 アンは明るい青い瞳で、真っ直ぐにシャルルを見詰める。

「私のような、外から来た者が口を挟むべきではないと分かっています。ですが、このままでいる事は、果たしてこれからのグルンステインの為になるのでしょうか。カラマンの次期皇帝は全てを理解した上で、マリー様を故郷に帰したのです。グルンステインなら、フィリップ十四世陛下なら、きっと自分達の想いを理解してくれると信じて」


 第一皇子ジュールは、時代に則した同盟協定を結び直したいと考えている。

 その詳細は、マリーがジュールから預かっていた手紙に書かれており、フィリップ十四世もシャルルも閣僚達も承知済みだ。


 同盟協定の見直し。

 それは、南方の大国アンデラ王国の伸長に対抗する為だ。

 アンデラ王国は、二十年程前に完全な中央集権化を達成し、現在の政治は安定していた。経済も造船技術の発達により、内海を自在に航行し東方の国々との交易で潤っている。技術の進歩は造船だけでなく、織物、製紙、農耕、そして軍事にも及んでいる。

 特に、新銃の一件からも武器製造技術の進歩は著しい。

 グルンステインの上層部でも、彼の国が数年以内に戦争を仕掛けて来る可能性は高いと見ている。


 収穫祭におけるフィリップ十四世とシャルルの暗殺計画への武器供与は、グルンステイン王国を『聖コルヴィヌス大帝国』攻略の最初の足掛かりとする為に、アンデラがレステンクール人の憎悪を利用して起こしたものである事は、最早、疑いようもない。


 これまでであれば、アンデラがグルンステインに侵攻を始めれば、周辺同盟国は軍事協力の名目の下に、どさくさに紛れて領土を掠め捕ろうとしただろう。先日の御前会議でマリーに対しシュトルーヴェ伯爵が主張した事が、まさにそれだ。

 第一皇子の提唱する新しい同盟協定とは、旧来の奪い合いで領土を拡張するやり方を改めるというものだった。

 外国の侵略から国土を守るには、同民族同士、内輪で争っている場合ではないのだ。

 同盟各国、すでに充分な国土を保有をしている。

 第一皇子ジュールは各国公認の内輪揉めを止め、外敵からの脅威に対する防衛と大帝国内の万遍ない発展を望んでいたのだ。


 十二年前に生じた不和の隠された真実を知り、だからこそグルンステインに対して優位に立てる『駒』であるはずのマリーを手離してまで、これまでの古い大帝国の在り方を変えようとしていた。


「カラマンの次期皇帝は先の世を見据えているのです。コルヴィヌス大帝の『同民族統一計画』に参画して、百余年。今の体制にもやがて限界が訪れます。これからの国家の在るべき姿は、否応にも変化せざるを得ません。その変化が時代に飲まれて押し付けられた物なのか、自ら手を伸ばして掴んだ物なのかで、国の強さは変わるのです。まさに先代の積極的な大改革で強国として生まれ変わったグルンステイン王国は、次期皇帝が目指す大帝国の未来の姿なのだと、私は思います」


「アンお義姉様……」

 アンは虚ろな瞳で自分を見上げるマリーの額を撫で、汗で張り付いた前髪を除けてやった。


「お祖父様……。お義兄様はグルンステインの味方になって下さいます。だから私達は、真実に恐れを抱いて、彼等の犠牲に目を背けたままに逃げ続けてはいけないのです……」

 マリーの呼吸がしだいに荒れてくる。

 先程から殆ど間も置かずにやって来た痛みは、再びマリーを苦しめた。

「お祖父様、お兄様……。どうか、どうか、彼等と向き合って下さいまし……! 彼等が私達の身代わりになる必要など、何処にも無いの……!」


 床に座り込んだまま、フィリップ十四世は茫然としていた。

「お父様」

 アデレードが、躊躇いつつ声を掛けた。


 多くの視線の中で沈黙していたフィリップ十四世は、やがて立ち上がり、産室にいる人々に背を向けて歩き出した。

「お祖父様」

「お祖父様……!」

 シャルルとマリーの呼び止めに耳もくれず、産室の扉口に控えるシュトルーヴェ伯爵の前も通り過ぎて行った。


「陛下。宜しいのですか」

 伯爵の問いは、マリーの傍に居なくてもよいのかという意味にも、マリーの告白によって齎された十二年前の事件の疑念をそのままに、この場を去ってもよいのか、という意味にも取れた。


 フィリップ十四世は足を止めて伯爵に振り返る。

「シュトルーヴェ伯爵、付いてまいれ。ギュスターヴの息子である其方は知らねばならない」

 シュトルーヴェ伯爵は一瞬目を見開いた。

 しかし、右手を胴の前に、軽く握った左手を後ろ腰に回し深々とした辞儀で応じると、フィリップ十四世に続いて産室を出て行った。


「マリー、私も行くよ。私が、行かなければ」

「お兄様……」

 マリーは、縋るようにシャルルを見上げた。

 シャルルは今にも泣き出しそうに、苦さを滲ませた微笑みを浮かべる。

 マリーの手をアンに託してシャルルが立ち去ると、離宮の産室には宮廷医と女達だけが残った。


 それから、どれほどの時間が経ったのか、やがてローフォークの王宮庭園からの追放処分が解かれたとの情報が届いた。

 続いて正宮殿の国王の政務室にて謁見の準備が行われているとの話が届き、エリザベスは堪らずアリシアの手を握ったのだった。

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