第十一話〜⑫

     *   *



 血の気を失い蒼白な額に流れる汗をアデレードが拭う。

 エリザベスが水を含ませたハンカチをアンに渡し、アンが苦痛と闘う渇いた唇にハンカチを当てると、マリーは啄むように少しずつ水分を吸った。


 陣痛が始まって、すでに九時間は経つ。

 引いては返す痛みの波に疲労を隠せなくなっていたマリーだったが、それでも最初は冗談を言って周囲を和ませるゆとりはあった。それに変化が生じたのは、陣痛の合間に交わしたアデレードとの会話からだったと思う。

 口を噤んで何も話さなくなったマリーは青褪めて動揺し、呼吸が乱れ始めた。そこから、見る間に体力は消耗し、血の気を失って行った。


 産室前が騒がしくなり、マルティーヌに招かれてフィリップ十四世とシャルルが現れた。

 甲斐甲斐しく世話を焼いていたエリザベス達は身を引き、マリーの手を握っていたアデレードは立ち上がって、フィリップ十四世にその場を譲った。反対側では、同じく手を握っていたアン王女が、シャルルの為に場所を空ける。


 マリーを一目見た瞬間、フィリップ十四世は怒鳴った。

「何故、こんなにも顔色が悪い。一体、何時いつになったら子は出て来るのだ!」

 声を荒げ苛立ちを隠さない国王にエリザベス達が身を竦める中、侍女官長マルティーヌだけが、静かに対応した。

「初産は時間が掛かるものです、陛下。王妃陛下の時には、丸一日掛かったと聞き及んでおります」


「だが、ここまで疲弊してはいなかった。余は、我が子が生まれた時を全て覚えておる!」

「陣痛が弱いのですわ。お腹の子を外に押し出すだけの力が充分には無いのです。恐らく、カラマンからの危うい長い旅で、想像以上にお疲れだったのでしょう。出産に必要な体力が戻り切っていないまま、お産を迎えてしまったのです」

 フィリップ十四世は顔中の皺を寄せ、眉尻を下げた。


「お祖父様……」

 血色の悪い顔に脂汗を浮かべて、マリーが掠れた声で呼び掛けた。

 深い青い瞳が虚ろに祖父王を見上げ、フィリップ十四世は冷えた孫娘の手を、励ますように両手で包み込んだ。

「マリー、気をしっかり持て」

「お祖父様……、お願いしたい事が御座います……」

「なんだ? 余に出来る事なら何でもしよう。だからマリー、そなたは必ず生きて母になるのだ」

 マリーは苦悶の表情の中で小さく微笑んだ。ホッとしたようにも見える。

 フィリップ十四世も、それに応えるように微笑んだ。


「ローフォーク子爵とロイソン子爵に会いたい。どうしても、お伝えしたいことがあるの……」

 深く青い両の目が見開かれた。

 エリザベス達も息を飲む。


 唖然として、身動きさえ出来ないフィリップ十四世に代わり、寝台の向こうにいるシャルルが戸惑いを浮かべながらも、マリーに答えた。

「分かったよ、マリー。無事にこの出産を乗り越えたら、二人を正式に招待しよう。だから、今は……」

「今です……」

「マリー」

 シャルルは困惑を浮かべていた。


「今、会いたいの」

「今は無理だ。お産の最中だよ」

「今、会いたいの!」

 マリーの叫びが産室に響き渡った。


 何処にそんな力があったのか、マリーは繰り返し訪れる痛みの中で、寝台に身を起こした。

 シャルルの袖口に両手で縋り付き、形振り構わず大粒の涙を流して訴える。


「私達は……、彼等の家族に謝らなければいけない!」

「マリー」

「お兄様、どうしてローフォーク家が追放されているのです? どうして、彼等のような献臣が、後ろ指を指されながら生きて行かねばならないのですか⁉︎ レティシアが暗殺犯と密通ですって? ローフォーク中佐が任務から逃げたですって? なんて馬鹿な話が罷り通っているの⁈ 私とお兄様が生きているのは、全て彼等の命と引き換えだと言うのに!」


 フィリップ十四世がアデレードを睨み、アデレードはおろおろと狼狽えている。

「わ、私はただ、カレルが近衛連隊に勤めていない理由を訊かれて……」

 答えてしまったのだ。エリザベス達が言えなかったことを、問われるままに偽りなく、正直に。

 マリーの様子は、その時から明らかに変わっていた。


「覚えていたのか」

 愕然としてシャルルが呟いた。

「思い出したの。カラマンに行ってすぐに。皇帝陛下の振る舞いが、お母様を思い出させた……。それから、何度も、何度も、あの日の悪夢を繰り返し見たわ。刺されて崩れるレティシアの背中も、私とお兄様に覆い被さって懸命に耐え続けてくれた中佐の力強い腕も、その向こうにいたお父様とお母様の姿も。それなのに……どうして? どうして、彼等の家族が不名誉を着せられているの……⁉︎ どうして‼︎」


 エリザベスの目に、マリーは錯乱して見えた。

 弱いながらも長引く痛みと精神的な衝撃を受けて、正気を保ち続けることが難しくなっていたのだろう。

 産室にいた者達は、髪を振り乱して泣くマリーを見守ることしか出来ない。


「マリー、止めなさい。マリー」

 国王の苦しげに絞り出された嗄れた声は、正常な判断を失っていたマリーには届かない。

「……一体……、彼等に何が出来たと言うの。剣なんて、抜けるはずが無いわ。だって、だって……」


「マリー、駄目だ。言ってはいけない」

「お母様を殺したのは、お父様なのだから!」

 シャルルの制止の声は、マリーの叫びに妨げられた。


 産室に、沈黙が満ちる。


 ……ああ。


 絶望の吐息がシャルルの口から漏れ出た。

 それと時を同じくして、今にも泣き出しそうに表情を歪めたフィリップ十四世は、両手で顔を覆い、蹲った。




                            第十一話 終わり

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