第十一話〜⑪
* *
夜深く。
淡い灯火の中で、ベルナールは青褪めて昼の光景を思い出していた。
午後のお茶の時間、突然押し掛けた王宮庭園の治安維持軍は、グラッブベルグ公爵邸を占拠した。
公爵邸の玄関ホールには、下級職・上級職関係無く使用人が全員集められ、一歩でも動くことを禁じられた。
何が起こったのか理解出来ないまま、ベルナールは第一連隊長であるフーシェ少将に幾つかの質問を受けた。
その質問の中で名が出た使用人達が別室に連れられて行き、やがて、慌ただしく隊員達が動いたあとで出てきた彼等は、その手に枷を填められていた。
毎朝父を乗せて馬車を走らせる御者。視線一つ仕草一つで父が望む動きをする優秀な近侍達。そして、妹が慕う侍女が、護送馬車へと押し込められて行く。
何がどうして、そのような事になるのか。
フーシェ少将に問い質すと、彼等は全員、妹アニエスの誘拐に加担したと判断されたのだと言う。
事前に誘拐犯に金を握らされ、アニエスをひっそりと宿泊施設から連れ出し、乗せた馬車を人目の少ない路上に移動させたのだそうだ。誘拐犯から父への脅迫の手紙を受け取ったのは、アニエスの侍女だった。
本格的な尋問はこれからだが、彼等がレステンクール人である可能性も含めて調査を行うのだという。
ベルナールは、アン王女のもとにいるだろう両親に連絡をしたいと願ったが、フーシェ少将に断られてしまった。フーシェ少将はベルナールの背丈に合わせて膝を折り、こう告げたのだ。
「公爵閣下は、とある御方への害意への容疑で、宮廷の一室にて留め置かれております。公爵夫人はその御方に付き添っておられる。これ以降は、ベルナール様もお部屋で待機していただきます」
そして、従僕のカナートとさえ引き離され、アニエスが無事に発見保護されたという報告を最後に、ベルナールは外部から隔絶されてしまった。
一人きり、食事は運ばれては来るが、お腹はちっとも空かない。
『とある御方とは、誰だろう。お祖父様のことかな。シャルルお兄様ではないと思う。もしかしたら、アン王女様のことかもしれない。父上はアニエスをシャルルお兄様と結婚させたがっていたもの。それとも……』
昨年末のシュトルーヴェ伯爵の襲撃事件を思い起こし、ベルナールは慌てて首を振った。
父が伯爵を目の敵にしていることは、子供であるベルナールでさえ気付いている。その敵愾心は、シャルルの結婚相手にアン王女が選ばれてから、より顕著になった。
未遂に終わった伯爵の暗殺は、その後に父の派閥の勢力を著しく弱めた。
いや、その前から伯爵との対立は、父を徐々に劣勢に追い込んでいたのだ。
子供とて、何も知らないわけではない。
強力な権力を有する家に生まれたベルナールには、取り入りことで地位を上げようとする貴族の子供達が集まってきた。
その子等が、親から得た情報を聞いてもいないのに喋々としてくれるのだ。
トビアスの密輸事件の黒幕がシュトルーヴェ家だと噂された事も、密輸を行ったのがシュトルーヴェ家の被後見人であるエリザベスの会社だという事も、彼等が教えてくれた。
当然、その逆もあり、軍務大臣派の子供達がグラッブベルグ領ビウスで起こった凄惨な強盗事件の噂を、ベルナールが聞こえる所で大声で話す。
それが原因で、一度ならず揉み合いになりかけた事もあった。
大事にならなかったのは、軍務大臣派の中心にいる伯爵の孫が、冷静に事態に対処していたからだ。
やがて、少しずつ周囲にいた同級生達は、ベルナールに距離を置くようになった。彼等の親が、父グラッブベルグ公爵の状況を見て、自分達の立ち位置を見直し始めたからだ。
別にそれで構わないと、ベルナールは思った。
威張り散らすのは好きではないのだ。
誰かを貶して悪口を言い、さも自分は優秀であるかのように誤魔化し満足することは、グルンステインの貴族に相応しい行いではない。
ベルナールがなりたいものは、祖父王のような偉大な軍人であり、従兄シャルルのような懐の深い貴族であり、ローフォークのような苦難にも負けない気高い魂を持った男なのだから。
『兄様に会いたい』
十月の追悼の日に手紙を出したきり、何ヶ月も返事はないままだ。アニエスが誘拐された時も、助けを求めて手紙を書いた。それにも返事は無かった。それまではどんな下らない事でさえも、手紙に書けばすぐに返事はあったのに。
送った手紙も、届いた手紙も、父親によって握り潰されているのだが、そこには考えが及ばない。
ローフォークが捕えられていることすら知らず、ただ、どうして……と、心細さで胸がいっぱいだった。
飴色の瞳から涙が溢れそうになった時、部屋の前で物音がした。
ややあって、静かに扉を開いたのは、治安維持軍の軍人だ。室内の灯りは淡く、顔をよく見ることは出来ないが、彼は緊張に強張るベルナールの傍にやって来ると、左腕の腕章を見せて告げた。
「第二連隊の者です。貴方様をここからお連れするように、ローフォーク少佐から頼まれました」
「カレル兄様から?」
「はい。少佐は大変心配しておられました。きっと一人きりで不安を抱えているだろうから、第二連隊の庁舎に連れて来て欲しい、と。それと、妹君をお救いしたのは、ローフォーク少佐です。アニエス様も目を覚まされ、兄君であるベルナール様にお会いしたいと仰っておられます」
途端に、目の前を覆う霧が晴れたような気持ちになった。
不安も、心細さも、たちどころに消えてゆく。
『良かった。カレル兄様は私を嫌いになったんじゃないんだ。アニエスも無事だ。兄様は手紙を受け取って、すぐにアニエスを捜し始めてくれていたんだ。手紙の返事を書く暇が無かっただけなんだ』
そう思うと、安堵感が満ちて一粒の大きな涙となって床に落ちた。
ベルナールは、袖口で雑に目元を拭って立ち上がった。
椅子の背凭れに掛けていた上着に腕を通すと、軍人の後ろについて部屋を出る。
廊下にいたはずの見張りが居なくなっている事を不思議に思ったが、軍人の「第一連隊もこの事は承知している」との言葉に素直に納得した。
第一連隊のフーシェ少将は、かつてローフォークが所属する第一師団の上官だった。
ベルナールは、さらに元気を取り戻した。
灯りの乏しい廊下を、軍人を見失わないように必死になって追いかける。
暗がりの隅に、見張りの隊員が倒れている事に、気が付かないままに……。
* *
ベルナールの行方が知れなくなった。
その報告は、フィリップ十四世を烈火の如く怒らせた。
「治安維持軍は何をやっておる。あの子を見ていなかったのか!」
激昂する国王の前に跪き、デュバリー治安維持軍団長とシュトルーヴェ伯爵は恐縮した。
現在、第一連隊は王宮庭園内に捜索部隊を展開し、庭園を囲む城壁の巡邏の強化を命じている。
ベルナールの失踪を、デュバリー軍団長は誘拐と断じた。
私室近くの廊下奥に、縊られた兵士達が隠されていたのだ。その内の一人は辛うじて息があり、治安維持軍の軍服を着た男に襲撃を受けたと証言した。いつの間にか傍にいた男に首を捻られて気絶した兵士は、直前に暗い赤毛を目撃していた。
「オリヴィエ・マートンで間違いないでしょう」
見目の特徴から、シュトルーヴェ伯爵はそう告げた。
アニエスを誘拐し、トビアスで銃の密輸を偽装し、ビウスで罪の無い商人家族を無惨に殺害した、レステンクール人の男だ。
郊外の公爵邸で取り逃がしたアニエス誘拐と同一の人物が、今度はベルナールを拐った。
「またしても、レステンクール人なのか……」
フィリップ十四世は茫然と呟き、崩れるように椅子に落ちた。王太子シャルルと侍従長が慌てて身体を支えた。
「お祖父様、この事は伯母上には」
「ならん。アニエスの無事が分かって安堵したばかりだ。夫の逮捕もあり、この上、息子が誘拐されたとあっては……」
だが、このまま誤魔化すことも出来まい。
犯人がベルナールをアニエスの様に何らかの交渉材料にするつもりならば、必ずこちらに接触してくるであろうから。
最早、何が目的かなど考えるまでもない。
これまでの全ての事柄に、レステンクール人が関わっているのだ。マリーの殺害を支持するカラマン皇妃の手紙が見付かったのであれば、彼等の望みはグルンステイン王国とカラマン帝国が袂を別つこと。
そして、最終的に両国を戦争に導くことだろう。
二つの強国が弱みを見せた瞬間に待ち受けているのは、周辺国からの侵略だ。
兎角、カラマンは現皇帝の容態が知れず、後継者争いが表面化しつつある。
「余は、一体何処から間違えていたのだ……」
吐露した祖父王の苦しみに、シャルルは唇を噛み締めた。
その時、フィリップ十四世達がいる部屋に、マルティーヌが現れた。
彼女は室内の様子に僅かに目を瞠るが、素知らぬ振りで一礼をした。
マリーが、祖父と兄にどうしても話したいことがあるのだと言う。
「今か。子供が産まれてからでは駄目なのか?」
フィリップ十四世は憔悴し切っていた。
それを認めながらも、マルティーヌは主君の望みを撥ねる。
「マリー殿下は、今を望んでおられます」
そして、一呼吸を置き、私見を述べた。
「私も、そうすべきと存じます」
その一言に、フィリップ十四世とシャルルは青褪めて顔を見合わせた。立ち上がり、二人はマルティーヌに続いて急ぎお産の場に向かった。
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